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すた☆君のブログ一覧

2022年02月14日 イイね!

松尾山城 散策マップ

郵便局の入り口に置いてあったんで、何気に取って帰りました。

地元の人に理解してもらいたい、って感じですが、変わらないでしょう。

まあ、私は大好きですけどね。

Posted at 2022/02/16 09:27:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 小早川秀秋 | 日記
2017年08月29日 イイね!

『小早川秀秋の元々東軍説』を紐解いてみよう。

昨今ちまたで 『小早川秀秋は元々東軍だった』と主張する人たちが増えている。

果たしてそれは、本当なのだろうか?


人間は、自分の立場によって、偏った考え方を主張することがある。

石田三成や大谷吉継が好きだったり、自分の好きな人がそうだったら、一緒になって、裏切りだ!! と主張し、

小早川秀秋が好きだったり、自分の好きな人がそうだったら、一緒になって、いいや、裏切ってない!! と主張する。



私は第三者として、客観的に論理的に筋道立ててこれを分析してみる事にした。


ちなみに私は、石田三成ファンではないし、大谷吉継ファンでもない。

ファンではないが、好きだ。

石田三成公祭り、一度も行った事が無い。

私はここ数年、大谷吉継の最後の話を力説して、拍手喝采もらっているが、その敦賀の史跡も今年の初夏に初めて行った。

お客さんに『行ったほうがいい』と言われたほどだ。


徳川家康ファンでもなければ、島津のファンでもない。

ファンではないが、彼らも好きだ。


私は、関ケ原ファンである。

純粋に、全てが好きなのである。


では、本題に入ろう。




関ケ原合戦で、小早川秀秋が布陣したのは松尾山。

ここは元々大坂城から西軍総大将の毛利輝元が豊臣秀頼を連れてくる予定だった。

それが石田三成の最大の作戦で、その時点で家康の負けとなる。


戦には大義名分が必要、みんな豊臣のために戦っていた。

だから、秀頼を手にしたら、特に豊臣恩顧の大名たち 福島正則らは、絶対に攻撃しない。

それどころか、家康に刃を向けるかもしれない。

家康はそれを極度に恐れていて、合戦の直前の8月の一ヶ月間の江戸城滞在中は、正則に手紙を送りまくった。



だが、秀頼は来なかった。

大坂城は西軍が占領していたが、増田長盛が不穏な動きをしていたからとか、淀君がカワイイ幼いわが子をどこともわからぬ場所へ出したくなかったからだとも言われている。

関ケ原合戦公式本には、増田説が書かれている。

教科書が正しいので、これが正解となる。



松尾山には城があって、もう数十年使われていなかったが、秀頼を迎えるために綺麗にしていた。

そこには、大垣城を追い出された城主の伊藤守政が300人の兵と共に過ごしていた。

大垣城は石田三成が西軍の拠点にするから明け渡してくれとお願いしたので、居場所が無くなり、誰も住んでいないこの松尾山城へ行くはめになった。

だが、そこへ小早川秀秋が兵1万5000人と共にやってきたから、また追い出された。



ところで、ではなぜ小早川秀秋は松尾山城へやってきたのか?

毛利輝元が大坂城を出られなかったので、その代わりにと言うことで、同じ毛利一族 毛利吉川小早川 の小早川秀秋がそこに入る事になった。

ここで大切なのは、伊藤守政は小早川によって、人数の圧倒的なさにより抵抗できず、強制的に追い出された説 の存在なのだが、

関ケ原合戦公式本には、同じ毛利関係だから と書かれていたので、それが正解となる。



ではどうして彼なのか?

小早川秀秋のそれまでの行動は、宇喜多秀家たちと伊勢方面へ進軍していたのだが、何故か途中で引き返して、近江で不穏な動きをしていた、体調が悪いとかで、近江の宿場町などでじっとして動かなかった。

関ケ原の近くに居た。

30キロぐらいだろうか。

吉川広家と毛利は、南宮山を離れられない。

東軍が大垣城を攻撃したら後ろから挟み込むために彼らはそこに居た。

元々西軍は、大垣城に篭城して戦う予定だった。


それで、西軍から声が掛かって、毛利の代わりにと小早川が松尾山城に入ったのが、関ケ原合戦の前日となる。

ここで気になるのは、小早川秀秋は関ケ原で戦が起こるのをわかっていたのか? 説。

これはわからない、わかるはずもない、全くの不可能だ。

徳川家康は合戦の前日に、関ケ原から15キロ離れた美濃赤坂に到着したばかりだ。

お互いに反対方向から来たもの同士、今みたいに携帯もなく、数十キロはなれたもの同士、1日で連絡取り合うすべはなし。

だから、小早川はたまたま合戦の前日に松尾山の城へ入ったのが自然な考えとなる。



ここで大切なのが、小早川秀秋は徳川家康と内通していた という事実だ。

秀秋は合戦の一ヶ月ぐらい前から、家康に味方をしたいと手紙を送っていた。

家康も最初は疑っていたが、最終的には承諾したので、この時点で西軍だけど東軍に内通している となる。


だから、西軍の進軍から離脱して、近江に滞在していた時点では、小早川秀秋は東軍だった といえる。


西軍が挙兵した時点では、小早川秀秋は西軍だった。

だから、元々はここがスタートなのだから、小早川秀秋は元々は西軍だった といえる。

鳥居元忠みたいに伏見城で玉砕したら、元々東軍だったといえる。

彼らは凄い。

周りに西軍が現れたにもかかわらず、東軍を主張した。

皆殺しにされるのが目に見えているのに。

本当に元々東軍を貫くならば、伏見城が攻撃されている時点で、鳥居らと同様に西軍を攻撃するべきだ。

それをしていない以上は、元々は西軍になる。



島津も鳥居と共に東軍として戦いたかったが、生き残るために西軍に着き最後まで西軍を貫いた。

島津を元々東軍だという人はいるだろうか?




小早川秀秋陣営だが、東軍の息のかかったものであふれていた。

二人の重鎮 稲葉正成と平岡頼勝。

稲葉正成は後の大奥で有名な春日の局の旦那さんで、黒田長政の縁戚。

平岡頼勝は、弟を徳川に人質に出していたし、元々徳川に仕えていた。

関ケ原にお墓がある奥平貞治は、秀秋のそばに居て、奥三河武士だから、当然徳川の者。

更にもう一人、黒田の手のものが居た。

だから、小早川秀秋首脳陣は、徳川に関わっていた者だらけとなる。

しかし、それすなわち 東軍 というのは筋が通らない。

なぜならば、西軍の陣営に居たからだ。

もしこれが東軍の陣営に居たのだったら、東軍と言える。



ここで加えて言ってみれば、小早川秀秋は西軍から東軍に変わったけれど、西軍の陣営に西軍として布陣した時点でまた西軍に戻った。しかし、小早川秀秋首脳陣は、東軍に関わっている者だらけだった ということになる。



この時点で、麓にはもう何日も前から大谷吉継たちがいた。

ここが戦場になるだろうと予測して、陣地作りをしてきた。

脇坂 朽木 小川 赤座 もいた。

彼らは北陸で前田を倒すために一緒に行動してきた戦友である。

松尾山の麓に、西軍数千人が布陣していた。

もしも小早川が東軍ならば、攻撃していたはずだ。

夜襲も仕掛けたはずだ。

しかし、攻撃をしなかったのは、大谷・脇坂・朽木・小川・赤座らは同じ西軍だと認識していたからだ。

小早川秀秋は、彼らを騙していた事になる。

西軍を騙して西軍の陣地につき、チャンスをうかがっていたのかもしれないし、まだ昨日の今日で松尾山城へ入ったばかりだったから、どうしたらいいのかと、首脳陣の考えにまとまりが無かったのかもしれない。



大谷吉継の陣跡には、小早川の陣地に向けて、数十メートルの土塁と空堀が残っている。

先日NHKの番組で、これは大谷吉継が小早川秀秋が裏切る事を予測して造った土塁だと紹介していた。


脇坂らの陣地も、周りがぐるりと囲まれているのが不自然だ。

後ろの小早川を味方と思うのならば、後ろに壁を造る必要は無い。

ちなみに私は関ケ原の陣地の地形を研究してきた。


つまり以上の事より、東軍の小早川秀秋は西軍の陣営にまんまと入る事ができたが、同じ西軍の 大谷らや、脇坂・朽木・小川・赤座らは、敵かもしれないと疑って準備をした。   と言える。








合戦の前日の話。

両軍が前日の夜に関ケ原に向けて、大移動をした。

関ケ原町の真ん中から東にかけて、東軍7万4000人が布陣した。

西軍はそれを周りの山~ぐるりと囲み、1万人多くて8万4000人で、鶴翼の陣を敷いた。

鶴翼の陣を作ったということは、小早川秀秋の松尾山はその中心なので、やはり西軍には仲間と認識されていた という事になる。


南宮山の毛利たち3万人は、これまたもう何日も前からここに布陣していた。

毛利たちを動かすことなく、鶴翼という陣地を敷く事に成功した。

小早川秀秋は、西軍の陣地に西軍の武将の代理として布陣している形となった。

だから、中身は東軍だが、西軍の陣地に居たから、西軍だ。



慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)午前8時

日本を二分化した大戦が始まった。


徳川の問い鉄砲により、小早川秀秋が裏切った。

松尾山を駆け下り、大谷隊を攻撃した。




小早川秀秋のいた松尾山は、松尾山城で、大谷吉継の陣地には神社がある。

今はもうないが、当時はこのお城と神社を結ぶ道があった。

彼らはこれを下った。

松尾山の裏側からも降りて出てきた。

裏側から出てきた兵のほうが圧倒的に多かっただろう。

松尾山の裏側 南側はお城の表参道で、とても綺麗に整備されていて、スムーズに折り易い。

これは豊臣秀頼公が来られるからと、綺麗な道が整備されたものだ。

お城の山道からなら、先頭が麓 平塚為広がいた中仙道(旧東山道)に到着するまでは、15分ぐらいだろうか。

裏側から1万人が走って来たとしたら、それでも30分ぐらいで麓で合流だろうか。

開戦と同時に攻撃説も疑問が残る。

家康の問い鉄砲が嘘になる(多分作り話)。


大谷吉継からしてみれば、西軍の陣地にいた兵たちが、自分たち西軍を攻撃してきた。

だから、『おのれ金吾、寝返ったな!!』 となるのは当然である。

最初から、福島正則ら東軍の陣営に布陣していて、西軍を攻撃したのならば、裏切りではない。


以上のことから、大谷吉継からしてみれば、西軍の陣地に西軍として入ってた小早川秀秋が、同じ西軍の自分たちを攻撃したのだから、小早川秀秋は裏切った となる。


合戦の一ヶ月前に西軍から東軍に寝返った武将竹中重門(半兵衛の息子)は、最初から黒田長政と一緒に松尾山に布陣していて、東軍として東軍を攻撃しているから、当日としては、裏切りとはならない。


それを言うならば、吉川広家も裏切り者で、脇坂・朽木も裏切りであるが、彼らは小早川共に、家康と内通していた。

はっきり言えば、一番の裏切り者は、東軍と内通せずに西軍を攻撃した 小川と赤座こそが、真の裏切り者なのだが、それがあんまり認識されず、小早川秀秋ばかりが裏切り者扱いされるのは、世論の影響か不自然である。



西軍の陣地に西軍として布陣して、同じ西軍を攻撃した以上は、例え家康と内通していて首脳陣が東軍だらけだろうと、裏切り者と言われてもしかたない。


以上のことを踏まえると、


小早川秀秋の元々東軍説は筋が通らない。


と、私は思う。


以上。
Posted at 2017/08/29 08:15:04 | コメント(1) | トラックバック(0) | 小早川秀秋 | 日記
2017年08月21日 イイね!

岡山城 『おばちゃん、ホンマにありがとう。』

ついに、岡山城へとやってきた。

関ケ原合戦前が宇喜多秀家、合戦後が小早川秀秋が城主だ。

ここも浮城だなと思った。


駐車場で冷たいドリンクを飲むと、おなかに何か違和感が。

・・・嫌な予感はこの後に的中、ここから悪夢のお城めぐりが始まった・・・。





六角形?



石垣が想像していたのと違って、とても大きいので驚いた。

これは感動したなぁ。


形が四角形に見えない。

これはもしや、六角形の石垣か?





小早川 石垣


これは、小早川秀秋が造った石垣らしい。

やはり小早川秀秋は、二十日掘りと言い、お城の増築・改良に急いでいたとみえる。

家康の豊臣家への対策は、想像以上に急ピッチだった ということだろうか。



石垣




猛暑日歩いていて思ったのだが、男の日傘が多かった。

何を隠そう、私は男の日傘、初デビューだった。

こんなに暑かったら、四の五の言ってられない。

(^^;)




天守



綺麗だったなぁ。




天守左側の蔵は、宇喜多秀家が朝鮮出兵のときに篭城したら塩が大切というのがわかり、

戦のためにつくった塩の蔵らしい。

面白いなぁ、こういうの。



中はお客さんがたくさん来ていて、込み合っていた。

天守の中の資料館は涼しいのがよかった。








資料を見ていると、あっちもこっちもから、

『小早川秀秋が裏切った。』

と聞こえてきた。


殿




天守を降りようとしたら、ついにきた。

腹痛が!!

トイレにこもって、一回目の格闘。

(ーー;)



なんとか脱出、しびれた足を引きずって、茶店へ。


お抹茶



空のペットボトルを持っていると、おばちゃんが 『お冷を入れてください』 と言ってくれたので、お言葉に甘えてそうさせて頂いた。

ペットボトルの中に、500ccの冷水が投入された。

これは後々、とても助けられた。


アットホームでいい雰囲気のお店だった。

また行きたい。







コナン君



どうやらここは、アニメでコナン君が来たらしい。

こういうのって、岡山市がアニメ制作会社にお願いすると実現するんだろうか。

関ケ原もやったらいいのにと思った。




降りると気づかなかった、映画のポスター。

ちょっと興奮した。

^^





関ケ原のポスター




外に出たらもう一枚。



天守 ようきたなぁ




こんな事をして遊んでいると、再び悪夢が襲ってきた。

腹痛だ。

茶店で押し出してきたのだろうか。

(ーー;)



天守を出たから、もう中のトイレには戻れない。

でも、どこにトイレがあるのかわからない。



瀕死の表情で天守の広場を降り、近くのトイレを探したが、ずっと遠くにあるっぽい。

推測で移動するのはもはや不可能だ。


確実にあると分かっている駐車場まで戻る事にした。


息も絶え絶え、石段を降りると、正面にトイレらしき建物が!!

『・・・こ、これは天の助けか!?』

慌てて駆け込んだ。



ここで、お冷の入ったペットボトルに助けられた。

外のトイレなんで、当然、クーラーなどない。

猛暑で劇的に蒸し暑い。


でも、冷水のおかげで、楽になれた。

助かった。


・・・おばちゃん、ホンマにありがとう。。。

(涙)





岡山城を出たら、徳島への準備買出しで、気になっていた地元のスーパー『ハピーマート』へ。

地元のスーパーというのは、その土地の変わった食べ物とかあるから、とても面白い。

これもまた、旅先での楽しみの一つ。




ハピーマートのおそうざい



おそうざいをたくさんかって、フードコートでランチ。

コレだけ買って、たったの2000円だから、とてもお得。

夕べのカレー 一食分だ。

ここの赤飯は美味しかったー!!

こういうのも、結構楽しい。


続く♪
Posted at 2017/08/21 05:59:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | 小早川秀秋 | 日記
2017年08月21日 イイね!

二十日掘り跡の謎 『小早川秀秋の史跡巡り?②』

以前出会った人が教えてくれた。

『岡山市の郵便局の前に、小早川秀秋が造ったお堀の跡が残っているよ。一度見に行ってみ?』



・・・実際に行ってみて思ったのだが、正直に言わせてもらおう。



言いすぎ!!

どこがお堀の跡なんだか、さっぱり分からん!!

(ーー;)






説明もこれだけだと、乏しすぎる。


岡山城の外堀らしいんで、きっとこの広い道路の端から端まで全てがお堀なんだろう。

30メートルぐらいありそうだ。




これで思うのが、どうして小早川秀秋は、そんなに急ピッチでこんなに大きなお堀を作る必要があったのだろう?

1601年というと、関ケ原合戦の翌年だ。

徳川家康の命令だとして、篠山城の石垣の例などをあげると、『豊臣家との戦に備えて』 ということになる。

すると、小早川秀秋は豊臣家に決別していたということだろうか?

それとも、ただ単に徳川家康の命令に従っただけなのだろうか。



色々想像していたら、面白い。


はい、次、岡山城 行きます。

続く♪
Posted at 2017/08/21 00:38:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | 小早川秀秋 | 日記
2017年08月20日 イイね!

瑞雲寺 『小早川秀秋の墓所』

岡山市内の渋滞はすさまじかった。

ぜんぜん進まん。

ホテルに着く前に空腹だったので、レストランへ入った。

普通にファミレスだと思っていたが、ロイヤルなんとか言うだけあって、価格設定が高くて驚いた。

セットで軽く2000円をこす。




カレー



辛かった。


カレーを食べながら思った。

明日は、朝一でここのすぐ裏のお寺へ行く。

ナビでみているから大体分かる。

きっとここのすぐ後ろだ。



すぐ近くまで来た ということで、とてもドキドキしていた。





ホテルは岡山城の真横だった。

部屋の窓からは岡山城のライトアップが見え、ホテルの朝食は岡山城の天守最上階とほぼ同じ高さだったので、見たこともないような幻想的なお城の風景を楽しむ事ができた。

森との高低差が不思議だった。


岡山城


朝食を食べ終わり、ホテルをチェックアウトしたら、最初の目的地へと向かった。

そう、小早川秀秋の墓所だ。


ナビで近くまで行ったが、一方通行の多さと道の細さに驚いた。

なかなか近づけない。




それでも近づくと、電柱にかかれた文字を見つけて、ちょっと興奮した。


電柱




あった、小早川秀秋 と書かれている。




細道




この細さ、これは車はイヤだな。

そう思い、近くのコインパーキングに駐車して、歩いていく事にした。

ここまで来て、諦められるか!

(笑)




炎天下の中、道を思い出しながら歩くと、ついに到着。

小早川秀秋のお墓のあるお寺、瑞雲寺。

瑞雲寺



第一印象としては、お寺のすぐ後ろに大きなビルがあり、想像していたよりもずっと都会にあるんだなと思った。



看板




一般公開はされていないので、外からそっと見るだけにした。


それでも、ここまで来られた事に、満足した。




本堂




いろんな思いを胸に、お寺を後にした。



石碑




関ケ原合戦とは切っても切れない武士のお墓はここにある。

続く♪
Posted at 2017/08/20 23:38:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | 小早川秀秋 | 日記

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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