あまり朝ドラを熱心に観た事は無かったのですが、今回の「エール」は毎朝楽しみに観ております。皆さんご存知の通り、日本の大作曲家である古関裕而先生の物語ですが、やはり誰でも知っているのはこの「栄冠は君に輝く」ではないでしょうか。
時に清々しく、時に力強く、時に優しい古関先生の美しい旋律は、大変な時代からここまで頑張って生きてきた日本人にとっての文字通り「エール」なのだろうと思います。私などは親の年代が高かった影響で、登場する全ての楽曲を知っているという珍しい昭和46年生まれではないかと思うのです。
改めて聴いていると美しい旋律は勿論ですが、歌詞の日本語の美しさに感動するのです。今はあまり使われない響きのものもありますが、本来の日本語の持つ言葉の美しさというものを現代人は忘れてはいけないように思います。
そしてそれを歌う当時の歌手の方の発音と滑舌の良さは素晴らしいものがあります。私自身は10代の頃、日本橋三越で偶然にも藤山一郎さんの生歌を聴く機会がありまして、今にして思えば何と言う貴重な体験だと自慢出来ます。
さて、車の世界に目を向けると、やはり昭和の時代から続くクラウンのセダンがそう遠くないうちに生産を終了するというニュースが先週飛び込んで来ました。
恐らくは現行モデルが思っていた程に販売台数が伸びなかった為に、今後の可能性を様々なカタチで模索する中での生産終了という選択肢がニュースになったのだろうと思うのですが、実際こうした形でニュースになるところを見る限りは信憑性のある報道なのだろうと思います。

私自身、現在新旧で乗る程にクラウンに関してはヘビーユーザーだと思っています。それは私の業界では「公」と「私」を完全に分ける必要があり、それは建前ではあってもクラウンは一番都合の良い存在だと考えます。
我が家のエステートの頃の17系と呼ばれるモデルまでは保守本流というキャラクターのクラウンであり、これは販売面でも好調だったように思います。その後のゼロクラウンあたりからはユーザーの高齢化に危機感を持ったという理由でスポーティー路線にチェンジして、現行モデルに至っては完全にスポーティー路線のアスリート系を中心に据えたラインナップとなりました。
さて、ゼロクラウンあたりでは大成功したかに見えたスポーティー路線ですが、現行モデルの販売不調を見ると必ずしも正解だったとは思えないのであります。
そもそもこの路線は30年以上前に日産がセドリック・グロリアにグランツーリスモを登場させたのと同じパターンですが、それはクラウンに比べればセドリック・グロリアユーザーのほうがアグレッシブなユーザーが多かった事が大いに関係あるように思うのです。事実私などはロイヤルサルーンという名称が廃止された現行モデルを見ても魅力を感じない訳で、もっと言えばクラウンをニュルブルクリンクで鍛えて輸入車を横目で追う必要性を感じないのです。
都心でクラウンに乗るユーザーは何人も知っていますが、今のスポーティー路線のクラウンには否定的な方ばかりであります。事実こうしたキャラクターを求めるユーザーが皆無とは思いませんが、それはどちらかと言えば新車購買層ではなく数年後に中古購入するセカンドorサードユーザーの嗜好ではないでしょうか。
ここまでニュルで鍛えて売れないのはユーザーがおかしいとトヨタが考えているか否かは謎ですが、少なくともクラウンはミニセンチュリーなキャラクターが相応しく、スポーティー路線をやりたければレクサスで作るべきだったと思います。ユーザーの高齢化もあるでしょうが、もはや今の日本では若者は高額な車の購買層とは成り得ない訳で、「法人需要はアルファードがあります」というのはユーザーのセダン離れではなくメーカーのセダン潰しではないかと考えます。事実クラウンの内装を見ると17系は良かったものの、その後のモデルはクオリティの低下が著しく「本気で作る気あるのかね?」と感じます。
最初のお話に戻って古関裕而先生の曲を聴いていると、今は薄れてしまった美しい日本人の心を思い出します。そうした部分が今回の朝ドラを切欠に注目される事は実に素晴らしい事であります。
それと同様に今後は嘗ての端正な佇まいで新しいクラウンが登場するのを見る事は出来ないのかも知れませんが、妙なSUVにクラウンの名前を冠するくらいならばブランドそのものを廃止したほうが良いとまで思います。
私自身は相当難しいと思っておりますが、もし来年東京オリンピックが開催された時の入場行進曲には昭和39年と同じオリンピックマーチが流れたら感動で泣いてしまうと思います。実際は同一都市で開催される場合は同じ曲の使用が出来ないというIOCの内規があるようですが、今こそ車でも何でも原点回帰が必要な時期に入っているように思うのです。
Posted at 2020/11/16 20:44:10 | |
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