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すた☆君のブログ一覧

2016年01月19日 イイね!

広島・山口 戦国史跡巡り ④  広島城 ~福島正則・改易の真相について~ 

広島城には専用の駐車場が無く、お城の周りを2周して、やっとの思いで地下に駐車できました。




広島城 お堀




広島城は、関ヶ原合戦前後の城主が 毛利輝元⇒福島正則 なので、関ヶ原でガイドをやっている私にとっては、いつかは行きたいお城のひとつでした。



福島正則は関ヶ原合戦後に、このお城の修復を勝手にやったとして改易になり、長野の北のはて 小布施 に飛ばされ、石高も10分の1にまで減らされ、そこで生涯を閉じました。


これだけ聞くと、『家康は豊臣恩顧の武将の福島正則が邪魔になって利用してから追放した』 と思われがちですが、実際は違ってて、

福島正則が改易になったのは、1619年。

大坂の陣の後、徳川家康が亡くなった後になります。


では実際はどうだったのか。

ちょっと、調べてみました。



広島城 門




まず簡単に、彼の履歴を。

福島正則

秀吉のいとこ。

1587年(天正15年) 伊予国分城主 11万石

1595年(文禄 4年) 清須城主    24万石

1597年~1615年まで 羽柴正則 と名乗っていた。

1601年(慶長 5年3月) 広島城に入り、 安芸・備後 49万8000石の大大名となった。

広島城に6つの支城を設け、農業用水の整備や新田開発を行い農業振興を図ったり、他色々な政策を行い、国づくりに注力した。




で、次に本題。

お城の修復トラブルについて。


1609年7月  正則が支城の1~2つを改修中、家康に『新規築城してるのか!!』と誤解され、謹慎した。

その後家康が許してくれたので、駿府へお礼に行ったが、本多正純に『今後にしろ!』 と追い返された。


1611年  正則は大病になった。病気が治った後、家康が薬をくれた。

        このころの正則と徳川家との関係は、極めて良好であった。


1616年  徳川家康 死去。


1618年 12月  江戸に居た正則に、広島から「お城の修復にこれぐらいかかります。」と連絡があり、正則は OK と返事を出した。

この頃、広島城はかなり壊れていた。

1619年 5月3日 切迫感は無かった(改易の1ケ月前)。




~この辺をもっと詳しく。~


正則は、広島城の普請を行ったが、幕府への事前届出を失念していた。

これを、老中 本多正純に事後報告したが、正純は徳川秀忠に報告しなかった。



秀忠は激怒したが、正則を条件付で許す事にした。


条件とは ①本丸を残して、二の丸三の丸の~の破却
       ②孫の江戸出府
       ③幕府検使を受ける。


しかし、全て言われたとおりにしなかったので、改易になった。



*これについては、佐竹の家臣 梅津政景(秋田県)の日記に書かれています。

伏見城で諸大名の家老を招集して、福島正則の改易に関する事情説明を行ったそうです。






広島城 天守





広島城はとても見ごたえがあって、中の資料館も、1~1.5時間ぐらい見て回りました。

本当に、行けてよかったです。

^^






これは、天守のすぐそばにありました。

日清戦争 大営本部址


この近くに明治天皇が数ヶ月間滞在したそうです。

関ヶ原には、日清・日露戦争の時に造られた弾薬庫の「玉の火薬庫」もありますので、ここも広島城と同様に関ヶ原とつながりのある史跡になりますね。



今度、兵庫の武器弾薬庫も行って見たいです(あればですが)。







あと、やっぱ広島なので、こういうのもありました。

被爆ユーカリ



不動院もそうでした。


広島城を出たらもう夕暮れ近かったんで、これで広島とはお別れすることになりました。

足早に高速道路へと向かい、この日の宿泊の地、山口県の岩国市へと向かいました。

明日は錦帯橋と岩国城です。


岩国城は、吉川広家ですよ。

これも、関ヶ原合戦の。

(笑)。

続く♪
Posted at 2016/01/19 16:07:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 福島正則 | 旅行/地域
2015年11月13日 イイね!

福島正則の生誕地近くの小学校の名前は、正則小学校!

福島正則の生誕地近くの小学校の名前は、正則小学校!最近、名古屋のモゾ・ワンダー・シティによく通っている。

目的は、メンズのファッションだ。

そこへ行く途中に久しぶりに、あま市の≪蜂須賀小六生誕地・蜂須賀城址≫と≪福島正則生誕地≫と≪あま市の歴史民俗資料館≫を訪れた。

そのときにたまたま見つけた。

なんと、福島正則の生誕地のすぐ近くの小学校の名前は、

正則小学校と言うのだ!!

そのそばには、正則保育園というのもある。


ナビで名前を発見、確認に小学校を探した。

確かに、正則小学校だ。

衝撃が走った。


ここの小学校では、福島正則について、何か特別に学んだりするのだろうか。

因みに関ヶ原小学校では、どっぷり関ヶ原合戦を学んでいる。

関ヶ原カルタ があり、

全児童強制で、甲冑を作らされ、(親が泣き)

関ヶ原合戦祭りに甲冑を着て参加。



正則小学校。

福島正則、愛されているなあと思った。

^^
Posted at 2015/11/23 18:43:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 福島正則 | 日記
2014年06月14日 イイね!

長野旅行記③  福島正則の墓所 3

霊廟のお堂の中に入りました。

私の携帯は、福島正則です。

・・・三成と思ったでしょ?
(笑)
携帯
ちなみに、後ろにちょっと見えているのは、おきあがりこぼしです。

福島の会津若松城で買ったお土産です。

^^


お堂の奥には墓石があり、彼の名前が見えました。

豊臣家の家紋の入ったちょうちんとか吊ってありました。

墓石




お堂の入り口に腰掛けて、彼の物語をいろいろと話しました。

本人が聞いているような気がして、ドキドキしました。

^^;




しばらく休憩させてもらって、お堂を去ることにしました。

一度も会ったことの無い、400年も前の武将なのですが、

昔から知っている友人と永遠のお別れをするような、切ない気持ちになりました。

不思議でした。


バイバイ


今まで、いろんな武将のお墓を参拝させていただきましたが、こんな気持ちになったのは初めてでした。









手が届く門




お寺を出ると売店があって、おぶせ牛乳を飲みました。

実は私、牛乳大好き人間なんです。

旅先では必ず牛乳を飲みます。

(笑)



小布施牛乳


牛乳はやっぱり、瓶が美味しいですね。



福島正則の墓所、まったりできてよかったです。

またくるね。

^^
Posted at 2014/06/14 20:58:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 福島正則 | 旅行/地域
2014年06月08日 イイね!

長野旅行記②   ~福島正則の墓所  その2~

本堂の横にある道のすぐ後ろに階段がありました。

福島正則の霊廟へは、比較的行きやすいと思いました。

先日訪れた久能山の徳川家康のお墓への階段は、かなりきつかったので。


本堂の横





では再び、福島正則のエピソードを紹介したいと思います。

≪敵に背を向けない≫

福島正則は、戦場では絶対に敵に背を向けませんでした。

日ごろから家来たちに、敵に絶対に背中を向けるなと、叱咤していました。

戦場から去るときも、馬の上でわざと体をひねり、敵に背中を見せないようにして去ったぐらいに、徹底していました。


そんなある日、帰宅するとうわきがばれて、奥さんが仁王立ちしていました。

正則はあまりのおそろしさに、背中を向けて逃げ去りました。

後日正則は、家来たちにこう話したそうです。

『・・・おなごとは、怖い者よのぅ。』


刃を持った敵よりも、女性の方が怖かったようですね。
^^;



入り口2






関ヶ原合戦でのエピソードもいくつか紹介しましょう。



『島津の敵中突破と福島正則』

西軍が次々に敗退していって、ついには島津隊のみが残ってしまいました。

前方には数万人の東軍。

それに対して、島津隊は数百人。

他の西軍の武将たちは後ろに逃げたのに、島津隊はなんと、家康の本陣めがけて、数万人もの敵の中に突っ込んで行きました。

死ぬためではありません。

生き残るための作戦です。

これは、『島津の敵中突破』 と呼ばれています。

矢じりのような陣形で、物凄い勢いでつっこんでくる島津隊。

その時、すぐ近くにいた福島正則は家来たちに 『手を出すな!!』 と命令したそうです。


その後島津隊は、家康の前を大きく右に曲がって、関ヶ原を北から南に中央突破して、山間の細い谷間の道に逃げ込みました。

その時後ろから、徳川四天王の猛将、井伊直政や、家康の息子の松平忠吉が追撃しましたが、

島津の『捨てがまり戦法』 最後尾の敵が死ぬまで敵を食い止める 

にやられ、井伊直政はその時の銃傷が原因で破傷風となり、2年後に亡くなってしまいました。

また、松平忠吉も傷を負ってしましました。



普段は 『敵に背を見せるな!』 と言っていた正則ですが、窮地に追いやられた人間の恐ろしさを知っていた というエピソードです。

もしも彼らに手を出していたら、正則もただではすまなかったかもしれません。

数多の戦場を駆け抜けてきたからこそ言えた、正しい判断だったのかもしれません。




余談ですが、井伊直政と松平忠吉は、本戦中は、島津隊を攻撃していました。

それには理由がありまして、島津隊は本当は東軍に入りたかったけど、流れでしかたなく西軍に入った。

東軍のみんなはそれを知っていて、その心中を察していたので、島津と戦いたくなかった。

それに、島津は強かった。

だから、家康は身内の井伊直政(親戚)と松平忠吉(息子)に、島津に戦うように命令したそうです。

ちなみに島津は戦う気力は全く無く、来る敵を追い払う程度でした。

西軍の三成の要請にも応じず、東軍、西軍、島津軍 という風に、中立していました。

隣に陣取っていて負けて逃げてきた小西の兵士を鉄砲で撃って追い払ったぐらいらしいです。

驚いた小西の兵は、裏の池に飛び込んで、たくさんおぼれて死んだとか・・・。








入り口3






関ヶ原ネタをもうひとつ。

≪一番槍を奪われた福島正則≫

戦において一番槍というものは、とても名誉あるものです。

それは、戦の前から誰がやるとか、決められています。

関ヶ原合戦では、福島正則が一番槍と決まっていました。

西軍の宇喜多隊につっこもうと、最前線で待機していた福島正則と正則の家来で槍の達人の可児才蔵。





可児才蔵。

通称、笹の才蔵。

あまりにも強すぎて敵を倒しすぎて、首を運べないので、合戦中は背中に笹尾背負っていて、敵を倒したら背中から笹の葉っぱをちぎって、それを敵の口につっこんで、それを目印にして、戦が終わった後にその首を取りに来たという。。。

また、小牧長久手の戦いにおいては、逃げるときに 豊臣秀次が 『お前の馬をよこせ』と命令したが、断って逃げ去ったという。。。

60歳になった時、ちょっとフラリとした事があった。
横にいた家来が『才蔵様もお歳ですねぇ』と言うと、才蔵は槍を一振りして、この家来の首を切り落とし、皆にこう言った。
『人にもよる。』


実は私は可児才蔵も大好きで、福島正則に可児才蔵。

『この上司に、この部下あり』という感じがしてならない。









すると、井伊直政が松平忠吉を連れて、正則と才蔵の横をすり抜けようとしました。

『どこへ行く?』と、制止しようとする二人。

直政 『物見の見物じゃ。』

松平忠吉は家康の息子だから、そんなにキツく制止できない。

しかたなく前に行かせると、そのまま宇喜多につっこみ、一番槍を決められてしまった。

当然、怒る、福島正則。

『わしが一番槍なのにーーー!!!!!』


家康は、やっぱり息子に手柄を立てさせてやりたくなったのかもしれない。。。

もしかしたらこの時からすでに、福島正則を将来切り捨てるつもりで、手柄を与えさせたくなかったのかもしれない。

家康が、正則に一番槍を与えた事に後悔したのは、間違いない。

こんな悲しいエピソードもあった。











入り口4




門の低さに驚いた。

2メートルぐらいだろうか、上の柱は軽く手を伸ばせば届く位置だ。




門の手前


・・・それにしても、なんでこんなに小さな門を造ったのだろう。。。







門をくぐったら、細道の両側に墓地があり、その延長線に彼のお墓があった。





霊廟



朝陽がとても神々しくて、神秘的な雰囲気が漂っていた。





続く♪
Posted at 2014/06/08 01:12:54 | コメント(2) | トラックバック(0) | 福島正則 | 旅行/地域
2014年06月06日 イイね!

長野旅行記①  ~福島正則の墓所 その1~

あなたの好きな戦国武将は誰ですか?

上杉謙信? 真田幸村? 伊達政宗? 徳川家康? 本多忠勝? 石田三成? 大谷吉継?

加藤清正? 武田信玄? 豊臣秀吉? 織田信長? 竹中半兵衛? 黒田官兵衛?



いろいろいると思います。

実は私は、この人が一番好き! というのはいませんが、特に好きな武将の中に、

福島正則 がいます。



『なんで?』 と聞かれると、

『面白いから』とか、 『人間臭いから』 とか、『まっすぐで豪快だから』

などと、答えています。





岐阜から約5時間かけて、長野県小布施(おぶせ)町にある、福島正則の墓所までやってきました。


小布施1




愛知の生誕地の近くにある霊廟のあるお寺にもこの前いきましたが、こちらは本物です。

自宅から、約350キロ走りました。





小布施2



イメージしていましたが、想像以上の田舎でした。



小布施3





広島城主だったのに、こんなに田舎にすっとばされたんだなあと、改めて実感しました。




小布施4



関ヶ原合戦後、家康は、裏切る可能性のある豊臣方の武将を、なんだかんだといちゃもんつけて、

力をそいでいったんですね。

全国でもトップクラスの石高を持っていたのですが、

幕府に無許可で城の石垣の修復をしたと言いがかりをつけられ、

約50万石⇒約5万石に減らされ、広島⇒長野(北の果て)に飛ばされ、


地図

10分の1に減らされて、死後は幕府の検査係りを待たずして火葬したと言いがかりをつけられ、

最後はゼロにされました。

徳川のやり方、汚すぎます。


説明



では、私はそんな彼のどんなところが好きなのか?


いろんなエピソードを紹介していきたいと思います。




山門 手前




≪大酒飲み≫


彼は、大の酒好きでした。

黒田の使いで、同じく大酒のみの もりたへえ がやってきました。

正則はたへえに、仕事をそっちのけで酒を勧めましたが、たへえは黒田を出るときに酒を飲むなと注意されていたので断りました。

しかし構わずに酒を勧める正則。

成り行き上、酒の飲み比べをして 『もしも勝ったら、福島正則の家宝の槍をやる』 という事になり、
正則は負けてしまい、家宝の槍をたへえに取られてしまいました。

後日、酒が抜けて冷静になった正則はとんでもないことをしてしまったと後悔して、たへえに槍を返してくれ と言いに行きましたが、許されず、結局家宝の槍は黒田家の家宝となってしまい、正則はこっぴどく怒られたそうです(多分、恐妻の奥さんに)。

この槍は 『日本号(にほんごう)』と呼ばれる槍で、





i岩松(がんしょう)院 山門




黒田節の 

『酒は飲め飲め飲むならば、飲み取るほどに飲むならば 家宝の槍を・・・ これがまことの黒田節(武士)』

のエピソードにもなっています。




右の赤い仁王様



たぶんそのうち、大河ドラマでもやるでしょう。




左の赤い仁王様



ところで、こちらの仁王様ってなんだか、可愛いですよね。




山門 右側



のどかなところです。





参道 手前




山門をくぐりました。




参道 階段




階段を上ると、





本堂正面




本堂の横に道がありました。



本堂左側





もう少しだなぁ。




長い標識





ついにここまで来てしまったー!



とワクワクしてきました。


続く♪
Posted at 2014/06/06 10:17:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 福島正則 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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