無事、石垣山城を攻略したので、次はいよいよ小田原城です。
お城と言うと多くの方は立派な天守閣とその周囲の本丸や水堀を思い浮かべるのではないかと思います。小田原城もそのような場所が公園となっていて自由に出入りできるようになっています。
しかしこの城の最大の特徴は「総構え」です。
総構えとは、城の施設の周囲を取り囲む町並みや農地など全体を堀や塀などで取り囲んでしまうという作り方。こうすることで、長期の篭城戦に耐えられるようになります。
まずはその外郭部分の堀を攻めてみます。
本丸から北西方向へ1kmちょっと行ったところにある観光用駐車場に停めて、見学開始。
すぐ近くに小峯御鐘の台大堀切があります。

これはすごい…。
現在の高さは7~8mくらいですが、これは400年以上の歳月の風雨で堀底が埋まってしまった結果で、当時は10m以上の高低差があったそうです。
しかも関東ローム層は粘土質なので、45°以上の急斜面は滑りやすく登りづらい。更には堀底にワッフル状の構造物・いわゆる障子堀が作られていたので、兵の移動範囲も限られます。
階段が作られている場所を登っていくと堀の内側に至ります。そこはこんなに広大。

これだけ広ければ、かなりの大軍を配置することか出来ます。
堀だけでも恐ろしいのに、更に大軍から鉄砲や矢、石などを打ち掛けられるのだと考えると、この城の攻略には100万の大軍をもってしても不可能ではないかと感じました。
ここ以外にもいくつもこうした堀跡が残っており、総延長9kmに及んでいたそうです。
総構え、恐るべし…
総構えの内側には小田原古城もありました。
現在の小田原城からJR線を挟んだ反対側のあたりにあったそうで、現在は城山公園とされる小高い丘の上です。このあたりは市民の使うテニスコートやグランドなどや小田原高校が立ち並んでおり、週末も高校生の声が聞こえるという環境。
そんな場所の一角に古城の跡がひっそりと残っていました。
途中、高校のグランド脇を歩いていると、高校生から「こんにちは!」と明るく声をかけられて少し怯んだのは秘密です(*^^*)
でも気持ちのいいものですね。
さて次はいよいよ城の中心部へ入っていきます。
ちなみに現在の天守閣や門などの配置や構造物は江戸時代のものであり、戦国期の小田原征伐時のものとは異なります。小田原征伐時には本丸などに石垣は使われていなかったようで、江戸時代に大久保氏が城主になって以降、関東で初めて総石垣作りとされたのだそうです。
推奨ルートは東側から。周囲には広い水堀が広がっており、頑丈な橋がかかっていますが、当時はすぐ落とせるように木製でした。その奥には大きな馬出門があります。
ここは馬屋曲輪となっていますが、まっすぐ行った正面には壁がなく、水堀がある向こう側に二の丸の壁があります。これは二の丸側から壁越しに鉄砲や矢を打ちかけられるようにするための作りです。
そこを左に折れるとまた門があり、そこを抜けると広大なエリアが広がります。
ここの角には隅櫓があったようですが、再現はされていません。
馬屋曲輪の周囲は高さ2mくらいの土塁が築かれていますが、その上にあがるための斜めの石段が作られていました。

現在はきれいに積みあがっていますが、当時はもう少し荒っぽい作りだったそうです。斜めの石段は他の城では見たことがなく、珍しいものです。
その隣には御茶壺曲輪が広がります。
さて、馬屋曲輪に戻って立派な銅門(あかがねもん)をくぐると、その先にはこれまた広大な二の丸が広がっています。
敷地内には小さな資料館(歴史見聞館)も建てられています。中には入りませんでしたが、きっと貴重な資料が数多く所蔵されているのではないかと思います。
二の丸から本丸を挟んだ反対の西側には、二の丸から一段下がって児童遊園が作られています。
小さな汽車などに乗ることが出来るので、子供達には人気でしょう。少し前に行った小牧山城にも同様の施設が作られていた時期があります。お城が市民の憩いの場として認識されていたことの証左でしょうね。遺構が破壊されてしまうという問題はあるものの、小さな子供時代からお城という世界に親しむという点では意味のあることかもしれません。
そしていよいよ本丸へ。
本丸の周囲は大きな堀が築かれており、中に入るには木橋を渡っていく必要があります。

立派な木橋ですが、大正13年の関東大震災で崩れてしまったそうで、現在あるものは当時より2mほど低い位置に架けられているとのことでした。
その先には桝形が作られ、そして巨大な鉄の門・常盤木門(ときわぎもん)があります。
たいそう立派な門で、よく見ると鬼瓦には三つ葉葵があしらわれていました。

徳川の時代に作られたということがよく分かりますね。
その先にはこれまた広大な本丸があります。
これほど広い本丸の敷地になっているということは、天守閣手前のエリアに賓客対応用の御殿が作ってあったのでしょうね。当時を思い起こさせるような風景です。
そして天守閣。
舐めまわすように見てしまいました(笑)
巨石を積み上げた豪壮な石垣、その上に立つ3重4層の建物。地面からの高さは国内で2番目なのだとか。石垣だけで相当高さを稼いでいるとは思いますが(汗)
普通の人ならこの勢いで天守閣内部を見学し、最上階から小田原市街を眺めるという流れになりますが、私はここで退散。
私の場合、天守閣や櫓などの建物よりも、総構えのような大規模土木工事に興味を引かれる性質でもあるし、防衛拠点であるお城が攻められたという状況の中で、本丸や天守閣にどんな防御施設を備えていようが、そこまで攻め込まれている時点で敗北確定なので、そこに興味がわかないのです…。へそ曲がりでスミマセン<(_ _)>
その後、少し東へ移動して総構えの土塁へ。
新玉小学校脇に当時の土塁が残っているのですが、実はその一か所に太平洋戦争末期の米軍空襲による弾着跡が残っています。
差し渡し10m以上はあろうかという広範囲にわたって大きく土塁がえぐられており、その威力の大きさをまざまざと実感させます。そしてこの空襲により数名の方がお亡くなりになっています。やはり戦争は恐ろしい。
さて、2か所の城攻めをがっつりと行って一汗かいた後はやはりお風呂!
弾着跡からほど近い場所に地元で愛される銭湯があるので、そこへ立ち寄りました。
入湯開始時刻すぐに行ったのですが、既に満員で入れず、少し待ったあとにようやく脱衣場へ。
番台は昔ながらの男女脱衣場の真ん中にあるタイプ。昭和感バリバリの世界にちょっとほっこりします♪
決して広くない浴室内には蛇口が8か所程度あり、ケロリン桶で流します。
浴槽も4~5人入ればいっぱいになるような小さなもので、その壁には富士山や松の木が描かれていました。昭和~♪
こうしたお風呂には地域のお年寄りばかりが集まっているのが一般的ですが、ここはそうした人たちに加え、30~40代の若い人たちが多く利用しており、その人たちが体の不自由なお年寄りが立ち上がる際に手助けするという姿さえ見かけました。なんと暖かい人たちなんだろう…。小田原、いいところですね(^^)
この日は少し東に走ったとある公園駐車場で車中泊。
翌日はいよいよ「ろうがんず杯2025」本選です!
★小田原城の画像の数々はこちらに保存しました。
小田原城(神奈川県小田原市)
Posted at 2025/04/26 11:40:27 | |
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