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ザクとは違うのブログ一覧

2019年05月14日 イイね!

駿府城、攻略

静岡ホビーショーと作品展示会を見終わった後、ホテルへ行くまでに少し時間があったので、急遽城跡めぐりをすることにしました。
静岡市の城と言えば駿府城
大権現様がおわした城で有名です。

今川氏が治めていた駿河国は武田氏が攻め落としましたが、その後武田氏が滅亡すると徳川氏が治めることになり、この時に築かれました。
その後いったんは豊臣政権に領有されたものの、江戸時代に入って再び徳川氏が治めました。その際、大御所となった徳川家康が隠居の地として選んだのがこの駿府城。
この頃の縄張りが現在残る遺構です。

特徴はまずもって本丸を3重に囲む堀。


いわゆる輪郭式平城です。
現在では最も内側の内堀はほとんど残っていませんが、中堀、外堀は当時の姿を留めています。

さらには諸大名を動員して作られた天守は史上最大規模(7階建て!)とも言われる豪壮さを誇りました。
さすが大権現様。
残念ながらその後の二度の火災により消失してしまいましたが、現在はその発掘調査(2019年度末まで)が行われています。



また、他の城にない見どころの一つとして、二の丸水路があります。

これは本丸堀と二ノ丸堀をつなぐもので、本丸堀からの水を外に出す目的で築かれています。水路両側と底は石垣になっており、底が洗い流されない構造で、大変珍しいものだそうです。
さすが大権現様。

そして現地での確認はしていませんが、石垣の石にはそれを運んだ大名の刻印がされているとのこと。
諸大名を動員して作ったことの証ですね。
さすが大権現様。

しかし残念ポイントもいくつか。
まずは石垣ですが、構造を保持するためとは言え、その多くがコンクリートで固定されています。災害対策等の目的があったとは思うものの、当時の姿が伝わらないのは少し残念です。
また堀を渡る橋も一部破壊されています。

発掘調査中の天守台や内堀も明治時代に陸軍歩兵第34連隊を誘致する際に破壊されたのだそう。
同じ静岡県内の浜松城は明治の廃城令で破壊されていますが、駿府城、お前もか…

災害からの復旧中の熊本城でも、先人の作った石垣の優秀さが復元を困難にしているとも聞きます。
そんなことを考え合わせると、安易に遺構を潰してしまうべきではなかったのではないかと思わざるを得ません…。

とは言え、それで駿府城の歴史的価値や意義が下がるわけではありませんけどね。

現地の写真は、フォトアルバムに収めました。
興味のある方はご覧ください。
駿府城
Posted at 2019/05/14 22:31:58 | コメント(0) | 城めぐり | 趣味
2019年04月20日 イイね!

蕎麦とお城とスタンプラリー

昨年あたりからハマりつつあるスタンプラリー。
「スタンプラリー協会」なる組織もあるらしく、そのHPでは全国のスタンプラリーがチェックできます。
そんな中で先週行った美濃市の観光案内所でこんなチラシを見つけました。


各チェックポイントでスタンプを押すと先着でグッズなどがもらえるとのこと。
今回は戦国武将コースの岩村城跡と苗木城跡を訪問することにしました。
両城跡とも以前に行ったことがあるので、今回はグッズをもらうのが目的(笑)
岩村城では缶バッジが、苗木城ではクリアファイルがもらえました♪


最近、山城に興味を持つようになっています。
全国にある城跡のうち9割は山城だとか。
「戦う城」としては地の利を活かした山城のほうが、平城や平山城に比べて戦闘色が強く「これぞ城!」という印象を持っています。
そうした痕跡をたどりながら城の縄張り(施設などの配置)や城下町の作り、さらにはそれらに関わる人たち(築城主、大工さん、城下町に住む人々など)の想いまで想像しながら散策するのが楽しいと感じています。
その意味では両城とも地域の拠点となるものであり、次回訪れる時にはもう少しじっくりと観察&まちあるきしてみたいと思います。

そしてお昼。
今回はみん友のぷりぃすとさんからずっと前に教えてもらった、「はざま」へ行きます。
苗木城を後に、北へ向かい付知まで行き、細い道路を暫く進むと到着するという秘境のお店です。
お店に行くには吊橋を渡ります。



川沿いに作られたテラス席に座るとこんな景色が見られます。




景色を眺めながら待っていると、注文した「岩魚蕎麦」が来ました。


ニハで打ったという蕎麦はしっかりとしたコシがあり、甘露煮の岩魚も頭から食べられます。
しかも視線を外へ向けると先程の素晴らしい景色。
これはもう、美味しくないはずがありません。
(ぷりさん、いい店を紹介していただき、ありがとうございました。)

城跡めぐりについては100名城や続100名城を制覇しようなどという野望まではありませんが、機会を捉えていろいろな城巡りを続けていきたいと思っています。
さて次はどの城へ行こうかな~(^^)


今回の撮影した写真は、フォトアルバムに載せました
GifuGoal10スタンプラリー&蕎麦
Posted at 2019/04/21 17:42:36 | コメント(3) | 城めぐり | グルメ/料理
2019年03月09日 イイね!

2019年初キャンプ 「赤木城」編

「車で行く瀞峡」を楽しんだ後は、お昼ご飯。
道の駅「九郎兵衛の里」で地ものを楽しみます。


熊野地鶏の親子丼とめはり寿司です。
地鶏は柔らかくて、ご飯との相性はバッチリ。
めはり寿司は、寿司という名前ですが酢飯ではありませんが、鰹節と細切れのシソを混ぜ込んだおにぎりを高菜の葉で包んだもので、この地域のソウルフード。大変美味しゅうございました♪

そこで何気なしに手にした観光案内に「天空の城・赤木城跡」の文字が。
しかも道の駅から車で10分の至近距離。
行くべし!
そして行きました。



この城の最大の売りは石垣。




基本的には野面積みですが、角の部分は算木積みになっており、城の規模にしては立派な石垣です。
しかも1589年の築城当時の石垣がほぼ原形をとどめているのだそうです。
築城主は藤堂高虎。
豊臣・徳川両政権下で働き、「築城の名手」と言われた武将です。

城全体の構造も、本丸を中心にして左手に東郭、右手に西郭、その間に南郭、後ろに北郭をそれぞれ配置し、本丸・西郭・東郭の配置はさながら鶴翼の陣のようです。

↑は、手前の低い部分が南郭、右手が東郭、左手が西郭、そして奥に本丸。
わずかに本丸の石垣が見えますね。

小さな城ではあるものの、随所に様々な工夫が取り入れられており、高虎の縄張りの上手さと築城技術の高さを伺わせるに十分だと思われました。

ここで一つ疑問が。
赤木城のあたりはかなりの山奥で、大きな集落もなく、交通の要衝でもありません。
そこになぜこんな城を作ったのか。

現地の説明板には「一揆方を成敗」したとあります。
確かに一揆の勢力ならさほど大人数ではない(多くて100人程度?)でしょうし、組織的な戦闘ができるほどの結束力があったとも思われません。
その点ではこぢんまりした城の規模にも納得がいきますが、一揆成敗のためだけにこれだけ立派な石垣を組むとは思えません。
さらに突っ込んで調べると、ここが戦略上重要なエリアだったことが分かりました。
この地域は林業が盛んで材木が多く採れたほか、近隣には有数の銅山もあったそうです。つまり貴重な資源を調達するための軍事拠点の一つ。

なるほど、それなら名手を派遣してでもこの地を確保する必要はありますね。
そんな奥深い歴史のある赤木城は、2017年に「続・100名城」にも選定され、近年では朝霧に包まれた「天空の城」としても名を馳せるようになりました。

この近くには、城と関連のある「田平子峠刑場跡」や、太閤検地と関連する「丸山千枚田」もありますが、今回は時間の関係で訪れることができませんでした。
これらもまた次回のリベンジの際、立ち寄ってみたいと思います♪


今回の撮影画像はフォトアルバムにまとめました。
城の詳しい説明も加えてありますので、興味のある方は御覧ください。
瀞峡&赤木城
Posted at 2019/03/09 22:57:26 | コメント(2) | 城めぐり | 旅行/地域
2019年01月15日 イイね!

浜松城&曳馬城の攻略

ジオラマファクトリーでは最低1時間、最長2時間くらいの滞在時間を想定していましたが、その変貌ぶりに少し落胆し、30分程度しか時間がかかりませんでした。
でもこのまま直帰するのも…

ということで、すぐ近くにある浜松城へ立ち寄ることにしました。
城は浜松市役所のすぐ裏手にあり、一帯が公園になっています。


この城は日本城郭協会による「続日本百名城」の一つに選定されています。
なお、城ごとの選定理由は明らかにされていませんが、選定基準としては
 (1)優れた文化財・史跡であること
 (2)著名な歴史の舞台であること
 (3)時代・地域の代表であること

の3点です。

浜松城は、一時期、徳川家康が本城としており、その期間中に武田信玄と徳川家康・織田信長連合軍が戦った「三方ヶ原の戦い」が起こっています。
その戦いで連合軍は大敗し、浜松城に戻り「空城の計」により武田軍の追撃を逃れます。その際、この大敗を忘れまいとして戒めのために描かせたと言われているのが、こちらの有名な肖像画です↓

※ただしその由来には諸説あり、近年では三方原説は否定的なようです。
こうした点に加え、城が政令指定都市・浜松の中心部に位置し、支城である掛川城・高天神城と合わせて防衛ラインを構成していたことなどから、選定基準に該当すると考えられたものと思われます。

ただ、城の縄張りはかなり広範囲に及ぶものの、そのほとんどが既に市街化されており、二の丸などのあったあたりには浜松市役所が建てられているなど、その遺構はほとんど残っておらず、天守閣付近の石垣がその姿を留める程度です。

城内にはガイドボランティアさんがいらっしゃったのでお話を聴きました。
お城の一般的な説明を受けた後、その方はこうも話されていました。

浜松市は以前は産業の街だった。でも今ではそれも元気がなくなっていて、町に活気がなくなってきている。
そうした中でどうやったら人を集められるだろうかと考えると、「歴史」という切り口があるのではないかという話になった。
でも太平洋戦争末期に度重なる空襲や艦砲射撃を受けたことに加え、産業育成を優先して歴史的文化的な遺産を次々と壊してきた経過があるので、貴重な資産がほとんど残っていない。


ん~、なんとも寂しい話ですね。
確かに浜松にはホンダやヤマハ、河合楽器、浜松ホトニクスなどの大企業が数多く立地し、まちづくりにも積極的だったイメージがありました。
すぐ近くの大国でも一時同様のことがありましたが、成長優先で貴重な遺産を破壊してしまう。とても残念でとてももったいないことです。

歴史的な遺産を残すことへの賛否があることは分かりますが、個人的には「歴史に学ぶ」部分は必ずあると思っています。

閑話休題。

この城の一番の見所はやはり石垣でしょう。
野面積みと呼ばれる工法で積まれた石垣は大変立派なもので、長年の風雪にも耐え続けています。門の脇には、城主の威光を知らしめるが如く、巨大な石が配置されています。


天守閣は3層4階建てとして再建されていますが、1510年前後の築城時にどのような天守があったかは不明だそうです。

画像でも分かるように、石垣の大きさに比べて天守が小さく作られています。恐らくもっと大きな天守があったのでしょう。

実は浜松城、もともとはすぐ近くにある曳馬城を前身にしています。
ついでなのでそちらも訪問。

残念ながら遺構はまったく残っておらず、わずかに画像にある碑が建てられているだけ。
敷地内には東照宮が建てられています。東照宮と言えば日光か久能山だと思っていましたが、浜松にもあるんですね~。
また、こんな像もありました。

中央に立って写真を撮ってもらうと、秀吉や家康のように出世するかも?

そんなこんなで浜松城と曳馬城の攻略は、少しあっけなく終了しました。


現地の写真はフォトアルバムに収めました。
浜松城&曳馬城
Posted at 2019/01/19 10:13:39 | コメント(3) | 城めぐり | 旅行/地域
2018年06月30日 イイね!

高天神城を攻める

あれは私が高校生の頃。
歴史の先生が宿題を出しました。
「自分の先祖を調べてくるように」
父の実家に行った際に話を聞くと、どこからともなく虫食いだらけの古文書が出てきて、「ザクとは違う家はその昔、高天神城の戦いに参加し、負けて帰ってきてこの地に根を下ろしたのだ」というようなことを教えてもらいました。
翌日、家族で高天神城へ行ったことを、うっすら覚えています。

時は流れ、私ももう50。
来し方を振り返る場面も増えました。
その中でふと「高天神城を再び訪れてみようか」という気になりました。
場所は静岡県掛川市。
位置関係的にはこんな感じです。

つまり北へ行けば信濃(武田信玄)、東へ行けば駿河(今川義元)、西へ行けば三河(松平家康・織田信長)という交通の要衝にあり「高天神を制するものは遠州を制する」とまで言われたそうです。

さていよいよ攻城。
全体像はこんな感じです。

尾根伝いに曲輪が配置されています。

北にある搦手に大きな駐車場があるので、そちらから入ります。
すると早速大鳥居がお出迎え。

そう、この城は名前の通り、もともと神社だったのです。
そして石段を登る途中には三日月型の井戸が。


なぜか金魚が泳いでました(笑)

この城の特徴は四方を断崖絶壁に囲まれていること。

このような地形が自然にできたとは考えづらいので、築城の際、大規模な土木工事が行われたのかもしれません。

次に二の丸。

こちらは西の丸と堂尾曲輪の間に配置されており、本丸とは反対側にあります。
三の丸が本丸のすぐ近くにあるので、実際には二の丸と三の丸が逆の配置ではなかったのかなとも…

二の丸奥にある堂尾曲輪の向こう側は、このように堀切が施工されています。

当時は向こう側の曲輪とつなぐ橋がかけられていたとか。
敵が尾根伝いに攻め寄せてきたら橋を落としてしまう戦略です。
二の丸下にも同様の施工がされていますが、こちら側は第二次高天神城の戦い(武田勝頼が攻めたもの)の際、比較的緩斜面の二の丸北側から城を攻め落としたため、落城後武田氏が防御力強化のために作ったものなのだそうです。

本丸と二の丸などをつなぐ中間点には井戸曲輪があります。

覗き込んでみましたが、水があるかどうか分かりませんでした。
その脇には小さな神社が。

横の立て札には「結ぶ結ぶ結ぶ」と唱えるとあらゆる願いが叶うというようなことが書かれていました。
凄まじい神通力!
え?何をお願いしてきたかって?
そりゃもう

「ガンプラ製作がうまくなりますように…」

に決まってますよね(爆)

西の丸には高天神社があります。

以前は本丸の位置にあったようですが、築城に伴い、移設されたそうです。
西の丸から少し降りたところに馬場平があります。
こちらから臨んだ景色は↓

遠州灘がキレイに見えました♪

そしていよいよ本丸方面へ。
本丸すぐ近くには的場曲輪跡があります。

名前からは射撃練習場のようなイメージを受けますが、発掘調査では地面に石が敷き詰められていたことが判明していることから、火薬庫だったのではないかと思います。
わざわざ山を登って射撃練習するのも変ですよね(笑)
そしてこちらは御前曲輪跡。

なぜか書き割りがw
後ろにコンクリート製の土台が見えますが、これは明治ころに模擬天守を作った時のものだそうです。
ググると当時の天守の画像が出てきますが、あまりにも小さく、そして貧相(失礼)ですし、そもそもこの時代に天守を作った城は、そう多くありません。

そしていよいよ本丸。

端には築山が作られており、簡易的な虎口のようになっているので、敵が直線的に進むのを防ぐ工夫がされています。
でも本丸まで攻め込まれている時点で負けですよね…

さて、ここまでが攻城戦。
全体としては、以下のような感想を持ちました。
・断崖絶壁に囲まれた城はまさに難攻不落
・規模自体はさほど大きくない

もう少し涼しい時期なら、もっとじっくりと城内を巡ると、「築城主はどのように考えて縄張りを作ったのか」「自分ならどう攻めるか」「自分の先祖はどこでどう戦い、どこから落ち延びたのか」「城の周辺はどの様になっているか」などに思いを馳せることができたかも。

ところで少し前まで山城に登るたびに思っていたこと。
「あんなに木がたくさん生えいていては、敵がどこから攻めてくるか分からないのでは」
違いました。
当時は築城の際、山の木々をすべて伐採して丸裸にし、その上で城の施設を作ったのです。
つまり山城を作る=大規模土木工事。
すべて人力でこれだけの施設を作るのはさぞ大変だったでしょうね。
Posted at 2018/07/01 07:47:09 | コメント(3) | 城めぐり | 旅行/地域

プロフィール

「重巡鳥海の製作(船体の修正その5) http://cvw.jp/b/488285/48485437/
何シテル?   06/14 16:51
模型工作とキャンプが大好きなヘタレをやぢです。 私がフォローする方には2種類あります。 一つは「以前からのみん友さん」 もう一つは「ちょっと興味を持っ...
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