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すた☆君のブログ一覧

2020年09月29日 イイね!

93歳で関ケ原合戦へ参戦した弓の名手 ~大雲寺~

美濃の国 関藩主 大嶋光義(大嶋雲八 おおしまうんぱち) は、弓の名手で、93歳で関ケ原合戦へ参戦しました。

徳川に恩があるという事です。

私思うに、関ケ原合戦に参戦した侍の最高齢ではないでしょうか。

岐阜県関市の「大雲寺」に、大嶋雲八の墓所があります。

Posted at 2020/09/29 18:57:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域
2011年04月05日 イイね!

本多忠勝の墓参り ①

本多忠勝の墓参り ①先日、岐阜の戦国歴史友達と、三重県の桑名市へ行ってきました。
目的は、本多忠勝(ほんだただかつ)です。

桑名城は忠勝の城です。
関ヶ原合戦の後に造りました。

彼は大変な人気戦国武将で、『戦国バサラ』では、ロボットみたいに描かれていて、家康を乗せて空を飛びます。
(笑)

城跡を見た後、忠勝のお墓まいりに行きました。
彼の墓を目にした時、物語の中の人物ではなくて、本当に実在していた人物なんだなあと身近に感じました。


続く
Posted at 2011/04/05 17:14:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域
2010年05月23日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その14  可児才蔵

先日、講習会でもらったガイドブックに、

『関ヶ原の合戦の開始時、先方を奪われた・・・』
 というエピソードが書かれていたので、今回は彼をピックアップしてみました。

^^


関ヶ原合戦武将ファイル その14     可児 才蔵 (かに さいぞう)


1554年、 岐阜県可児市生まれ

槍の達人

主を転々とし、福島正則に仕える。

1590年、小田原征伐の時、北条氏規を震え上がらせた。



≪関ヶ原の合戦≫

福島隊に所属し、先鋒隊長を任されていたが、井伊・松平の隊に出し抜かれて、大変悔しい思いをした。

笹の木を背中に担いで戦った。

合戦中、敵を倒しすぎて、腰に首を巻ききれないので、倒した敵将の首の口に、笹の葉っぱをくわえさせて目印にした。
敵を17人も倒した。

以後、笹の才蔵として広く知れ渡る。



≪合戦後≫
安芸国(広島)へ加増移封され、生涯をすごす。

晩年 60歳。

甲冑を着て、床机に腰掛けたまま死去した。

若き頃より愛する権現様の縁日に死ぬと予言し、その予言どおりに、その日に死んだらしい。







≪面白いエピソード≫

長久手の戦いで退廃した時、真っ先に逃げた。

殿様(秀次)に、『お前の馬をわしによこせ!』と言われたが、断って逃げた。



部下思いで、活躍した部下にはたくさん褒美を取らせた。



もう若くないのだからと周囲に言われると、

『老衰するのは人による。』 と、笑いながら答えた。



しかしさすがに、槍は重く、部下に持たせていた。

それを部下が冷やかすと、その首をはね落とした(どこが部下思い?)。






≪墓所≫

広島県広島市の『才蔵寺』

ここには、可児才蔵の像と、味噌地蔵というお地蔵様がある。

味噌地蔵とは、才蔵が、福島家改易の際に、幕府との一戦に備えて、味噌を蓄えた事に由来している。



福島正則は、合戦後、豊臣恩顧の大名であることから、家康にうっとおしがられ、『無断で自分の城を修理した』と言いがかりをつけ、福島家は取り潰され、正則は城無しになり、晩年は静かに人生の幕を閉じた。




『味噌をこの地蔵の頭の上に置き、祈願すると、入試に合格する。』

ということで、合格祈願のお寺として、地元の学生たちに人気があるらしい。





私の周りにも、『もう若くないんだから。。。』という、じじくさいセリフをはく友人が時々おりますが、才蔵のようなセリフをはいてみたいものです。


『そんな事を言っているから、お前は年寄り臭いんだよ。一緒にするな!!』
と。

(違う?)


(笑)
Posted at 2010/05/24 10:17:45 | コメント(3) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域
2010年05月19日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その13 竹中重門

今回は、地元の英雄・・・に、スポットを当ててみようと思いました。

関ヶ原駅のプラットフォームの看板にも、東軍を代表する5人の武将として、徳川家康、島津、井伊直政、福島正則らと共に、彼の名前も書かれていたほどですし(くっ苦しい)。。。

(本多忠勝ですら書かれていなかったけど)



関ヶ原合戦武将ファイル その13


竹中重門 (たけなか しげかど)




彼は、竹中半兵衛の息子で、黒田長政の幼馴染です。


≪関ヶ原合戦≫
最初は、西軍に所属しており、犬山城の石川氏を援助したりしていたが、井伊直政(彦根を作った鬼)の仲立ちにより、東軍に加わった。




合戦中は、石田光成が陣取る笹尾山の左翼の正面の丸山に、黒田長政と共に陣取り、最激戦地で戦った。




ここで、のろしがあがりました。




きっと、笹尾山から、巨大な爆音と共に、大坂城から運ばれてきた大筒の玉が何発も飛んできて、ぶったまげたことだろう。







山内一豊らに倣い菩薩山城を家康に差し出した。



竹中・黒田陣跡から見える 『 松尾山の小早川秀秋陣』



小西行長を、村民から引き取り、東軍に引き渡した。



墓所は東京の泉岳寺。




林羅山に師事し、文筆にも優れていた。

豊臣秀吉の伝記 『豊鑑』を書いた。





写真 右から
北天満山 (宇喜多秀家・小西行長)
南天満山 (大谷吉継)
左端は松尾山 (小早川秀秋)
笹尾山 (石田光成) はもっと右にあります。




眼下に、東軍の井伊直政・松平氏の陣跡が見えます。




・・・す、すげー、小西行長、捕らえたんだー!!

そりゃやっぱり、駅の看板に名前載るよなー!!

おやじも竹中半兵衛って、すげーよなあー!!

\(゜□゜”)/








おちまい♪
Posted at 2010/05/20 13:00:57 | コメント(1) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 趣味
2010年05月18日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その12  小西行長

関ヶ原合戦武将ファイル その12  小西行長もうすぐ、関ヶ原史跡講座が始るので、そろそろ気合を入れておこうと思い、しばらくお休みしていたこの企画を再開することにしました。

今回は、西軍の武将、小西行長です。

調べていて、彼の史跡が関ヶ原近辺にたくさんあることが分かり、驚きました。

行きたいところ、どんどん増えていきます。

(笑)




関ヶ原合戦武将ファイル その12 小西 行長 (こにし ゆきなが)






1555年 境の薬商人の息子として生まれた。

両親の影響で、キリシタンとなった。

キリシタンとしての名前 『アウグスティヌス』



豊臣政権時、船奉行として、水軍を率いた。

小豆島一万石の大名となった後、高山右近やキリシタンをかくまった。


肥後 宇土城という水城を築城した。



≪天正天草合戦≫
キリシタンと戦ったが、自分もキリシタンなので、捕らえても甘い捌きしかできずそれが原因で、キリシタンの勢力が再び強くなり、しかたなく、仏教徒の加藤清正の力を頼った。



≪文禄の役≫

黒田の家臣に、命を救われた。

加藤清正と、先陣争いをおこなった。

加藤清正と、不仲だった。

小西行長は、和平派で、嘘をついてでも、朝鮮出兵を終わらせようとした。

ちなみに、加藤清正は、武闘派で、彼とは真逆だった。

それが原因で、小西行長は秀吉に死を命じられたが、なんとか逃れることができた。







≪関ヶ原の合戦≫
東軍の田中吉政・筒井定次らと交戦、奮闘するが、小早川秀秋の裏切りにより、ダメージを受け、さらに本多隊の攻撃を受け、壊滅し、行長は伊吹山中へ逃亡した。

*しかし、前回受けた講習会では、『本多忠勝は戦っていない、監視役として来て、見ていただけ』といっていたので、この記述は間違いという事になる。



その後、関ヶ原の庄屋 林蔵主 に捕らえられ、竹中氏の手に渡り、東軍へ引き渡され、市中引き回しの上、10月1日、京都の六条河原にて、石田光成、安国寺えけいらとともに、斬首された。



小西行長はキリシタンだったので、切腹を拒んだ。

キリシタンは、自ら命を絶つことはできない。

それゆえに、合戦後、切腹をせずに伊吹山の山中を逃げた とも言われている。



彼は首を打たれる際、キリストとマリアの遺恨を掲げて、三度それらを頭上に抱いたという。





小西行長は、ハンセン病患者の為の病院や、親を失った子供たちの為の孤児院を建設したりと、大変な社会貢献を行っていた。

その為に、私財を蓄えたりは、しなかったらしい。

しかし、西軍だったゆえに、この事実は隠され、悪い噂ばかり流されてきた。


彼は日本では今ひとつ知られていないが、海外では有名人だった。

彼の死を知ったローマ法王は、大変悲しみ、全市を上げて、追悼の意を表明した。







小西行長が捕らえられたのは、伊吹山の北東部。

その村には、小西神社というのがある。

それは、小西行長を神として祀っているらしい。


>その経緯は

・・・ 小西行長がここで捕らえられた時、彼は大変、怒りに満ちていたらしい。

その後、この村で次々に大火事が発生し、誰かが『これは、小西様の呪いに違いない』と言い出し、小西神社ができた ということらしい。



しかし逆に、面白い話もある。

小西行長を引き取った竹中氏(竹中重門・竹中半兵衛の息子)←たぶん。 は、小西行長を丁重にもてなし、数日間、とても和やかな日々を過ごしたらしい。

それで、京都で斬首されたと聞いたとき、竹中氏はその日々を思い出し、たいそういたたまれない気持ちになり、京都へ行き、こっそりと小西行長の首を持ち帰り、それを自分の領土(垂井町)のお寺に埋めて、塚を作り、毎年祈りに行ったらしい。

捕らえた村人たちには、呪いをかける恐ろしい人物としてうつっているが、それを引き取った役人は、大切な友人のようにとらえていた。

同じ人物なのに、立場によって、どうしてこうも違うものなのだろうかと考えると、思わず笑えてしまった。



小西行長の首塚には、彼の名前は書かれていないらしい。

まったく関係の無い二人の人物の名前が書かれているらしい。

それは、彼の名前をカモフラージュするためだ。

本当は、いけないことなので。。。


このお寺は、明泉寺といい、垂井町の竹中氏陣屋跡のすぐ近くにあります。





『知る』は面白いですね。

ますます興味がわいてきます。

^^
Posted at 2010/05/20 12:20:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 日記

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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