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すた☆君のブログ一覧

2013年01月30日 イイね!

島津家別邸・s島津義弘の生甲冑・島津義弘の猫神神社・西郷隆盛終焉の地・城山から桜島 九州2500㌔車旅

鹿児島市に到着しました。

島津家の別邸のある歴史博物館へ行きました。

桜島に行こうと、湾内をぐるーっと走って行こうとしましたが、想像以上に距離があり、これは3時間ぐらいかかるぞと思い、やめました。

30キロぐらい走ったところでしたが、思い切って引き返しました。

やめるも勇気、引き返すも勇気です。

なんでもそうですが、初志貫徹で、無鉄砲に貫くだけが勇気ではありません。


その代わりに、その手前にあった庭園に行く事にしました。



庭園・・・ 仙厳園   だったかな。。。

一応、翌日いくよていだったんですが、切り上げこれからいくことにしました。



こちらは、かなり観光地化されており、観光バスとかたくさんきていました。



島津義弘のお茶すくい とか、いろんな遺品がありました。

やっぱ薩摩は島津やなあと、強く思いました。



鶴嶺神社



ここをお参りすると、美人になるそうです。

庭園の入り口の手前にありました。






庭園の入口をくぐると正面にありました。

これから察するに、やっぱり島津家の英雄といえば、島津義弘ということなんでしょうね。





島津義弘の甲冑




・・・ん?


島津義弘、よくわからないって?

いやだなあ、あの人ですよ、あの人。

関ヶ原合戦で敵中突破した、あの人のことですよ。。。







立派な庭園がありました。

一通り見て山際の土産物屋の方へ行くと、手前にこんな神社がありました。



島津義弘の猫神神社



これは、朝鮮出兵の際、島津義弘がたくさんの猫を連れて行って、その何匹かが帰国して、ここに埋められ祭られているんですねぇ。

『戦から戻ってきた猫』 って描かれていました。

島津義弘は、大の猫好きだったんだとか。


こんな史跡があるのは知らなかったので、予想外の発見で、とても嬉しくなりました。

すぐ横に、猫のグッズショップがあり、妻に猫グッズを2点ほど土産をプレゼントしました。

猫の携帯入れと、猫の携帯ストラップ。

(笑)





庭園を出たあとすぐにホテルに帰りたかったんですが、せっかくここまできたのだからと、西郷隆盛の洞窟へと行きました。

洞窟のあたりは観光地化されており、みやげ物ややら西郷さんの大きな像などがありました。


洞窟から北方向へ行くと、終焉の地がありました。

こちらは大きなマンションの横で、ここに来ている人は誰もいませんでした。

道は細く、駐車場も無かったので、写真を撮ったら足早にココを離れました。


西郷隆盛終焉の地

西郷隆盛は、ここで流れ弾に当たり、この世を去ったといわれています。








西郷隆盛の洞窟へ行く前、たまたま城山展望台という標識を発見し、なんとなくいきおいとノリでいってみました。

するとそこには・・・




城山から桜島




こんなに綺麗に櫻島が見えました。

ちょうど夕日が差して、山肌がはっきりときれいにみえました。

この時間、偶然ここにこられて、本当にラッキーでした。
Posted at 2013/01/30 14:49:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | 島津一族 | 旅行/地域
2013年01月30日 イイね!

島原城・沖田畷古戦場跡   九州2500キロの車旅

島原城 天守閣


これは模擬天守ですが、白くてとても綺麗なお城でした。

戦国時代が終わり、江戸時代の初めに造られた城で、小高い丘に造られました。

この城を造る為に城主は厳しい年貢を農民に要求し、後の 『島原の乱』 へと発展しました。

天草四郎率いる農民・キリシタン軍と政府軍との攻防は大変激しいもので、数万人もの犠牲者を出し、島原半島の南半分の人間皆殺しという悲惨な戦となりました。

江戸から遠く離れていた所に酷い殿様が誕生して、やりたい放題やっていたのでしょうか。

戦のあと10年間は誰もよりつかない土地となり(関ヶ原に似ている)、現在住んでいる人たちはのちに別の村から引っ越してきた人たちの子孫だと聞きます。

お城は綺麗で観光地としてはいいですが、悲しい歴史のあるお城です。







沖田畷古戦場跡 二本木神社 説明


島津軍と龍造寺軍との戦がおこった場所です。

このころ九州は、大友家と島津家と龍造寺家との三代勢力があり、龍造寺隆信率いる巨大な軍勢が、北からこちらへと南下して、勢力拡大を目指しました。

しかし、ここで島津軍は 当時この土地が沼地だったのを利用して、『野伏せ吊り』という戦法をとりました。

『野伏せ吊り』とは、その名のとおり、おびき寄せて吊って、野に伏せて隠れて、前後左右から奇襲攻撃をする という戦法です。



当時、島津軍の陣地の前には、一本の道がありました。

西側には山があり、東側には海がありました。

その一本の以外は、泥沼でした。

海は現在埋めたれられ、このようになっています。



海方向 (島原町のユニクロの南の交差点を左に曲がって、線路を渡ったすぐのところの神社)


少数で龍造寺軍に攻め込んだ島津軍は、少し攻撃しただけで、退却しました。

それを、深く深く追いかけた龍造寺軍。

泥沼のあちらこちらに潜んでいる島津軍。

十分ひきつけたところで、前後左右からいっせいに攻撃。

弓矢や鉄砲やら、それは戦国時代の戦において、情け容赦の無い、大変冷酷無比、残虐な戦法だったそうです。

あっというまに戦死者が続出し、龍造寺隆信も戦死してしまい、島津軍の大勝利となりました。




戦国マニアの間では有名ですが、地元の人にもよく知られていない古戦場でした。

当時の泥沼はもうなく、海以外はほとんど面影が残っていない史跡でしたが、確かにここでこの戦が起こったという説明板が、今も静に残っています。

ここから少し北に行くと、龍造寺隆信の供養等があるらしいのですが、探したけどどうしてもみつかることができず。

しかしまあ、ここまでたどり着けただけでも満足できました。
Posted at 2013/01/30 13:54:54 | コメント(2) | トラックバック(0) | 島津一族 | 旅行/地域
2010年07月09日 イイね!

島津隊の陣跡を、徹底分析!!

今回は、島津義弘の陣跡について、深~く語りたいと思います。



大きな旗



ここ、島津義弘の陣跡にある石碑は、関ヶ原にある石碑のなかで、一番立派だといわれています。

最初は、この小さな石碑のみでした。

これは、明治39年に関ヶ原村によって建てられました。



それから数十年後のある日、ココに薩摩の人がやってきました。

その時、草ぼうぼうの中に立っているこの小さな石碑を見て、『これは酷い!!』 と思い、その後、薩摩(鹿児島)に帰ってから、募金活動を始め、たくさんお金を集め、現在の大きな石碑を建てたそうです。

新たに建てられた、島津隊陣跡の大きな石碑

これは、昭和15年に建てられました。

鹿児島産の石を使っているそうです。




うーん、確かにこれは立派だ。

それにしても、薩摩の人たちは、太っ腹だなあ。

感心。。。




島津隊は、合戦時に敵中突破をしたことで有名です。

それにあやかって、毎年夏になると、薩摩の人たちがここにやってきて、3泊4日をかけて、ここから大坂までの約120キロを歩くそうです。

その参加者たちは、『関ヶ原戦跡踏破隊』 と、呼ばれています。

これは、島津隊の逃避コースを体験するもので、かなり過酷らしいですよ。

スズメバチが襲ってきて病院に運ばれたり、ヒルが降ってきたり。。。

一部あまりに危険なところは、回避するそうです。







その参加者たちの名前は、これに刻まれています。

子供から大人まで。

最年少で踏破できた参加者は、なんとたったの9歳の子供らしいですよ。







この行事は、昭和35年から続いているらしく、そのたびにこの石板碑の裏表に名前が刻まれ、並ばせているので、それはこの写真のように、どんどんどんどんと、後ろへ後ろへと並んでいます。

ちなみに今一番新しく置かれている石板碑の前には、木があるので、この後どこに石板碑を置くんだろう。。。などと思ってしまいます。


木を倒すのか?

(笑)


アップ


後疑問なのは、どうやってここに刻んでいるのでしょうか。

その作業現場をちょっと見てみたい気もします。

(^^;)




因みに、現在の島津義弘陣跡は、島津豊久の陣跡であり、義弘の陣跡は以下に記す薩摩池辺りだという説が有力になっているそうです。

とはいっても、そこに石碑を移すわけにも行かないしねえ。

小さい石碑だけだと移動できるけど、こんなに大きなのを建てちゃあね。

(笑)



薩摩池

この薩摩池の水は、島津隊が軍用に使ったそうです。

昔から、枯れる事の無い池だと言われているそうです。

地下水脈が山につながっているのでしょうか。。。






小西陣方向



島津隊の陣跡のすぐ南側には、小西行長の陣跡があったそうです。

島津隊は1000人しかおらず、向かってきた敵を打ち返すだけで精一杯だったそうです。


その戦法は、敵が近づいてきたら、馬柵の後ろから鉄砲を撃ち、続いてやりが出てきて、また鉄砲を撃つのを繰り返す・・・と言ったものだったそうです。

島津義弘は、ほとんど薩摩で住んでおらず、国の行事は兄貴に任せて、自分は京都で仕事をしていたので、薩摩藩はあまり兵を送ってくれなかったそうです。

本来の島津隊ならば、もっとたくさんの兵士がくるらしいですが。

それで、希望者を募って、彼を慕う部下を中心に、約1000人の兵士が集まったそうです。


西軍が総崩れになり、逃げる小西隊の兵士が島津隊に紛れ込んできた時、それを鉄砲で追い払ったそうです。




ちなみに小西行長も、あまり積極的には戦っていなかったそうです。

その理由は、『大垣城での篭城作戦を提言したけど、石田三成に却下されたから』 とも言われています。

島津隊があまり戦わなかった理由も、『赤坂陣への夜襲を提言したけど、石田三成に却下されたから』とも言われていますが、赤坂陣のある山の周りは湿地帯だし、見晴らしもいいので、それは違うだろう、ただ単純に人数が少なかったからだろうとも言われています。





それに驚いた小西隊の兵士たちは逃げ場を失い、後ろにある池に飛び込み、ここでたくさん溺れ死んだと言われています。

小西陣の横の池


この池は一見すると浅そうですが、すり鉢状になっているので、急激に深くなり、大変危険らしいです。


ちなみに昔、今のおじいちゃんたちは、学校の体育の授業で、この池で水泳の練習をしていたそうです。

チョット今なら考えられないですよね。





Posted at 2010/07/09 11:46:10 | コメント(2) | トラックバック(0) | 島津一族 | 旅行/地域
2009年09月16日 イイね!

島津義弘の陣跡とピンクの花 イン 関ケ原

島津義弘の陣跡に行ってきました。
薩摩(鹿児島県)から、こんな遠いところにまできて・・・と思うと、少し切なくなりました。
島津軍は敵中突破が有名です。
関ケ原の合戦時、西軍の敗北を悟った島津軍は、殿をくにへ返す為、『家康の本陣めがけて突入して逃げる』という、大胆な行動にでました。
逃げる途中、殿を助けるために追っ手に立ち向かって戦死したおいっこ(多分)の豊久の碑の跡が、関ケ原町旧伊勢街道の南の方にあります。
最初1000人いた兵は、残り80余名にまで減ったそうです。
こうして、義弘は、無事に薩摩に帰ることができました。

本当にあった、悲しい物語です。



Posted at 2009/10/24 13:18:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | 島津一族 | 日記

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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