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すた☆君のブログ一覧

2010年03月12日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その6  加藤嘉明(かとうよしあきら)

今回は、加藤嘉明にスポットを当ててみようと思いました。

その理由は、前回調べた細川忠興の隣に陣取っていたから。

それだけです。

A(^^;)





関ヶ原合戦武将ファイル その6 加藤嘉明(かとうよしあきら)  孫六



1563年

三河国 徳川家康の家臣 加藤教明の長男として生まれた。

その後、羽柴秀吉の小姓となった。




1583年 20歳

しずが岳の戦いに参加、七本槍の一人とされる。



1585年 23歳

四国征伐




1586年 24歳

淡路志智の1万5000石の大名となる



1587年 25歳

九州征伐



1590年 28歳

小田原征伐には、水軍を率いて参加。



1592年~ 30歳

朝鮮出兵に、水軍を率いて脇坂安治らと共に参加。

朝鮮水軍と戦い、多くの戦死者を出した。

淡路島江善寺に、戦死者を追悼する石碑がある。



1995年 33歳

伊予国 松前 6万石になった。

再び朝鮮出兵に参加。

この時、食料欠乏に苦しむ加藤清正を助けた。

その後、10万石になった。



1599年 37歳

石田光成殺害事件の襲撃メンバーに加わった。



1600年 38歳

上杉討伐に従軍し、関ヶ原の戦いに参加した。

石田光成隊と闘った。

岐阜城攻め、合戦後には大垣城攻めに(福島正則と共に)参加した。




伊予松山 20万石 となり、松山城の築城を開始したが、その途中で、会津40万石となり、移動した。

松山城は、蒲生忠知が主となった。




大坂冬の陣

加藤嘉明(孫六)は、豊臣秀吉恩顧の大名だったので、徳川家康に危険視される事を恐れた。

そこで、江戸城留守居を務めることとした。




大坂夏の陣

徳川幕府2代目将軍、徳川秀忠に従い、参加した。




1631年、69歳で死去した。






(松山城)築城・城下町の建設に力量を発揮した。


家臣思いの懐の広い性格。


≪面白いエピソード≫
近習が、孫六の10枚セットの皿のうちの1枚を割った。

切腹覚悟で申し出ると、孫六は残り9枚の皿を自ら割って、こう言った。



『お前を咎めるつもりは全く無い。

しかし、残り9枚の皿をこのまま置いておくと、今後これらの皿を使うたびに、お前の行いが思い出され、気が重いだろう。

だから全て割った。

こんな不用意に割ってしまうようなものを集めていた私が悪かった。

私もこんな趣味を持たぬよう、今後気をつけることにしよう。』








家臣思いの心の広い人だなあと思いました。

先に調べた細川忠興とは、真逆の性格ですね。

こんな二人が、肩を並べて、共に仲間として、陣取って闘ったというのだから、歴史と言うのは面白いものですね。

(笑)
Posted at 2010/03/12 10:46:05 | コメント(3) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域
2010年03月11日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その5 細川忠興(ほそかわただおき)

今回は、細川忠興を調べてみようと思いました。

理由は、ずっと西軍の武将ばかり調べていたので、東軍のあまり興味の無いところからいこうかなと。。。




関ヶ原合戦武将ファイル その5 細川忠興(ほそかわただおき)




冷徹で気性が激しい。

織田信長とよく似ている。

一色氏をだまし討ちにして、敗残兵を皆殺しにしている。

妻ガラシャと共に、美男美女の夫婦。

妻に話しかけたら、殺した。

妻に見とれていた植木職人を殺した。

妻がキリシタンになった時、次女の鼻をそいだ。

千利休の愛弟子。




1563年

将軍足利義輝に仕える幕臣細川藤孝の長男として、京都に生まれた。

織田信長の嫡男、信忠に仕えた。





1577年

15歳 

紀州征伐で初陣

大和片岡城、父や明智光秀と落とした。




1579年

19歳 

建部山城主となった。

一色義道を滅ぼした。

明智光秀の娘婿となった。

玉子(ガラシャ)と結婚した。

玉子(ガラシャ)は、明智光秀の三女。

結婚の仲介人は、織田信長。

『九曜』紋



1581年

21歳

『京都御馬揃え』に参加。

この時、信長が着た『濁紅の錦の小袖』を京都中を探し回り、差し出した。




1582年

22歳

本能寺の変

明智光秀が藤孝・忠興親子を見方に誘ったが、彼らはこれを拒否した。

この時、忠興は、妻玉子(ガラシャ)を助けるため、丹後に幽閉した。

玉子(ガラシャ)は、『逆臣』の娘となった。

逆臣・・・明智光秀。織田信長を殺したから。





1598年

35歳

秀吉の死後、石田光成と対立。





1600年

37歳

関ヶ原の戦いで、東軍につく。



妻ガラシャが、伏見城に人質としていたとき、西軍の攻撃を受け、自害した。

ガラシャはキリシタンの理由により切腹できないので、家臣に槍で突かせて、壮絶な死を遂げた。


黒田長政と共に、石田光成本体を攻撃した。

たくさんの首を上げ、家康にほめられた。

戦後、豊前40万石の大名となり、小倉城を築城した。

大坂夏の陣に出陣した。


83歳で没した。









・・・美人に話しかけたら、殺されるかもしれないんですね。

注意しようっと。

(ーー;)
Posted at 2010/03/11 11:44:04 | コメント(3) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域
2010年02月28日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル  その④ 宇喜多秀家(うきたひでいえ)

今回は、宇喜多秀家にスポットを当ててみようと思います。

前回までは、ちょっとマニアックな武将ばかりでしたので、ここは基本に帰るという意味で、彼を選びました。

基本もできていませんが。
(^^;)



関ヶ原合戦武将ファイル その④ 宇喜多秀家(うきた ひでいえ)


1572年、備前国岡山城主 直家の次男として生まれました。

秀家はイケメンで、『天地人』の役者さんは、仮面ライダー龍騎も演じています。

秀家は、能を好む優れた文化人でした。

9歳の時に父が死に、10歳の時に織田信長の計らいにより、家督を継ぎました。

秀吉とともに中国遠征に加わりましたが、本能寺の変の後に大大名になり、毛利の監視役となった。

豊臣秀吉から『秀』の字をもらい、14歳の時に16歳の豪姫(前田利家の四女)を正室として迎えた。

豪姫の生母は、まつ。

秀家は外様大名だけど、秀吉一門としての扱いを受けた。

豊臣政権下、五大老として活躍した。

五大老・・・徳川家康、前田利家(利長)、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家

五奉行・・・石田光成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以

13歳で四国征伐、14歳で九州征伐、18歳で小田原征伐、その後朝鮮出兵に従軍した。

20歳で文禄の役、25歳で慶長の役(空弁当の毛利秀元と共に渡海)



宇喜多騒動

原因 1 秀家の素行に問題
原因 2 執政たちの専横による、他の重臣の不満
原因 3 日蓮宗徒の家臣たちを、キリシタンになるよう命令した。

仏教からキリスト教へ。

その理由は、妻の豪姫がキリシタンで、豪姫が病気の時に日蓮宗徒に祈らせたが、効果が無かったから。

原因 4 秀家は鷹狩りを好み、鷹を100匹、その世話人を300人養っていた。

朝鮮出兵で金がなくなったので、領民に飼い犬を鷹のエサとして差し出させた。

この鷹の事件の責任者を、戸川達安のせいにして暗殺を謀るが、秀家と不仲な宇喜多詮家(あきいえ)がかばった。

大谷吉継と榊原康政が、この事件の調停に入ったが、榊原が家康の利益にならないような調停をしようとしたので、家康が康政をわざと怒らせて江戸に帰らせ、残された大谷吉継はしかたなく手を引いた。

結局、家康が調停を成功させた。

この時、秀家に抵抗した家臣たちは、家康についた。

これがもとで、宇喜多家は、ボロボロになっていった。


1600年 7月18日~8月1日まで、伏見城の鳥居元忠(1800人)を、大将として40000人で攻略した。

8月25日には、安濃津城を攻略した。

関ヶ原の戦いでは、西軍の副将として、17000人を率いて参加した。

宇喜多隊が井伊隊の発砲をうけ、合戦が始った。

明石全登を先頭に置き、福島正則隊と激戦を繰り広げた。

明石隊には、宮本武蔵(しんめんたけぞう)も参加していた。

福島正則は、討ち死にを覚悟した。

宇喜多秀家は、天満山の南端に陣を敷いていた。

小早川秀秋の裏切りにより、西軍は総崩れとなり、宇喜多隊も壊滅した。

秀家は、秀秋に対し激しく怒り、『小早川の陣に乗り込んで、秀秋を叩ききってやる!!』と叫んだが、明石全登に静止され、伊吹山中へと落ち延びた。

山の中を数人の家臣と共にさまよっている時、落ち武者狩りのグループと出会った。

そのグループのリーダーは、矢野五右衛門と名乗った。

あっさり正体を明かし、食料を望んだ秀家に、五右衛門は大変驚き、彼のその人柄に惚れ込んでしまい、秀家を救う決心をした。

五右衛門は、矢野家へ彼らを連れて行き、屋敷の裏にある穴蔵で、40日間以上もかくまった。

秀家の家臣、進藤は、秀家の脇差『鳥飼国次』を持って家康のところに行き、主は死んだと嘘を告げた。

その同時期、もう一人の家臣、黒田は、矢野五右衛門と共に秀家を連れて脱出をし、無事、宇喜多家に到着でき、豪姫とも再会できた。

宇喜多秀家のかくまわれていた矢野家の場所には、石碑がある。

石碑は、宇喜多家の子孫によって、建てられた。

その後、秀家は薩摩の島津義弘のところへ行った。

この頃、秀家が琉球王国をのっとろうとしたという噂もあった。

1603年、島津が秀家をかくまっているという噂が流れたので、秀家は徳川家康に引き渡された。

何とか死罪は免れ、伊豆・八丈島へ島流しとなった。

この後、50年間、84歳まで、八丈島で過ごした。

休福と名を変えた。

息子二人、家来10人もつれていたので、生活は厳しかった。

毎年、豪姫がコメを送り、彼女の実家である前田家も、たくさんの仕送りをした。

豪姫は、生涯秀家を愛し続けた。

八丈島では、宇喜多秀家にまつわる、いろいろなエピソードがある。

『嵐でたまたまやってきた福島正則の家臣に、酒をめぐんだもらった』

とか、

『八丈島の代官におにぎりをもらった話。ご飯を2杯もらい、三杯目もくれるというので、それは息子たちにと、握り飯にして、土産に持って帰った。』

秀家の二人の息子は、島の人々に溶け込み、たくさんの家系を作った。

明治時代になって、ようやく宇喜多家は許され、士族となり、明治天皇から、東京に20000坪の宅地をもらった。





物心着く前から立派な地位にあって、朝鮮出兵までは、ほとんど運だけでどんどんと出世していったのに、関ヶ原の合戦を境に、流浪の生活に。

矢野五右衛門の話には、心打たれます。

永遠に会えないのに、ずっと一人の男性を愛し続けた豪姫の生き方も素敵ですね。
七夕の織姫と彦星でさえ、毎年会えるというのに。

半世紀を島流しで過ごすと、人格や考え方は、どのように変化していったのでしょうか。

でも、息子たちが結婚して、孫ができたりしていたので、案外それなりに楽しくやっていったのかもしれませんね。



宇喜多秀家がかくまわれていた家にある石碑の場所、調べてみたら、毎年バーベキュー大会をしている川原のすぐそばでした。

意外と身近なんですね。

もっとごつい山奥だとばかり思っていましたので、ちょっぴり肩透かしを食らわされた気分です。

近いうちにいってみようと思います。^^w
Posted at 2010/03/02 10:45:18 | コメント(3) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域
2010年02月22日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その3 『奥平 貞治』

今回は、奥平 貞治 にスポットを当ててみました。

その理由は、関ヶ原の町外れに彼のお墓があって、まだ行ったことが無く、いつかいってみたいと思っていたから。

そして、行く前に調べておこうと思ったから。

とどのつまり、実はよく知らない、恐らく、現地の表示板に書かれている程度のことしか知らないから、どうせ行くならよく調べてから行こう!

・・・という理由です。
(^^;)



関ヶ原合戦武将ファイル その3  『奥平 貞治(おくひら さだはる)』

奥平貞治は、奥三河亀山城の貞勝の子として生まれました
父の貞勝は、今川氏、徳川氏、1571年には甲斐武田へと仕え、再び徳川家康に仕えるなど、転々と主を変えました。

奥平貞治は、見方が原の戦いに参戦しました。

長篠の戦では、長篠城に兵500人を連れてこもり、兵15000人と圧倒的な兵力で押し寄せる武田勝頼の軍勢相手に持ちこたえ城を守りきり、織田信長から大絶賛されました。

関ヶ原の戦い直前には、会津征伐に同行し、結城秀康付けでした。

関ヶ原の戦いでは、東軍として参加して、兼ねてから裏切りの密約のあった西軍の小早川秀秋の監視役として、秀秋のいた松尾山に布陣していました。

合戦中、予定通り小早川秀秋は裏切ったが、それを良しとしない小早川秀秋の家臣の松野主馬が戦線を離脱した。

そのため、奥平貞治は残された松野隊を率いて小早川秀秋の軍勢と共に松尾山をかけおり、西軍の大谷吉継隊の右陣を攻めた。

この時、西軍の平塚為久、戸田重政らも加わって、大激戦を繰り広げた。

人数では圧倒的に有利だったが、小早川秀秋の裏切りに激怒した大谷吉継は家臣らにその怒りを伝え、小早川勢を押し返した。

その最中、奥平貞治は致命傷を負い、討ち死にした。

関ヶ原の戦いの後、徳川家康は、奥平貞治の功績をたたえ、彼の生母に供養料として、毎年300石を与え続けた。

現在、彼の墓は関ヶ原の町はずれ、笹尾山のやや西の住宅地に囲まれた、たたみ5枚分ほどの小さなスペースにあります。

墓の右手には伊吹山が見え、墓のすぐ裏には水量の少ない川が流れている、穏やかなところです。

墓の少し向かいには道路が走っており、大型トラックがひっきりなしに走っております。

墓は、彼の子孫によって建てられました。





彼は小早川秀秋を監視していただけで、まさかその家臣の戦線離脱によりそいつらを率いて闘う事になろうとは、夢にもおもっていなかったのではないだろうか。

いきなり、まったく面識も無い?よその隊の兵たちを率いて戦うなんて、できることなんだろうか?
きっと兵たちも動揺したに違いない。

兵たちの統率が全然取れていなかったから、チームワークに勝る大谷隊らに押し返されて、討ち死にしたのではなかろうか。

討たれる時、彼を守ってくれた兵士たちは、どれぐらいいたのだろうか。

彼もまた、訳も判らずに死んでしまった部類ではないかと思う。

過去に大手柄をたてたからといって、幸せな人生を送れるとは限らないというのが、この時代の変化の凄まじいところでしょうか。

この時代の人たちの生き様を見ていると、いろいろ考えさせられます。




この日はおだやかないい天気で、後ろの藪も去年からの大雪で、すっかりなぎ倒されており、バックに綺麗な景色が見えました。

きっと、貞治公も、見晴らしが良くなったなぁと、喜んでいることでしょう。
^^

Posted at 2010/02/23 07:52:19 | コメント(2) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域
2010年02月21日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル2 『安国寺 恵瓊』

関ヶ原の戦いで活躍した武将たちの生涯を調べていきたいと思います。

今回は、安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)について調べました。
なぜ彼を選んだかと言うと、先日、南宮山の麓に住んでいる友人宅に行った時、『この山には関ヶ原の武将のエピソードはなにかあるの?』と尋ねられ、うる覚えでしか答えられなかったからです。

関ヶ原の戦いには、多くの名のある武将たちが集結しました。

彼らはこの地にくるまで、どのような人生を歩んできたのか。

そして、この戦いでどのようなことを行ったのか。

そしてさらに、その後またはその時、どうなったのか?

などを調べていきたいと思います。



関ヶ原合戦武将ファイル2 『 安国寺 恵瓊 (あんこくじ えけい) 』

彼は、安芸武田一族につかえていましたが、その一族が後毛利元蹴に滅ぼされた後、安芸・安国寺で出家した。
その後は、京都の東福寺などで働き、毛利家に仕える外交僧となった。

本能寺の戦いで信長が死んだ時の秀吉との和睦、豊後・大友家との和睦などに成功した。

1950年、脇坂安治・ちょうそかべ元親らとともに、下田城を滅ぼした。

朝鮮出兵では、小早川隆景(元蹴の三男)の六番隊として参加し、立花宗茂とともに戦った。
朝鮮で子供たちに、いろはを教えたり、髪型を日本風に変えさせたりした。

肥後国衆一揆では、佐々成政らの助命を嘆願したが、果たすことはできなかった。

関ケ原の合戦前、毛利輝元を総大将に担ぎ上げることに、成功した。
関が原の合戦時、安国寺 恵瓊は、南宮山に陣を敷いていた。

合戦が始った直後、東軍の池田輝政、浅野行長らと銃撃戦を行ったが、それは小競り合い程度のものだった。

彼の後ろには、毛利秀元、前には吉川広家が布陣していた。
合戦が始った時、毛利隊はすぐに南宮山を降りようとして、家臣の椎野道季を前に布陣していた吉川広家に使わせたが、吉川は頑として、動かないように勧めた。

実は吉川は、毛利家の領土を守るため、徳川家康とひそかに内通していた。

毛利秀元は、若干21歳。吉川広家は秀元の親のような存在で、どうしても彼には頭が上がらなかった。

安国寺 恵瓊は、吉川広家と仲が悪かった。
安国寺も動きたかったが、前方にいる吉川が頑としてそれをこばんだので、安国寺も動くことができなかった。

合戦が始ってしばらくしてから、石田光成が『参戦せよ!』とののろしをあげた。
南宮山にいた西軍でそれにいち早く気づいたのは、長束正家だった。

彼は早速毛利秀元に兵を動かすようにうながした。
しかし毛利は、『今われわれは、弁当を食べている。食べ終わるまで待たれよ』と、それをこばんだ。

これは、空弁当として、有名なエピソード。

何時間も何時間も、弁当を食べているから駄目だ。

と、言い訳をしたから。

安国寺 恵瓊は、僧侶でありながら武将であるという、変わった人物だった。
軍装も他の武将たちに比べ、かなりすごかった。
馬700頭、足軽3000人を連れていた。

全く動けず、ただ時間だけがむなしく過ぎてゆき、安国寺 恵瓊や長束正家は、毛利にあきれ、それと同時にだんだん不安になってきた。

結局、南宮山にいた西軍は、動くことができないままに、合戦は終わってしまった。

合戦後、安国寺 恵瓊は、毛利家に戻ったが、吉川広家に促され、逃げた。
途中、同行していた家臣らが、どうせ捕まって殺されるなら我らの手でと安国寺に斬りかかったが、安国寺は逃げ回って、ほほをかすめる程度にしか、斬れなかった。

結局最後は東軍に捕まり、京都の五条河原で、石田光成らとともに、斬首処刑された。



こうやって彼の人生を見ていると、関ヶ原の戦いまでは、誰もがうらやむような大変な出世コースを進んでいたのに、訳がわからないまま首を切られた という感じがして、とても可愛そうに思います。












Posted at 2010/02/22 23:08:27 | コメント(3) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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