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2013年08月30日 イイね!

蜂須賀小六(正勝)の墓  ~徳島市眉山(万年山)~

蜂須賀小六(正勝)の墓  ~徳島市眉山(万年山)~蜂須賀 正勝 は、蜂須賀 小六(はちすか ころく) の名で有名で、山賊をやっているときに、矢作橋(やはぎばし・愛知県岡崎市)で、年下で若かった秀吉と出会って、秀吉の家来になった物語で有名です。

その物語は作り話で、実際は小六は町の権力者の息子で、矢作橋での出会いも無いそうですが、どこかで秀吉と出会った事には違いありません。

その後、小六は、『墨俣一夜城』や『備中高松城の水攻め(黒田官兵衛のアイデアと言われているが、蜂須賀小六のアイデアだという説もある)』などの有名な戦で活躍し、陰で秀吉を支えました。

小六は秀吉から、阿波藩(徳島県)を与えると言われましたが、歳も取っていたので(一生秀吉のそばで仕えたいというエピソードもある)、阿波藩(徳島県)は息子に譲って、小六自身は阿波藩の家祖となりました。




~蜂須賀家~
家祖   ・・・正勝(小六・四国征伐で功を立て、家祖となる)←おじいさん
藩祖   ・・・家政(関ヶ原合戦で西軍・阿波を豊臣に返上し、高野山に立てこもり)←息子
初代藩祖(初代藩主)・・・至鎮(よししげ・15歳で関ヶ原合戦に参陣・東軍・家康の娘婿・大坂の陣で大活躍し、淡路を加増)←孫

(因みに阿波藩は全て蜂須賀家ではなく、脇町は別の人の領地だった。阿波藩は、徳島県と淡路島だった。明治時代?にこの人が騒動を起こし、処罰として国がこの人の領地だった淡路島を取り上げ、阿波藩は徳島県だけになった。今でも『淡 路 島~ あわ じ しま ~(阿波の道の島)』という名前に、その由来が残る。)


関ヶ原合戦で、父子で西軍と東軍に別れ、どちらが勝っても生き残れるようにした事から(真田親子と同じ)、徳川家康から蜂須賀家政は狸だと言われた。

これすなわち、『阿波の狸』である。

今徳島市で大きな祭りとなった『阿波の狸祭り』は、ここから来たと考えられる。



~阿波藩と居城~
蜂須賀家の居城は徳島城(徳島市)ですが、天正14年(1586年)に築城し、一宮城から移ってきた。

一宮城は、ちょうそかべもとちかに攻め落とされたが、その後秀吉の軍(秀長・秀吉の弟、墓所は大和郡山)と激しく戦い落城した。

天正13年 1585年。

このとき、蜂須賀正勝(小六)の取り成しで降伏、ちょうそかべもとちかは、阿波(徳島)・讃岐(香川)・伊予(愛媛)を手放し、元の高知へ戻った。

正勝は家政を藩祖に推薦した。


阿波⇒蜂須賀正勝(小六)
讃岐⇒仙石秀久
伊予⇒毛利、小早川隆景(小早川秀秋の養父・小早川秀秋はこの大軍勢を率いて関ヶ原合戦にやってきた)


江戸後期、水運を利用した阿波の藍染などの商品取引などにより、全国有数の都市へと発展。
徳島市は多数の川に囲まれた小さい島でできており、『水の都』である。
明治27年 徳島市の人口は約59,900人、全国11位


もともと、小六のお墓(遺骨)は、大坂のお寺にあったそうですが、そのお寺が無くなり、昭和46年に、眉山(万年山)へと移されたそうです。





蜂須賀小六は、僕の大好きな武将の一人なんですが、まさかこんな身近なところに彼が眠っていたというのには、知った瞬間、驚きを感じました。

つい最近まで興味が無かったので、多分お墓の横を何回も素通りしてきました。

そして、興味が出たから、その存在に気がついた。

今まであちこち、愛知県など、彼の史跡を巡ってきましたが、

幼い頃から彼に見守られてきたような、不思議な縁を感じました。

^^


あと余談ですが、正勝という名前も好きです。

正しく勝つ。

^^






場所:徳島市眉山、佐古の万年山、山頂まで車で登って停車して降りたらすぐ目の前。

麓には、蜂須賀家の墓所がありますが、これらは麓から歩いて1時間でまわれます。

小六の墓は佐古から登ると、2時間はかかりますし、駐車場も無かったと思います(現在万年山の蜂須賀墓所の工事中)ので、山頂から降りることをお勧めします。

道路付近に標識アリ。
Posted at 2013/08/30 02:10:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | 蜂須賀小六 | 旅行/地域
2012年04月08日 イイね!

蜂須賀小六の生誕地、菩提寺、蜂須賀城址

関ヶ原から南東へ約40キロ。

11時に出発して、12時半ごろ近くのコンビニコ コストアに到着、戦前の腹ごしらえをしました。

^^


戦前の飯


左下の海苔のテリヤキパンが美味しかったです。
^^



まずはじめに、あま市美和歴史民族資料館へ行きました。

あまりたいしたことなかったんですが、数キロ南下したところに 前田利家の妻の まつ の生誕地があることが判明。

次回行ってみようと思いました。

^^




蜂須賀小六の生誕地へ無事到着。


美和歴史民族資料館から西へ1キロぐらいのところにありました。


桜が綺麗でした。



^^








蜂須賀小六は、もとは野武士の棟梁でした。


村のゴロツキのお頭みたいな。


その後、若かりし頃の秀吉に仕えます。




蜂須賀 説明





小六は秀吉に、墨俣一夜城の協力を依頼され、それを見事に成功させ、秀吉の出世を大きく助けました。



(私のご先祖様を殺したニックキ)ちょうそかべもとちかを滅ぼして四国を制覇した秀吉は、阿波藩17万石を小六に与えようとしましたが彼はそれを拒み、息子の家政にゆずりました。


彼こそが、阿波藩徳島城の初代城主、蜂須賀家政公です。


蜂須賀の殿様は、江戸時代に阿波踊りを作りました。


江戸時代、徳島市中心の新町橋付近で突然町の者達が踊り始めて、蜂須賀公がそれを毎年お盆に躍らせるようにしました。


阿波踊りの歌の中にも、『阿波の蜂須賀~』 と歌われています。






手前



阿波藩を息子に譲った小六は、最後まで秀吉の側でサポートしていたそうです。





蜂須賀城址 石碑



蜂須賀は、この辺の町の名前になっています。



石碑




想像していたよりもはるかに巨大でした。


僕の背丈の3倍ぐらいありました。


造られたのは昭和9年だそうですが、そんな時代によくこんな巨大な岩を立てたなあと感心させられました。



石碑アップ



蜂須賀 と書かれているのが分かります。




門前




ここに、蜂須賀小六が眠っているんだなあ・・・。



本堂




中には入りませんでしたが、古くていい味の出ている立派な本堂でした。


蜂須賀氏は、ここから徳島へとやって来て、阿波踊りを作ったんですね~。


毎年お盆に楽しませてもらっている故郷の行事に感謝。


歴史のつながり、人のつながり、面白いです。


^^
Posted at 2012/04/08 11:00:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | 蜂須賀小六 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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