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すた☆君のブログ一覧

2012年10月14日 イイね!

真田幸村菩提寺『心眼寺』、井原西鶴終焉の地、そして和歌山へ・・・。

≪前回までのあらすじ≫
大阪市・真田丸跡地を時計回りに12時の位置⇒7時の位置まで、自転車で移動しました。




『心眼寺の親切に感動』

雲行きが怪しくなってきました。

雨が降りそうだと思いながら、7時の位置⇒9時の位置にある、真田幸村菩提寺の『心眼寺』前に到着するやいなや、雷の不気味な音と共に、スコールの様な激しい雨が降り出しました。

ここは、大坂の陣の後に、真田幸村親子を供養する為に建立されたお寺です。

自転車を止め、逃げ込むようにお寺の門の下へ入りました。

入り口石碑


雨足はどんどん激しくなり、風も強くなり、それはまるで台風のような天気でした。

傘も持ってきてなかったので、どうしよう・・・ と途方にくれていると、建物の中から住職さんらしき年配の男性がこちらにやってきました。

事情を説明すると、戦争で全て焼けたので、もうなにも残っていませんよとの事でした。

すると、少し雨宿りをしていって下さいと、門をくぐってすぐ横にあるお堂で休憩するようにと勧めてくれたので、お言葉に甘えてそうさせて戴く事にしました。






おさる師匠と二人でお堂の中で腰掛けていると、落雷の音が聞こえてきました。

後にテレビのニュースで、この日大阪市で落雷の死傷者が数名でていると聞きました。

ちょうどこのタイミングでこのお寺にこれて、本当にラッキーでした。

お堂の中で休んでいると、そのご住職らしき方が、扇風機とビニール袋をもってかけつけてくれました。

ビニール袋の中には、試作品だという赤い六文銭の模様が入ったタオルとネクタイが。

そして、ペットボトルのお茶を2本入れていて、どうぞとプレゼントして下さいました。

これには、大変驚きました。

私達のような突然の来訪者に対して、こんなに親切な接待をしてくれるなんて。

お礼の言葉を述べると、さらにその後、キンチョールも取ってきて、蚊がいるでしょうと、辺りにそれをふってくれ、建物の中へ戻っていかれました。

貰いっぱなしでは申し訳ないので、お賽銭箱に多めにお金を入れておきました。


まんなおし地蔵尊・お堂の中


お寺についての説明が書かれた紙がおいてあったので、それを読んでいました。

すると、坂本龍馬を暗殺した2人の人物のお墓がここにあると書かれていたのには驚きました。


1時間ぐらい経った頃でしょうか、雨がやみ雷も遠ざかったので、扇風機とキンチョールを持って建物へ返しに行き、お礼を述べてこのお寺を後にしました。


その後、大阪市立博物館、井原西鶴終焉の地へと立ち寄り、おさる師匠に見送られてこの大阪の地を離れました。

この間も再び、三度と、雨が降り出しましたが、何故かちょうどのタイミングで屋根の下から屋根の下へと移動できました。


おさる師匠   『・・・これはなんか、ついとるぞ。。。』


真田幸村公が見守ってくれていたのでしょうか。

私は勝手にそう受け取りました。

(笑)


井原西鶴終焉の地  (井原西鶴:『好色一代男』 などで有名な江戸時代の作家です。)



車に乗って高速道路へ入り、和歌山目指して南下を始めました。

走っているうちに、辺りはだんだん暗くなってきて、気がついたら真っ暗になっていました。

和歌山の山脈を突っ切ると、眼下に和歌山市の夜景が見えてきました。

さあ、ついに和歌山へ来たぞ。。。

目指すは、ロードスターの聖地、あの人たちのもとへ。。。

心を弾ませながら、車を移動させていきました。



岸和田



続く♪
Posted at 2012/10/16 07:50:27 | コメント(2) | トラックバック(0) | 大阪市の戦国史跡 | 旅行/地域
2012年10月05日 イイね!

真田丸の周りを、自転車で走りました♪

ガラシャの史跡を出た後、真田丸跡地へと行きました。

真田丸は、高台となって今も残っていました。

北側に公園、上には墓地と神社がありました。

とりあえず、北側の正面入り口から、神社へ入りました。




階段の上に抜け穴(写真は東のわき道からの階段)



ちょうど神社の建物の下 に、『真田の抜け穴』と幸村の銅像がありました。


『この穴を通って、幸村が大坂城へ行ききした』 という伝説があります。

抜け穴と真田幸村の銅像

気になるのはこの穴の中ですが、中をのぞいて確認してみると、5メートルぐらい奥に進んだところで、左右にT字型に道がつながっているように見えましたが、それ以上は分かりませんでした。

ちょうどガイドの方がおられたので尋ねてみると、この穴は左に曲がっており、そこでふさがっているそうです。

しかし、自分のおじいちゃんの子供の頃は、この穴がどこかへ抜けてつながっていましたが、残念ながらその後、穴がふさがったそうです。

お祭りの時にはこの入り口を開放するので、中に入られるとのことでした。


ちょっと胡散臭いですが、ネタ的には面白いですね。




神社を下りて、真田丸の周りを自転車で、時計回りに走ってみました。

^^



矢印の方向 (北~南へ)へと、進みました。



真田丸 周り 1






この辺りだと、随分高低差がありますよね。

当時、あのてっぺんの柵の辺りから、銃を撃っていたんでしょうか。

下周りには堀もあったはずだから、登るにしてもナカナカ難しい。

想像すると、面白いですよ。

^^


真田丸 周り 2




ちょうど南の正面にプールがありました。

真田丸の左の先端の真正面です。

ここからオリンピック選手が出たんですねぇ。


プールの壁




当時の真田丸の形ですが、凹を下に180°回転させたような形をしていました。

南側には大きな堀があり、真田丸の上にはぐるりと塀をつなげ、どこから攻められても、真上から銃で一斉射撃できるような構造でした。



真田丸 周り 3   南西の角 



南側をくるりと回ってみましたが、凹のへこんだ部分がなかったので、そこはいつか分かりませんが、埋め立てたように思われます。





≪真田丸≫
1614年 大坂冬の陣で、真田幸村が大坂城の南の外れに作った、出城のような高台。

徳川家康は、豊臣家を滅ぼそうと、大軍を率いて挙兵、大坂城を攻めた。

大坂城は、北と東西には大きな堀があって攻めにくかったが、南側はほとんど陸続きだったので、攻められやすいと想定され、ここで兵をくいとめようと、真田幸村が 『真田丸』 と呼ばれる、出城のような高台を造った。

家康は幸村を警戒し、『真田丸を無視しろ』と言ったが、幸村は近くを通る敵の軍に罵声を浴びせ挑発し、おびき寄せ、一斉射撃。

攻めたのは、前田利常(まえだとしつね・前田利家の4男・加賀2代目藩主)、井伊直孝(井伊直政の次男)、松平忠直(結城秀康の長男)ら。

結果、大打撃を与え、甚大なる死傷者を出した。



しかしこの後、真田丸はとりつぶされ、大坂夏の陣では、敵地奥深くに攻め込んだ真田幸村は、あと一歩で家康の首をとるところまでいったが、命運尽きて、壮絶な最後を迎えた。

この時、家康は死を覚悟したという。。。





それにしても、自転車っていいよねぇ。

おさる師匠に、感謝感謝。

^^
Posted at 2012/10/05 06:53:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大阪市の戦国史跡 | 旅行/地域
2012年09月26日 イイね!

大阪城天守閣と真田の兵たち・秀頼淀君自害の地・石山本願寺址・細川ガラシャ自害の地

天守閣の前に、自分とよく似た人たちがいました。

(笑)


大阪城と真田の武将と兵

・・・暑い中、ご苦労様でした。

言わなくても分かりますよ、その気持ち。

(爆)





日本一?巨大な櫓


でかい。。。

この中、どうなってんだろう・・・?



日本一?巨大な、城に使われた一枚岩


これは、家康が大名に財力を減らさせようと、無理やり造らせたものです。



・・・しかしまあ、とにかく、なにもかもが、デカイ。。。




ここで、豊臣秀頼・淀君が自害しました。



山里郭


1615年 大坂夏の陣。

豊臣秀吉亡き後、関ヶ原合戦で石田三成を破り、勝利した徳川家康。

徳川家を磐石のものにしようと、命尽きる前に豊臣家を滅ぼそうとしかけた、戦国最後の大いくさ。

真田幸村の死闘。

そして、連日連夜の大筒攻撃。

追い詰められた秀頼と淀君は、ここ山里郭に逃げ込み、自害し、この世を去りました。

天守閣前とは違いひっそりとした、人の少ない静かな場所でした。

ちなみに、千姫(秀頼の妻・家康の孫)は、この写真の左の端から、右の方向へ、天守閣を時計回りに北から南へと移動して、
脱出したそうです。

ただ、現在の大阪城は、大坂の陣で家康が燃やした後に埋め立てて、その上に建てられたものですが。








石山本願寺跡地

大阪城天守閣の南の方にありました。

ここから人々が三好元長を倒すべく立ち上がり、その数10万人にも膨れ上がり、彼を死に追いやりました。





大阪城の南西にあります。


太閤下水


この中に、豊臣秀吉時代に造られた下水道が今も残っており、上から見ることができます。

驚くべき事は、今でも水が流れていて、使われているという点で、ビルとビルの合間を縫うように走っています。

これは貴重な遺産です。





そば


おさるさんにチャリンコ借りて、再び大阪城へ。




堀とチャリンコ




やっぱ、でかい。


スケールが違う。。。



巨大な堀




大阪城を南へ行くと、細川ガラシャ自害の地があります。



越中井



ここには、細川屋敷の井戸が今でも残っていて、そこが祭られています。



関ヶ原合戦前、石田三成が東軍の武将の家族を人質に取ろうとし、その手のものがここ細川屋敷へとやってきました。

ガラシャは夫・忠興に迷惑をかけまいと、自ら命を断つ事を決めました。

しかし、ガラシャはキリシタンなので自殺できない為、家臣に槍で突かせて、壮絶な最後を迎えました。

よく知られている、実際にあった悲しい出来事です。





ガラシャの像



越中井のすぐ近くの教会に、ガラシャの像があります。





次、真田丸行きますよ~♪

^^
Posted at 2012/09/27 21:39:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大阪市の戦国史跡 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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