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すた☆君のブログ一覧

2012年03月31日 イイね!

徳島帰省日記 17  松永久秀生誕地 ・岐阜へ帰還

美馬を離れて、徳島市へと戻る事にしました。

途中、寄り道して散策しました。



脇町 うだつの町並み


こんな立派な建物ができているなんて、知りませんでした。

月日の流れを感じました。



お腹がすいたので、飯屋を求めて近くのショッピングセンターへ。


脇町のスーパー



このときで猛殆ど、4時近かったように思います。


昼間にフジグランでクレープを食べたので、二人ともあんまりお腹がすいてなく、4時までもちました。

(・・・と思い出しながら書いていると、すごい遠い昔のような気がする。。。)


レストランとか無かったので、パンやとスーパーで適当に食糧を買って、車で食べる事にしました。

(笑)


月見パン





腹ごしらえしたところで、再スタート。


た〇ちょ~に教えてもらった、最後のスポット、松永久秀の生誕地です。

(ここまで長かった。。。)





た〇ちょ~曰く、市場町の犬伏という地区に、松永さんという家が何十件も密集してあり、そこに松永久秀の生誕地がある との事でした。

阿波池田鳴門線から北上して、北の山奥に入っていった辺りです。


た〇ちょ~宅のパソコンの地図を写真に撮り、それを頼りにカーナビで、ズンズンと突き進んでいきました。


すると、あるある、松永という名前があちらこちらで見られました。


松永さん 1




松永さん 2




結局、松永久秀の生誕地 という場所にはたどり着けませんでしたが、また次回機会を作って、是非再チャレンジしたいです。

(笑)







松永久秀は、関ヶ原ともつながりがあります。

松永久秀を滅ぼしたのは、筒井順慶。

関ヶ原合戦で大暴れした人気の武将、島左近は、その筒井順慶の家臣でしたので。

人のつながりというものは、今も昔も面白いものです。







朝からずっと行動を共にしてくれた友人を家まで届け、僕も帰宅する事にしました。




四国三郎橋



橋の北側にサティという本屋があって、昔会社の帰宅途中によく漫画を買いに行ったのですが、このご時勢、今もまだ店があるんだと嬉しく思いました。


帰宅して休憩して、荷物をまとめて夜に実家を出る事にしました。



途中、兵庫県のパーキングエリアで停車をして、母の弁当を一人で食べました。


母の弁当



親の存在というものは、ありがたいものです。



夜中あちこちのパーキングで寝泊りしながら、無事に岐阜の家に到着。

家族に土産の、ちくわをご馳走しました。

私の妻は、ちくわが大好きです。


^^

ちくわ






今回も、出会いの多い帰省でした。

いろいろもてなしてくださったみなさん、本当にありがとうございました。

・・・と書いているそばから、もう7ヶ月も経っていて、あとひと月もすればゴールデンウィークなので、会社が連休くれれば、今度は徳島帰省したいところです。


和歌山も行きたいなあ。。。


それではみなさん、またお会いしましょう。

(笑)
Posted at 2012/03/31 17:58:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域
2012年03月31日 イイね!

徳島帰省日記 16 三好長慶 一族本拠地の城・霊廟

重清城址を出た後、三好長慶(みよし ながよし)のゆかりの地へ行く事にしました。

長い坂をおり、いったん下山。

吉野川の北岸を少し移動した所に、彼の一族の本拠地であったお城の跡地がありました。



芝生城(しぼうじょう)のイメージ図





ここで、三好長慶がどんな人物なのか、ざっくり簡単に言うと、

『徳島出身の戦国武将 トップ3』


もう一言加えれば、


『織田信長の前に天下を取った人物』

・・・というところでしょうか。



『じゃあ、他は誰だ?』と尋ねられれば、松永久秀と三好三人衆、かな。





 ・・・という訳で、徳島県からここをみているキミ達に(ほら、キミだよキミ、いつもこっそり覗いている、帰省すると『見ています』と言っているキミタチのことだよ)、ちょっと彼に興味を持ってもらいたい。


よく聞く人気の織田信長やら伊達政宗とかいなくても、徳島にも戦国時代に英雄がいたということを知ってもらいたい。

(笑)





芝生城の看板(南方向)



城址には看板しかなく、のどかな田園風景が広がっていました。



看板 左側(南東方向)


左方向を見ると、家々が段々と下がっていることより、斜面が吉野川のほとりまで繋がっている事が想像できます。



看板アップ




城跡を出た後、三好長慶のお墓のあるお寺へ行く事にしました。


お寺の麓に、彼の事を説明する看板がありました。

三好長慶の看板




看板を一読して、お寺へ参拝。





~豆知識~

1553年 三好長慶は、25000人もの兵を率いて上洛。将軍足利義輝(剣豪将軍と呼ばれていた・塚原卜伝から奥義を伝授されていた)は敗れ、5年間の幽閉生活へ。

1565年
三好長慶の家臣・松永久秀(茶瓶を持って自爆した事で有名)・三好義継は、清水寺参拝と銘打って、大軍で上京し、京都二条御所を取り囲み、火を放ち、鉄砲を打ち込んだ。

足利義輝は、刀を何本も取り替えながら自らも戦ったが、人数に差があったのか、壮絶な最後を迎えた。






三好長慶の霊廟





こうしてみると、阿波の歴史もなかなか面白いでしょ?


ね? 徳島の皆さん。


^^






Posted at 2012/03/31 16:53:27 | コメント(2) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域
2012年03月31日 イイね!

徳島帰省日記 15  ご先祖様の城址へ  重清城址 後編

徳島史跡巡りを、しばらくぶりに再開します。

カテゴリーでは、『阿波の戦国史』または『徳島帰省日記 2011年夏』のどちらかに、前回までのレポートが記載されています。






去年の夏、私のご先祖様のお城址が徳島県美馬郡美馬町(現在美馬市)にあるので、行ってきました。

戦国時代に阿波藩を治めていた三好一族発祥の地です。

私はその重清城主の血を引くものです。

子供の頃から母に先祖の事を聞かされていて、関ヶ原に来て戦国時代に興味が出たので、今回訪れたというところです。






天守跡



城址の中心には、古ぼけた神社がありました。

名前を、小笠原神社といいます。




小笠原神社の石碑


きっと、小笠原という神社の名前は、当時の城主・小笠原豊後神(後の重清豊後神)の姓から来ているのでしょうね。





≪ルーツ≫

鎌倉時代  承久の乱の後、小笠原氏が阿波を支配し、池田大西城を築いた。

鎌倉末期  小笠原長親が、重清城を築いた。

南北朝時代 細川氏(勝瑞城主)の家臣となり、三好氏を名乗るようになる。

戦国時代  三好氏が戦国大名として、阿波を支配する。





重清城址の石碑





今まで見てきた数多の石碑たちと違って、実に感慨深いものがありました。




神社建物の後の石積み



この石積みは、戦国時代からのものでしょうか・・・。






井戸



この井戸は、今でも水が汲めるらしく、阿波藩の戦国時代の城址にある井戸では、大変珍しいらしいです。




井戸の説明板





井戸の少し横に、お墓がありました。


多分これが、私のご先祖様、重清城主のお墓に間違いないでしょう。


城主の墓




長い間こんなところにずっと眠っていたんだなあと、心にじーんと来るものがありました。



今回、ここに来られてよかったです。

^^


Posted at 2012/03/31 14:42:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域
2011年11月09日 イイね!

徳島帰省日記 第12話 『ご先祖様の城・重清城址と、奇跡の土塁』

願勝寺でご先祖様の甲冑を見た後、いよいよ今回の旅のメインのひとつ、我が先祖の城、重清城址へ。

国道から細道に入るとすぐに山へと登る物凄い急な坂道がお出迎え。

これを登らなければならないのか!?

と思いつつも、4WD買っといてよかった~と思いつつ、坂を上りきって、しばらく道なりに、ナビを見ながら、持参したノートに書いた地図を頭に浮かべながら進んでいくと。。。

あった、あった、ありました!

我がご先祖様の城址、重清城址。



今まで訪れてきた数多の史跡たちと同じように、案内板があったので、感動しました。

史跡として登録され、保存されている事が、嬉しかったです。

^^

案内板や杭が綺麗なのは恐らく、市町村合併で美馬町⇒美馬市というのができたから、それで綺麗にしたんでしょうね。

ラッキー♪

(笑)



まずは、城の周りの二重堀と土塁を見て周ることにしました。

この城は土塁の保存状態がとてもよく、奇跡的と言われる程だそうです。




土塁の写真を載せながら、重清城について語りたいと思います。

^^


二重堀と土塁




≪ルーツ≫

鎌倉時代  承久の乱の後、小笠原氏が阿波を支配し、池田大西城を築いた。

鎌倉末期  小笠原長親が、重清城を築いた。

南北朝時代 細川氏(勝瑞城主)の家臣となり、三好氏を名乗るようになる。

戦国時代  三好氏が戦国大名として、阿波を支配する。





土塁 内側




≪城の造り≫
敷地は、南北90メートル×80メートル。

西側は、城ケ谷の断崖があり、北隅に櫓台(そびえ立つ見張り台)があった。

城の東側には、二重掘と土塁が、現在でも良好の状態で残されている。

天守址中央に、小笠原神社があり、城主が祭られている。

城の南西に、虎口(兵士が出入りする所)があった。

城は標高数十メートルの高台にあり、南1~2キロに吉野川が流れている。
吉野川の向こうはすぐ山。

前後を山と山(川)に挟まれており、阿波侵攻の要衛であった。




虎口 北側の土塁


虎口の幅は約2~3メートル






土塁





≪重清城・戦乱の歴史≫

重清城は、過去3回 大きな戦に巻き込まれました。


1回目 1578年 天正元年
土佐の長宗我部元親の家臣大西覚養(おおにしかくよう・大西上野介ともいう・元三好一族・元白地城主)と、中鳥城主久米刑馬(かくようのいとこ)が、重清城を攻めた。

しかし、攻略が困難であった為、和議を持ちかけ、久米刑馬が和談の最中に、重清城主・小笠原豊後守長政とその息子を殺害し、城を落とした。



土塁 外2




2回目
三好宗家の総領、三好(十河)存保が、3000余名の兵で重清城を取り囲み、城を取り戻す。

このとき、大西覚養は逃げ、三好郡昼間村の願成寺で自殺した。

重清一族の伊沢権之進により殺されたという説もある。


土塁 外3 北の方




3回目
重清城は、阿波侵攻の要であった為、長宗我部元親が、再び重清城に進攻する。

その時、吉野川を挟んで、阿波方・三好軍が川の北側(城の南側)に5000名に対し、土佐方・長宗我部軍は、吉野川の南側に、その数分からぬほどの大軍で三好軍と対峙し、攻め落とした。




こうやって見てみると、戦国史としても興味深く、非常に面白いですね。

その数分からぬほどの大軍って、どれぐらいの人数なんでしょうか。

2万とか3万とかでしょうか。

凄い大きな歴史のあるお城だったんですね。

阿波侵攻の要というのも面白いですね。

交通の要所である関ヶ原に共通するものを感じました。

次回帰省する時は、大西覚養が逃げた願成寺を訪れてみたいです。

^^

まだまだ続きます、重清城。

次回は、城址の中についてレポします。

こうご期待あれ♪

(笑)







 
 







Posted at 2011/11/09 09:36:31 | コメント(2) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域
2011年11月05日 イイね!

徳島帰省日記 第11話 『三好一族・勝瑞城址と、ご先祖様の甲冑』

おまけにもらった金魚を友人にプレゼントした後、この友人親子とお別れして、再び阿波の史跡めぐりの旅へと向かいました。

続いて、勝瑞城址へいきました。

実は私は徳島にいた頃、この城のすぐ近くで数年間働いていましたが、ここの城の事は全く知りませんでした。

知ったのはホント、歴史に興味が出たつい最近。

しょっちゅうこの城址の横を車で走っていたのに。。。

いやいや、お恥ずかしい限りです。

^^;




三好一族の墓



これらの墓の中に、三好義賢のお墓があるはずなのですが、どの墓が誰の墓という明記が無かったので、残念ながら、分かりませんでした。







三好家の霊廟



勝瑞城 とは、戦国時代に細川氏・三好氏によって、阿波の中心として栄えたお城です。

江戸時代はこれが徳島城へと移り、現代へと繋がる という訳です。






土塁


発掘調査で、大規模な土塁が出てきたそうです。

土塁の幅はなんと12メートル、高さは2.5メートル。

当時の凄さが想像できます。




本丸跡?



三好一族について調べていると、興味深い人物を見つけました。

それは、 小少将 という女性です。

彼女は大変な美女で、何度も結婚・離婚を繰り返していきました。

最初の夫は、細川持隆

二番目の夫は、最初の夫である細川氏を殺した三好義賢

三番目の夫は、三好氏の重臣

四番目の夫は、三好氏を滅ぼした、ちょうそかべもとちか

これらの経歴からも分かるように、彼女は自分の夫や一族を殺したものたちにどんどんと奪われていったようです。

しかしそれだけ、そうとう魅力的な女性だったのでしょうね。








 

城の周りは、水堀でかこまれていました。

草木が生い茂っていて、おそらくこれは、当時のままだと思われます。







勝瑞城址をでたあと、西へ約1時間ほど走り、私の田舎へとたどり着きました。

久しぶりに、じいちゃんばあちゃんのお墓参りをし、その横にある石碑を見ました。

これは、じいちゃんが作った石碑です。

重清一族の由来の石碑


昔はこれをみても、なんのこっちゃら、あんまりよく分かりませんでしたが、今となっては大変面白い内容です。

先祖は重清城の主で、三好家につかえており、ちょうそかべもとちかに殺されたと、はっきりとかかれております。

さらに先祖を遡ると、ルーツは清和天皇だそうです。

なんと私は、天皇の血を引いていたんですねー。

今は足軽やってますけど。

(爆)

清和天皇の墓は京都にあるので、またそちらも行ってみたいです。


田舎を出発した後、ご先祖様の甲冑があるというお寺へと向かいました。

美馬郡美馬町に、寺町 という、お寺がたくさん集まっている地域があって、その中に、『願勝寺』というお寺があり、そこの歴史資料館に、ご先祖様の甲冑があります。

願勝寺



お寺の人に頼んで資料館を開けてもらい、中に入らせてもらいました。

すると、入り口の真正面に、ご先祖様の甲冑がありました。

関ヶ原合戦で活躍した武将達みたいに派手さやかっこよさはありませんでした。

ごく普通の地味な甲冑でしたが、かぶとの所に、三好家の霊廟でみたのと同じ家紋が入っていました。

ついにここまでやってきたんだなぁ という気持ちになりました。

^^

続く♪
Posted at 2011/11/05 19:26:16 | コメント(3) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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