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すた☆君のブログ一覧

2019年10月14日 イイね!

敦賀日帰り旅行記「大谷吉継の朝鮮鐘」「昆布館」「小牧蒲鉾工場」「海鮮アトム」「巨大ローラーコースター」「野坂茶屋」等

「小牧のかまぼこを食べたい」

という訳で、敦賀へ行ってきました。

まず最初は、「昆布館」へ。

昆布バニラソフト

そして、数々の無料試飲コーナー

高級昆布出汁、梅昆布茶、昆布茶・・・昆布が好きになりました。

工場はお休みで見学できず、昆布の歴史館があり、見学。

途中、懐かしい感じのロボットがありました。

ロボット

昆布の歴史は面白く、大変重宝されるので、西に東に品を変えながら売買され、最後は大金に変わるというエピソードが、今も昔も同じだなと笑えました。


続いて、かまぼこ工場へ

小牧蒲鉾工場

次々に試食をしまくって、結局買った買った、かまぼこ約5000円分。

美味しいんだけど、正直、小さくて量が少なくて、高い。。。


ランチは 「おさかな市場の近くのアトム寿司が美味しい」とのことで、アトムへ。

40分待って、やっと座れました。

海鮮アトム

とても美味しかったので、また行きたいです。

続いて、少し北上、大谷吉継が朝鮮出兵から持ち帰ったという鐘のある神社へ行きました。


鐘はこの奥の蔵の中にあり、200円払えば見学させてくれ、ガイドしてくれます。

「大谷吉継が持ち帰ったというのは、最近言われている新説で、証拠の古文書とか文献とかは無いそうですが、おそらくそうだろう」との事です。

この鐘は国宝で、日本でも数少なく、とても貴重なものだとの事でした。

朝鮮鐘のある倉庫(奥側)

海のすぐ横にあり、境内から海が見え、その向こうには敦賀火力発電所が見え、とてもきれいな景色でした。

鳥居の向こうに海


神社からさらに海岸線に沿って北上すると、海水浴に人気の無人島があるというので、見に行きました。



なるほど、きれいな島ですね。


続いて、お子様待ちに待った、人気の公園へ。

巨大ローラーコースター

前回滑って、思いっきり尻もちついて痛い目にあったんで、この日は滑りませんでした(入場料100円払ったけど)。


最後、この前行ってとてもよかった、近くの山の喫茶店へ。

野坂茶屋


閉店の一時間前で、ラッキーラッキー、貸し切り状態。


ケーキとお茶

高い天井の山小屋風の室内。

ゆっくり深呼吸しながら、ゆっくりとお茶を飲みこむ。

体中の空気が、すーっと新しい空気に入れ替わるようだ。


お茶するすた

ここはシフォンケーキが柔らかくて美味しい。

お土産にケーキをたくさん買って、会員カードも作って、帰宅。


敦賀、楽しかったんで、また行きたいです。
Posted at 2019/10/14 15:24:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大谷吉継 | 旅行/地域
2019年03月17日 イイね!

大谷吉継の史跡巡り 「愛知県田原市~大谷一族の子孫たちに愛されている史跡たち」

前々回の「ロードスター車中泊」の続きになります。
^^;

この日の目的地、愛知県田原市、渥美半島にやってきました。

今日は、「浦町大谷吉継一族の歴史」について研究をしている、浦町大谷一族の子孫の友人が、大谷吉継ゆかりの史跡を案内してくれます。

「道の駅めっくいんはうす」で無事に合流、さっそく史跡へ移動です。

今回は、田原市の浦町 という地域にある、「浦町大谷吉継続家の史跡巡り」になります。



車で15分ほど走ったところで、最初の目的地に到着。


八幡社 ロド


うーん、この神社の造り、お城っぽいなあ。



神社周り 


まるで山城みたいな。。。


はい、本題へ入ります。


ここ八幡神社には、大谷吉継の名前が刻まれた石碑があります。

なんでこんなところに出てくるのでしょうか?



鳥居


こんなにしめ縄の位置が低い鳥居、珍しいですね。



石碑手前


はい、これがその石碑になります。



石碑 全体


注目すべき文章が、後半に刻まれています。




石碑 ピックアップ


「文禄慶長(朝鮮出兵)の頃 越前敦賀の城主 大谷刑部 関ケ原の合戦 に敗れ自害する。

その時に 家臣の 大谷刑馬 一族郎党を率い 御神体 を奉持して 浦町 に 居住する。」




では、この大谷刑馬(おおたに ぎょうま)とは 何者なのでしょうか。

古文書が残っていないので彼が何者かは分からないそうですが、大谷吉継とゆかりの深い人物には違いないそうです。

刑馬という名前も、刑部に似ています。

きっと何か繋がりがあるのでしょう。

古文書がないゆえに、田原市も大谷一族に関する史跡等を町の歴史としては認めていないそうです。

家系図は幕末にあったそうですが、仲良くなったお侍さんが持ち帰ってそれっきりだそうです。

しかし、浦町の子供たちが昭和の初期頃によく歌っていた歌 「童浦かぞえうた」には

「九つ 古墳のこうじんは 大谷よしたか 祭りたり」 という歌詞があるそうです。



浦町 は、戦国時代のその前から、落人の村 として知られていたようで、昔は 訪れにくい 分かりにくい 地域だったそうです。

関ケ原合戦の20年ぐらいあとに、彼らはこの村にたどり着いたのでは とのことでした。




はい、では次に、ご神体を祀る祠へ移動します。

駐車場がないとの事で、畑の道や山の横の道をしばらく歩きました。

ブロッコリーの畑や、菊のビニールハウスがたくさんあり、初めて見るものばかりでとても新鮮で、気持ちのいい散歩でした。


祠は農家の家々のわき道をどんどん入っていった一番奥の山際にありました。

これは、友人と一緒でなければ入れません。

不審者と間違われます。

(><)



「荒神神社(大谷神社)」





これは、浦に落ち延びてきた大谷一族が、吉継を祀るために江戸時代に建立したそです。



祠手前

見た目には何を祀っているのか分かりませんが、祠の左右の石碑には、大谷さんの名前がたくさん刻まれていました。

おそらく 数百年にわたり、名前を隠して守ってきたのでしょうね。

毎年2回お祭りをしているそうです。




ここを離れて、またしばらく歩きました。

次の目的地には、大谷吉継が朝鮮出兵から持ち帰ったシジの実が大木になって今でもあるとの事。

この木を見ることは念願で、今回の旅行で私が特に楽しみにしていた事の一つです。



事前にグーグルマップで調べていたので、全く同じ景色が見えてきました。

今の時代って、凄いですよね。



墓地の全体


墓所へと通じる道です。







これをしばらく登ると、道の中腹の右側に、真ん中から斬られた木があり、それがそうです。

お墓参りに邪魔なほどに大きくなったから、斬られたとか。


シジの木


大谷吉継は朝鮮出兵で飢えをしのぐために、「シジの実」を食べていて、それを日本に持ち帰り、「一族の命を救った宝」として大切に育てていたそうです。

関ケ原合戦の時は、大谷吉継は自害する直前に、そこへ シジの実を土の中に押し込んだそうです。

シジの木は日本ではとても珍しい木なので、関ケ原にシジの木が生えているところがあれば、そこが大谷吉継が自害した場所 という事になります。

今後、注意して探してみようと思います。

ただ、僕も正直この木を直接見ても、どこを特徴として探していいのか分かりません。

もしかしたら、日本一の植物学者の牧野富太郎が作った植物大図鑑には載っているかもしれないので、今後そちらを調べてみようと思います。

因みに「シジの木」は「椎(シイ)の木」ではありません。

「シジの木」をネット検索してみましたが、全く出てきませんでした。

日本ではとても珍しい木です。



余談ですが、以前、この町から関ケ原に来た人がいて、私がいつもの調子で大谷吉継の涙の最後のお話をしてみんな去っていたあと、ふらりと僕の真横に来て、

「渥美半島に大谷吉継が生き延びたって知っている?」と言ってきました。

物語を根本的にぶち壊そうとしていました。

すた 「本人じゃないでしょ? 子孫でしょ? 家老か身内の大谷刑馬でしょ?」

その人は、ちょっと教育してやろうという感じで話してきましたが、私はすでに友人から教えてもらって勉強していて知っていたので、「なんで知っているの?」と驚いて、目が点になっていました。

その人が「シジの木」をしきりと「椎(シイ)の木」と連呼していたので、その間違いにも気づけました。

「椎の木違いますよ、シジの木ですよ。」と、思わず言い返してやろうかと思いました。

最後「知っているの!? 本当に!?」と驚いて去っていきました。

撃退できたのは、友人のおかげです。

はい、では話を戻します。



道を抜けたところにお墓がたくさんあり、その一番奥に 「大谷吉隆のお墓」があります。

大谷吉継は関ケ原合戦で、不幸な死に方をした同じ名前の人物 三好吉継と同じ名前という事を嫌って、吉隆と名前を変えました。

だから、吉継(よしつぐ)⇒吉隆(よしたか)となっています。


大谷吉隆 供養のお墓


このお墓は大正時代に、浦町の人々が、気軽に大谷吉隆を祀れるようにと建てられたものだそうです。

墓石に刻まれている戒名ですが、「院殿」というのは、仏閣の建立者、大名、または戦国武将クラスの人物でないと授けられないそうです。

 吉 峰明 隆 に、吉隆の文字が刻まれているのがわかります。


違い矢

これは大谷吉継の「違い鷹の羽」の家紋と少し違います。

正体がばれないように少し変えたものと考えられるそうです。

大谷一族も明治に入るまで「大屋」と名前を変えていたそうで、明治政府による苗字御免の際に再び「大谷」に戻したそうです。


お墓詣りを終え、再び山道を通っていると、シジの実を見つけました。

友人も、シジの 実 を見つけたのは初めてだそうです。


シジの実

親指サイズのとても小さいものでした。


友人が「食べようか」と迷っていたので、「救急車を呼ぶかもしれないのでやめとこう」と止めました。

伝承によると食べれるはずなんですが、やっぱり、ね。

(笑)


実はそのままにして、墓所を後にしました。





ガードレール下に花

田原市は花の町で、沿道に花畑をたくさん見ました。

こういうのって、いいですよね。

心癒されます。


次は、最後の史跡になります。

大谷家のもっとも古い記録が残されていたお寺です。

1639年だそうです。

関ケ原合戦の直後に移住じゃなくて、大坂の陣のあとに、伊勢から船で移住じゃないのか? が、友人の考えです。


最初に出てきたお寺  西光寺



一通り見たので、車へ戻ることにしました。

この電柱、完全に埋められていますね。

これも凄いですね。



電柱埋もれた



最期に大谷吉継の子供たちですが、次男頼継は関ケ原合戦に参戦後、敦賀で病死という話が一般的だけど、実は田原に移住してて、その子孫が現在に至る というお話や、

木下頼継の子孫が大谷刑馬で、その子孫が現在に至る というお話とか、いろんなお話があり、

まだまだ魅力の尽きない地域であることは違いありません。


田原市の史跡巡りですが、このあと、田原城へ行きました。

それはまた、次回へと。


戦国史跡巡りですが、以前ほど多くありませんが、ボチボチ続けていますんで、また紹介したいと思います。

では。

^^


*上記の内容の紹介については、友人からブログに載せていいとの許可を得ています。
Posted at 2019/03/17 11:26:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大谷吉継 | 旅行/地域
2013年05月13日 イイね!

大谷吉継が関ヶ原合戦で使った陣鐘

歴史友達が、いつもドライブ中に気になる『お勝山の麓の大きなお寺』について調べた事により、偶然発見されました。

『もうすぐ見られなくなるらしい』との事より、仕事の帰りに飛んで行きましたが、1回目は山門が閉まっていまして、2回目にて、ようやくお目見え。


大谷吉継の陣鐘


小さい鐘ですが、こんな凄い遺品がこんなに近いところにあるのかと、驚かされました。

なんせ、大谷吉継の遺品や史跡って、ほとんど残っていませんから。


鐘の前に解説板がありました。

説明


関ヶ原合戦にて、大谷吉継が陣鐘として用いたもので、これをたたいて兵士達の士気を挙げたり、合図を送ったりしたそうです。

美濃赤坂駅の少し南にあるこのお寺 『安楽寺』には、徳川家の葵のご紋があちらこちらに、これでもかというぐらいにたくさん彫られており、関ヶ原合戦後に戦の戦利品として、家康が手に入れて、それがこのお寺にやってきたということらしいです。



このお寺の本堂のわき道を登ると、お勝山山頂にたどり着きます。

斜面にあるお墓の間の階段を上り、獣道のような細いあぜみちをつっきると、たくさんの無縁仏が密集している広場に出て、そこを曲がると山頂で、薄気味悪いところでした。


てっぺんには何も無く、ただ石碑があるだけ。

お勝山石碑




もうこの辺りの史跡はいきつくしたかなあと思っていましたが、まだまだ残っているもんだなあと思いました。
Posted at 2013/05/13 17:40:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | 大谷吉継 | 旅行/地域
2013年05月05日 イイね!

大谷吉継の話を見直して、さらに改良。。。

喋り口調で昨日のガイドしたとおりにざざっと書いて、それに新しい形を加えます。




実はこの関ヶ原では、この大谷よしつぐと側近の湯浅五助との最後の話が非常に人気がありまして、とても感動する物語です。

今からさらに、もう5分間少々かかりますので、興味のある方だけココに残って、はなしのつづきをお聞き下さい。

ではちょっと、準備させていただきますね~
(といいつつ、ここで武将隊の写真集を取り出す。ここで興味の無い人たちが後に去って、また新しい人が加わる。)

はい、お待たせしました。
では、話を始めさせていただきます。

小早川秀秋がうらぎって、あの天満山の裏側へ攻めた時、そこには、大谷よしつぐがおりました。

彼は、福井県敦賀城の城主、5万7000石の大名で、この石田三成の親友でした。

年は二人とも同じぐらいで、41、2歳ぐらいでした.

この大谷よしつぐという人物は、ライ病、ハンセン病とも言います。

顔の皮膚がみにくくただれるという病気を持っておりまして、普段は頭からスッポリと、真っ白なずきんを、このようにすっぽりとかぶっており、目だけをだしておりました。

目は殆ど見えず、体も不自由で歩く事もままならぬ、いつもはみこしのうえにのっかって、それを家来達がかついで移動する という手段をとっていました。


三成が家康に戦いを挑むと、よしつぐに言った時、かれは、『おぬしでは家康には勝てぬ』といいました。

それには大きく二つの理由がありました。

まず一つは、石田三成は、お隣滋賀県のさわやま城城主、19万石の大名。

それにたいして家康は、なんと250万石。

10倍以上も兵力差があったんですねえ。

そして二つ目の理由。

実はこの石田三成という人物は、ちょっと嫌われておりまして、人望がありませんでした。

厳しすぎたんですね。

なので、よしつぐはみつなりに挙兵をやめるように伝えましたが、

よしつぐは、みつなりに大きな恩があり、親友と言う事もあったので、最後はかれの説得に負けて、

共に戦うことを決意しました。

このおおたによしつぐという人物は、大変頭のいいぶしょうでして、人望の無い三成をフォローする為に、大変強い武将達 毛利や宇喜多を味方につけることによって、この大きな西軍というチームをつくりあげました。

ここから、合戦の話に入ります。

あのピンク色にいろづいたあたり、あそこにいた小早川秀秋は、天満山この手前の山のうしろめがけて、右斜め下方向に、一直線に坂を下り、そこにいたおおたによしつぐをこうげきしました。

彼は秀秋がうらぎるのをよそくしていたので、3000人で15000人を3回押し返しましたが、この手前の4隊までもが裏切るのを予測できなかったので、最後彼は死を決意しました。

そのときによしつぐは、残った家来達に持っていたお金を全て分け与え、

『わしをココに残し、この金持って生き延びよ』

といいました。

よしつぐは歩けないので、逃げる事はできません。

しかし家来達は、みな、『そんなことはできません』といい、次々に敵中めがけて突っ込んでいき、みな戦死しました。

(・・・この辺り、正直自分でも疑問。。。だが、このほうが面白い。つっこまれたら、そういう甲冑劇を見たんでと、答える。^^;)

大谷よしつぐには、側近で湯浅五助という人物がいました。

よしつぐは、五助にこう言いました。

『わしの醜い顔を敵にさらしたくない。この首かっきって、地中深くうめよ。』

そういって、よしつぐは腹を切り(切腹の真似をする)、ごすけは彼の首を泣く泣く切り落とし(ここで首を切る演技をする)、穴を掘って、それをうめていました。

ちょうどこの山の裏側です。

するとそこに、敵方のとうどうたかとらのおいっこの、とうどうにえもんという人物がそこに出くわしました。

ゆあさごすけは、にえもんにたいして、こういいました。

『(ゆっくりと強調して喋る) 自分の首を差し出すから、首のありかは誰にも言わないでくれ。』

その熱い忠義心にうたれた彼は、『わかった』と約束し、ゆあさごすけは腹を斬り(切腹の真似をする)、にえもんは五助の首を切り落とし(首を切る演技をする)、その首持って、あそこの正面陣場のの家康のいるところへいきました。


しかし家康は、これを怪しんだ。

なぜならば(強調)、湯浅五助はおおたによしつぐの側近中の側近。

五助のくびだけあって、よしつぐのくびがないのはおかしい。

そこで、にえもんを問い詰めると、彼はあったことすべてを、正直に話しました。

そしてにえもんはこう答えました。

『湯浅五助と約束をしたので、首のありかはいえません!!(強調)』

ここでごすけは、家康に斬られてもおかしくないんですね。

しかし家康は彼を褒め、さら褒美をあたえて、『お前は武士として立派なやつだ』

といい、これ以上首のありかについては、なにも聞きませんでした。

なので、今もこの山の向こうのどこかに、おおたによしつぐの首が眠っていると言われています。

(ここでみんなが山・天満山の方を眺める)

いまげんざいここには、おおたによしつぐの首が埋まっていると思われているあたりに、彼のお墓がありますが、これは、のちのちのじだいに、このとうどうけのごしそんの方々によって、建てられたものです。

もちろん、このお墓の下には、なにもありません。

すぐあとに、ゆあさごすけのお墓も、かれの隣に建てられました。

この二つのお墓は、今現在にいたるまで、このあたりの関ヶ原の人たちの手によって、大切に管理され、今現在にいたるまで、ずっと維持されてきました。

以上で私の話は終了させていただきます。

みなさま長い時間、ご静聴ありがとうございました。






・・・5分30秒かかった。


5分少々って言っておこう。


さ、そろそろ準備しないとやばい。

1時間半もかかった。


^^;


















Posted at 2013/05/05 07:56:18 | コメント(1) | トラックバック(0) | 大谷吉継 | 日記

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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