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すた☆君のブログ一覧

2011年10月29日 イイね!

徳島旅行記 10 『中富川の戦い  藍住町』   きんぎょすくい

槍場の戦い跡を離れた跡、久米氏の居城、芝原城址を探して、国府の街中へ行きました。

しかし、標識も何もないので、恐らくこの辺かなぁというところで、下の写真を一枚とって、ここを去ることにしました。



またいつか機会があったら、もっと詳しく調べて行ってみたいです。

教えてくださった 〇△ちょ~ 、ありがとうございました。

^^


ここまでは一人でしたが、この後友人を迎えに行きました。

この日はまる一日、ぎっしりと史跡めぐりの予定を詰め込んでいます。

この友人は、今回の旅のお供となるのですが、何を隠そう彼は全く歴史に興味がありません。

連れ回しました。

(爆)





『 若一王子神社 』


1582年、四国を統一しようとする ちょうそかべもとちか軍23000人 と、十河存保以下の三好氏の軍5000人 とが、20日間戦いました。

これを、中富川の戦い といいます。


ちょうそかべ軍は、8月28日に出陣、勝瑞城を包囲します。

このとき、雑賀衆も援軍で来ていたそうです。

しかし、9月5日から9月10日まで大雨が降り、洪水で板野平野が湖になりました。

洪水で逃げ場を失ったちょうそかべ軍は、屋根や木の上に避難しました。

これを機にと、三好軍は船を出し、下からちょうそかべ軍を串刺しにしていったそうです。

この出来事がもとで、『鳥挿し舞い』が生まれたそうです。

このときの戦死者を弔っている神社が、若一王子神社です。

死者 1503人

ちょうそかべ軍 660人、三好軍843人




神社外から


神社は、藍の舘の南西数百メートルの、川の北岸の土手沿いにありました。


若一王子神社



行ってみたけど、なんの説明書きもありませんでした。


とりあえず、鐘を鳴らして、記帳してきました。





場所 藍住町東中富字大塚傍示17-1




若一王子神社を出た後、フジグランに行って、友人親子に会いました。

芋を送ってもらっていたので、その代金を返しました。

^^;



フジグラン



みんなでデザートなど食べて話をして。


金魚すくいもしました。


^^;


金魚すくい



なかなか難しく、結局一匹もすくうことができませんでした。


友人親子と会った後は、いよいよ史跡めぐりに向けて出発です。


今回の帰省で行きたかった場所のひとつ、ご先祖様の城、重清城址のある美馬を目指して、西へ西へと進みました。

^^


続く♪






Posted at 2011/10/30 08:00:43 | コメント(1) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域
2011年08月28日 イイね!

徳島旅行記⑦ 蜂須賀の墓所 ≪関ヶ原合戦で親子が東西に分かれた大名≫

高校時代からの友人の家に行く前に、徳島市内にある蜂須賀家の墓所へ立ち寄りました。

蜂須賀とは、江戸時代に阿波藩を支配していた大名です。

阿波の支配者は、小笠原⇒三好⇒ちょうそかべ(⇒豊臣秀吉)⇒蜂須賀へと変わっていきました。

因みに小笠原と三好は私の先祖です。

(笑)




こんな住宅密集地に!?  と思うようなところに墓所はありました。


こうげん寺



お寺の横に墓の地図があります。


墓の地図



赤が、蜂須賀正勝(小六)
青が、家政・阿波の初代藩主
そして黄色が、至鎮(よししげ) です。


赤⇒青⇒黄の順番で周っていきました。

よししげを基準に言うと、赤のじいちゃん、青のおとうさん、黄色の僕 という感じです。

く(^^;)




お寺のすぐ横に、一般の人たちのお墓があります。

道しるべ


正勝の墓は、その一般の人たちのお墓の中に、ポツンとありました。


正勝の墓


思っていたよりきれいで、さっぱりしたお墓でした。






アップ



≪蜂須賀正勝≫
秀吉がまだ信長に仕え始めた頃からの家来。
その頃は、蜂須賀小六と名乗っており、山賊の棟梁だった。
秀吉の出世と共に彼も出世していった。
墨俣一夜城の建設にも携わった。

正勝 = 家政(子供) = 至鎮(孫)



正勝以外の蜂須賀一族の墓は、別の所にありました。




墓への入り口


この道を通ったところに、広大な墓所がありました。

こんなところにと、そのあまりの広さに、正直かなり驚きました。




家政の墓


アップ



ここで、家政・至鎮親子と関ヶ原合戦についての話を。


関ヶ原合戦の時、日本中の大名が西軍と東軍に、真っ二つに分かれた。

蜂須賀家は東軍西軍、どちらが勝っても生き残れるように、両方の軍に従うという奇策をとった。

それはつまり、父
の家政は西軍、子供の至鎮は東軍ということだった。

蜂須賀は、秀吉のおかげで大大名になることができた。だからその恩は忘れられない。
秀吉は西軍である。

そこで父の家政は、自分の領土を豊臣方に返上し、隠居して戦に参加せずに、ただじっと行く末を見守ることにした。つまりは、西軍ということである。

しかしそのままでは、もしも家康・東軍が勝った時に、領地を没収される。
その対策として、息子の至鎮を東軍に参加させた。
しかしこのとき、至鎮はまだ14歳の子供。
ダメージも最小限に抑える為、ほんのわずかの兵士と共に、藤堂高虎隊に編入されて従軍したという記述が残されている。

こうやって、蜂須賀一族は、関ヶ原合戦という大きな難局を無事に乗り越えることができ、阿波藩主としての地位を確立することができた。

ちなみに上記のエピソードにより、家政は、『阿波の狸』 と呼ばれるようになったとさ。

(笑)


家政家臣 澁谷丹波の墓



金を使い込んでいると訴えられたが、家政はこれを却下し、その恩義を一生忘れず仕え、最後は家政の墓標の前でこの世を去ったと言われている。


家政次女 万の墓





至鎮の墓


関ヶ原合戦に参加していた人物。

ああ、こんなところで眠っているんだなーと、感慨深い気持ちになりました。



横から





いろいろ発見があって、楽しかったです。

徳島の史跡めぐりもナカナカ楽しくてよいですね。

^^
Posted at 2011/08/28 18:05:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域
2011年08月24日 イイね!

徳島旅行記④  蔵本城址 

ケーキ屋さんへ行く前、ここに立ち寄りました。
蔵本(くらもと)駅のすぐ北の線路沿いにあります。


徳島市蔵本駅の城址・蔵本城址


徳島のみんな!! これを読んで、地元の歴史について学びましょうー!!
(笑)




≪蔵本城址の地図≫
この地図は、蔵本駅前のロータリーにあります。
城は田宮川を外堀としていた事より、城の位置はだいたいこんな感じだったのかなと、イメージで赤丸を書いてみました。





1553年(天文22年3月)
阿波守護・細川持隆を殺害した三好義賢に報復する為、細川氏の家臣・久米安芸守義弘(蔵本城主)が、槍場の戦いに出陣したが、逆にやられて戦死した。
享年27才




≪解説≫
①槍場の戦い・・・徳島市国府町の吉野川河川敷南側で行われた大いくさ。国府・佐古などからたくさんの人が兵に借り出され死亡した。

②守護・・・鎌倉・室町時代の軍事指揮官(行政官)

阿波守護・・・徳島の軍事指揮官

安芸守護・・・広島の軍事指揮官





城址のほこら




子供の頃、両親と食事に行ったり映画を見に行ったりしていた場所は、お城の上だったんですね。
全然知らなかったので振り返ってみると面白いですね。

^^
Posted at 2011/08/24 08:08:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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