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すた☆君のブログ一覧

2020年08月23日 イイね!

島津豊久の捨てがまり場所 ~烏頭坂(うとうざか)~

関ケ原の戦場を強行突破した 島津隊。

後方から追撃してくる 井伊隊や小早川隊。

ここで島津豊久は、「捨てがまり」を実施。

「捨てがまり」とは、捨てる かまり。

かまり は 兵士を意味する。

兵士が立ち止まって、死ぬまで敵を止めるという、非情で残酷で恐ろしい戦法。

矢印=島津隊の進行方向

深手を負った豊久は、上石津で亡くなった。

享年 31歳 という若さ。



坂を下ったところが、上石津町牧田になる。
(第二の捨てがまりをした 阿多長寿院盛淳の墓所 琳光寺がある)

ここはよく通る道なのだが、いつも通るたびに、敵中突破を想像する。

凄い場所だ。
Posted at 2020/08/25 14:56:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦に類する合戦跡地 | 旅行/地域
2017年12月07日 イイね!

新之丞君をガイド。



楽しかったねぇ~。

また行こうねぇ~。

^^

岐阜県大垣市赤坂 昼飯山古墳

関ケ原合戦時(関ケ原合戦の前日まで) 福島正則陣跡(古地図より)
2015年04月01日 イイね!

松坂城址

松坂城址石垣が立派なお城でした。

蒲生氏郷や古田重勝のお城です。

関ケ原合戦においては、東軍・古田重勝の城で、西軍は安濃津城を落として、次にココ松坂城を攻撃しましたが落とせませんでした。


武家屋敷跡や本居宣長生誕地・三井発祥の地・日本最古の図書館などあり、歴史散策としてもとても楽しめる町でした。

また行きたいです。

^^

2015年03月22日 イイね!

安濃津城 ~関ケ原合戦に関する史跡巡り~

前から一度行ってみたくて、今回やっといけました。

関ヶ原合戦の少し前で、西軍に落とされた城です。



西軍 毛利秀元、吉川広家、安国寺恵けい、長束正家、長宗我部盛親、鍋島勝茂 ら 約3万人の猛攻撃で落とされた 東軍 富田信高 の城です。



伏見城を落とした西軍は、人数も膨れ上がり、伊勢の制圧を考え、東軍の安濃津城を攻撃しました。







松坂城主 古田重勝の援軍も来ていましたが、兵は1700人しかおらず、あっというまに落とされ、降伏開城しました。






この後、西軍は松坂城へと兵を進めました。






安濃津城を大改築したのが藤堂高虎だったので、彼の銅像が天守址にありました。






織田信包(信長の弟)の城で、彼は浅井三姉妹を匿ったそうです。



水のお堀の大きなお城でした。
Posted at 2015/03/29 06:51:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦に類する合戦跡地 | 旅行/地域
2014年07月28日 イイね!

大人の自由研究 ≪南濃の関ヶ原合戦に関する史跡巡り≫

まずはランチ。

TVCMで『かっぱの改新』と言っていたので、『どれだけ旨くなったのか?』と、ワクワクしながらいってきました。


かっぱ寿司



本当に、旨かった。

また行きたいです。










前から一度行ってみたかったけど、なかなか行けなかった、海津市歴史民俗史料館へ。






うひょー、でけー!!











これで入場料310円は、安すぎる!!

海津って、リッチやなー!!


右から


3階の御殿が凄かった!!

申し訳ないぐらいの充実した内容で、大満足でした。

2時間ぐらいかけて廻りましたが、全てを堪能しようとしたら、半日は必要です。

^^





史料館の前にありました。

堀田


堀田とは、土を盛った上に田んぼを作っています。

なのでその周りは水路ができ、写真のような舟で移動していました。



海津町は、『輪中』が有名で、学校の教科書に写真が載っています。

輪中とは、町が川と川の間にあり、田んぼの周りを土の壁で囲って水害を防ぎ、

また、『家は浸水しないように石垣の上』に建っており、

洪水が来ても脱出できるように 『二階の軒先に船を吊っていたり』、

『仏壇を2階に引っ張り上げる滑車が天井にあったり』と、

水害と隣り合わせに生きてきた、この地域の人たちの町の事を言います。

今でもその面影が町のあちこちに残っており、

知れば知るほど、それらの知恵とここの人たちの生きる逞しさに感心させられました。

大変興味深い地域でした。


また改めて調べなおして、再びここを訪れて、今度はもっと時間をかけてゆっくりと廻りたいです。









テーマに戻して、戦国の話しです。

^^;


関ヶ原合戦当時、美濃の国(岐阜県)の南の地域 『 南濃 』  は、東軍と西軍に別れていました。


そこで、福島正則(城が近かった ・清洲城主) の命令で、 南濃の城主の徳永寿昌(とくながながまさ)と、市橋長勝 が、西軍の城を攻撃して、東軍が南濃を支配しました。



10数キロぐらい北に、西軍の拠点の大垣城があったんで、もうギリギリ際まで、東軍の波が来ていた という事になります。




地図



今回の旅で一番興味があったのが、徳永寿昌でした

彼は、関ヶ原合戦が終わった直後、『金屋河原の戦い(養老SA付近)』で、逃げた(南宮山にいた西軍)長曽我部盛親を攻撃した武将の一人だったので、どんな人物なのか、気になっていました。

そこを調べなおす意味も込めて、今回海津へと旅立ちました。



徳永寿昌は、1549年に近江の国徳永村で生まれました。

その後、柴田勝豊⇒豊臣秀吉⇒秀次の配下となり、3万石(美濃・松の木城主)大名になりました。

関ヶ原合戦(前哨戦)では、福島正則の命令で南濃の城を攻略し、関ヶ原合戦(本戦)では市橋長勝と共に、先に述べたように、『金屋河原の戦い(養老SA付近)』で、長曽我部盛親を攻撃し、多くの首を取りました。

戦後は5万600石へと倍近くに加増され、落とした城 高須城 へと移り住み、城下町の発展に尽力し、後の 高須(たかす)藩の形成 へとつなげ 、1612年に この世を去りました。






ところで江戸時代ですが、日本中には約300の藩があったそうですね。

美濃には30の藩がありました。

全国の10%です。

どうしてそんなにたくさんあったのかというと、『美濃(岐阜)は交通の要所だから、ひとつの大名に任せておくと、もしもテロを起した時に、大変なことになる。だから、多くの武将たちに細かく分けて任せておいた。』

というのを、いつだったか、何かの本で読んだ記憶があります。

その辺も興味があるので、また調べてみたいなあと思いました。













≪高須城址≫



主水橋(もんどばし)・高須小学校北側

この辺りに、お城がありました。

現在は堀の遺構がわずかに残されているのみです。


城址公園


現在は、このようなカラフルがお城が建っております。

^^





今回走り回ったところ


地図2





今回は時間があまり無かったのと、地図がよく分からなかったので、また改めて調べなおして、再び訪れたいです。









帰りは、前から気になっていた中華料理屋 (大垣のイオンの近く) 『はまゆう
』で、ちょっとリッチに、まったりディナー。










くつろぎました。

旅館だったら、寝そうな勢いでした。

^^;







あ、そうそう、海津には、美濃三人衆の氏家卜全のお墓もありますよ。

前に載せましたが。







おわり
Posted at 2014/07/28 05:55:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦に類する合戦跡地 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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