その3
火薬庫跡から先へ進むと…

巨大です。
極めて狭い階段を慎重に登っていくと…
貯油庫とのことです。
奥に伸びるトンネルでどうやって油を貯蔵するの?と思いますよね。どうやらこのように使っていたようです。

トンネルの奥に向かってこのようなタンクを並べていたと思われます。

入口手前にある円形の構造物は油の出し入れに使う設備の台座でしょう。
同様の施設がこの奥にもいくつかあるようですが、いずれも民地なので入ることは出来ません。
そのすぐ隣にも地面の高さで作られた同様の施設がありますが、こちらは安全上の理由で閉鎖されています。

恐らく↓の古写真と同じ場所でしょう。

近年は各施設の劣化が進んだため次々と閉鎖処理が進んでいるようです。折角残された遺構であり、愚行への反省のためにも出来るだけ残してほしいものです。
そこから道沿いに先へ進むと小さな小屋があります。

現在は倉庫として使われているようですが、建物の大きさの割にはしつがりしたコンクリート壁で作られています。
何らかの軍の施設だったと推定できます。
そのすぐ隣にはこちらが。

魚雷調整庫だそうです。
奥の一段上がった場所に調整用の道具を置いていたのでしょうか。
先程の小屋は魚雷の信管保管庫かもしれません。
調整庫の前の地面は何かの基礎だったようなものが。

規則的に並んでいるので、調整庫関係のものでしょう。
更に進むと桟橋があります。

この桟橋の陸側一定の距離までは戦争当時に使われていたもので、その先は戦後に延長されたものです。
陸地に近い場所なので、小型の船舶が横付けしたのだろうと思います。例えば、貯油庫や火薬庫が近いことからそれらの運搬船や、艦船の乗組員の半舷上陸用とか。妄想が膨らみます(笑)
桟橋付け根から少し陸地に入った場所にこのような構造物が残されていました。

草に埋もれて頭しか見えていませんでしたが、どうやら船舶を繋ぎ止めるための柱と思われます。事実、当時の図面にもそれを示す表記が見られます。

柱はもう1箇所表記されていますが、そちらは無くなっていました。
ここから更に海沿いに進むと恵比寿神社入口があり、その脇には「魚雷艇整備場」と看板のある横穴があります。

残念ながら内部には入れませんが、特攻艇「震洋」の整備場だったようです。震洋は全長5mのベニヤ製モーターボートで艇首に250kgの爆薬を内蔵しそのまま敵艦に突っ込むという完全に頭のおかしい殺人兵器です。
震洋の最高速力は16ノット。鈍重なイメージの戦艦ですら30ノットを出すので、追い付くどころか引き離されて銃撃され放題。こんなものを6000隻以上も製作したそうです。
旧日本軍は震洋や人間魚雷回天などの特攻兵器で日本民族を消滅されるつもりだったのでしょうか。
その4に続きます。
Posted at 2022/11/19 10:07:31 | |
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