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すた☆君のブログ一覧

2015年05月03日 イイね!

第1回 関ケ原 壬申の乱史跡巡り

第1回 関ケ原 壬申の乱史跡巡りロードスター 歴民前


どうもお待たせいたしました!

やっとまとまった時間が出来たんで、先日実施した『第一回 関ケ原 壬申の乱史跡巡り』のレポを
載せますね。
^^


お天気はとてもよく、快晴でした。^^

今回は、4名の方が参加して下さいました。

みなさん遠方から、ありがとうございました。

^^



まず最初は、いつもの笹尾山Pにて集合。

ここから車3台でぷちツーリング。
(笑)







桃配り山



ここは家康の最初の陣地で有名なんですが、壬申の乱で大海人の皇子が陣取った場所でもあります。

大海人皇子が兵たちに桃を配ったので『桃配り山』と名づけられ、家康はその古事を知っていて、そのラッキーパワーを得ようとして、ここに陣取りました。

家康はそれに真似て、自分も兵たちに配る桃を準備していたそうですよ。




ちなみにこの時、帰省した時に四国八十八箇所巡り一番札所霊山寺で買った、お遍路さんが使う赤い鈴つきの杖(1000円)を持参したんですが、みなさんに『かっこいい。』と、とてもウケがよかったです。




話し戻して、

一番最初の写真ですが、桃配り山を手前から撮った物です。

一目瞭然で、山の真ん中が削られているのが分かります。

これは、国道21号線を通すために真ん中が削られました。

山の左側(北側)が中山道になります。

で、昔21号線が作られる前の写真が残っていて、道路の上の辺りに平らになっている土地があったことが判明されています(せきがはら史跡講座で習いました)。

今現在、桃配り山には狭いスペースの跡地があるのですが、実際に家康がいたのは、その削られた部分 写真の色のついた横線の辺り と考えられています。

なので私はいつも21号線 桃配り山の間をロードスターで通り抜ける時は、上を見上げて、

『家康はあそこにいたんだなあ』

と想像しています。

^^






壬申の乱のおさらいです。
(笑)


672年 天下を二分する大いくさが起こり、主戦場が関ケ原でした。

戦ったのは、大海人皇子と大友皇子で、前者が勝って即位して天武天皇になりました。

兵士は3万人VS3万人で、合計6万人。

これは当時の人口の100人に1人に当るそうです。


あとの説明は、こないだいっぱい書いたんで、興味ある人はそっちを見てね。

(笑)






≪のがみのあんぐう≫

大海人皇子が2ヶ月間滞在したところで、桃配り山の1キロ後ろになります。

彼の部下の屋敷がココにあり、皇子がここに滞在していたので あんぐう と呼ばれています。



野上行宮


ここで、持参していたスケッチブックを拡げました。

プチ授業です。

みなさんから、『すご~い。』 と、パチパチパチと拍手を頂きました。

(笑)




 
ここは、大友皇子の首実検場でもあります。

だからここは、家康の首実検場である陣場野と同じぐらいの凄い場所なんですよ。









ちなみに、ここの正面(北側)に、竹中半兵衛の菩提山城の陣旗が見えました。

関ヶ原合戦で家康は、≪なんにも陣取っていないところに余裕でつっこんでいった、 余裕で勝った≫とか言う人もいますが、そうではなくて、≪いざというときはこの城に逃げ込むつもりだった≫という研究者もいます。

この城は、丸山(黒田・竹中陣跡)の後方1.5キロになるので、逃げようと思ったら逃げられます。

強い黒田に援護してもらって、竹中に案内してもらうと楽に城に入れます。

もしかしたら家康はそこまで考えて、丸山に黒田と竹中を配置したのかもしれません。

一般には、黒田と竹中は仲良しだから一緒に陣取った、黒田長政は竹中半兵衛に命を救われたから。 と。
よっぽど仲がよくなければあれだけ石高が違う大名同士が一緒に陣取るはずが無い と言う人もいますが、私はそれだけでも無いような気がしています。

家康は、ありとあらゆるシュチエーションを考えて、万全の用意をしてから敵中に飛び込んだ策士・準備の天才だと私は考えます。




ところで、正面をマックス300キロ?で走り抜ける新幹線が凄かったですね。




続いて、国道21号線を西に4キロほど移動して、不破の関史料館へ。

入場料100円と言うのが嬉しかったですね。

^^

和同開珎とか凄かったです。






ちなみにここは、壬申の乱の後に建てられた関所跡です。

国で反乱など大きな出来事があったときは、ここを閉めたそうで、開ける時は国から使者が来るまで開かなかったそうです。

何故閉めるかと言うと、反乱軍の兵の移動や武具の輸送などを妨げるためだそうです。




不破の関 正面









松尾芭蕉の石碑がありました。

石碑の正面が白く傷んでいて、私と同じようにガイドをしていたおっちゃんが 

『ここに墨を塗って紙にはりつける あほう がおるんじゃ。この白いんは墨の痕じゃ。』 

と、嘆いていました。

信じられない事する人間がいるんですね。




壬申の乱の史跡巡りの地図を持ってみんなで立っていると、そのおっちゃんが尋ねてきました。

『あんたら、これから、どこ行くん?』

『ぐるっと一周してくる』と答えると 

『一日かかるわー!』 と笑われました。




いえいえ、3時間で終わりましたよ。

面白くないところは、すっとばしていますんで。

それに私たち、車も使いますし。

車は便利。

(・_・)/










続いて、大海人皇子のよろい掛け岩 をみました。

民家の横をすり抜けてた畑のど真ん中にありました。

関ケ原の史跡って土地の都合で石碑が移動される事があるんですが(開戦地の石碑など)、

ここはそのまんま残っているという感じでした。

ここまで残して下さっている地主さんの心の広さに感謝です。

^^




歴史を感じさせられる大きな家がたくさんある道を少し東に進むと、不破の関の東の門あとの交差点があり、そこを少し南西へ移動すると・・・。




福島正則陣跡 大杉



福島正則の陣地です。

私の大好きな武将の一人です。

なにがいいって、人間臭いところですよ。

憎めないと言うか。







関ケ原は茶畑も多いんですよ。

関ケ原のお茶、美味しいですよ。





茶畑





井上神社の横を通り過ぎ・・・





高速道路の手前の右側に広い川の景色がありました。

ここは蛍が乱舞するんで、町の人たちがお祭りみたいにたくさん集まるんですよー。

とお話ししました。


またその季節が来たら、連絡いたしますねー。
^^







脇坂陣跡手前の斜面



崖の斜面に段々に花が添えられていました。

これはここで誰かが亡くなったという事らしいです。

そこに石碑があって、古いものだったそうで、昔にここで何かあって、今現代までその命日になると、この近くの人かその関係の子孫が花を添えているのかなあと思いました。

また機会あれば、誰かに尋ねてみようと思います。












この辺も、先月いっぱい書いたんで、説明は飛ばしますね。

(笑)




若宮神社




苔の灯篭



年月の流れが綺麗な苔を作り出しました。
^^





藤古川で景色を楽しんで、くるっと一周してきました。




続いて、西に移動。

ちょっと急な坂道を登りきると、正面の分岐点の大木の下に

『矢尻の泉』

弘文天皇の兵が矢の先で穴を掘ったら水が出てきた という伝説の井戸があります。

(水はありません)




そして、自害峰 弘文天皇 大友皇子の首塚 へ。

野上行宮を提供した人物が大友皇子の首をココに埋めて、その上に目印にと三本の杉を植えたそうです。

壬申の乱は672年ですので、(2015-672=1348) 最大で樹齢 1348年は経っているという事になりますね。



これだけで、目玉的な観光地になりそうに思いませんか?



自害峰大杉上



これは山の斜面にあるんですが、手前で工事していて、みんなでズラズラと歩いていくと、ショベルカーのおっちゃんが 『あっちに行ったら階段がある!!』と運転席から叫んでくれました。

優しいなあと、みなで感動しました。

(笑)






根っこ




根っこはしゃれにならないぐらいに太かったです。

これはかなり凄いですよ。

かなりの見ごたえがありました。




看板





下山して、ショベルカーの運転手さんに 

『ありがとうございましたー!』と言っていた友人が居ましたが、よく見ると運転手さんが違っていたそうで 『っま、いいか!(笑)』 とみんなで笑い飛ばして、先へと進みました。

A^^;




国道21号線を歩道橋を通って北側へ渡りました。

歩道橋に登って右を見ると、大谷吉継の陣跡で、左を見ると 小早川秀秋の陣跡の松尾山がありました。

あそこに小早川が というと、みなさん 『こばやかわぁ~!!』 と憎んでいました。

面白かったです。








大谷吉継陣跡の入り口・若宮神社



そうそう。

21号~の分岐点の手前にいた犬、怖かったですね。

ほえまくって、飛び掛からんとするぐらいの勢いでした。

観光客が来るたんびに、あの勢いで吠えているのかなぁ。。。

A(^^;)





入り口


看板


最近この辺はとても綺麗に整備されており、町が力を入れています。

喜ばしい事ですね。

大谷ファンの皆さん、是非関ケ原に~。

^^












ここは江戸時代、宿場町と宿場町の中間にあって、お触書きなどが張り出される重要な場所で、人がたくさん集まるところだったそうです。


高札場跡



看板のすぐ後ろに、水路が。


友人が 『水が冷たくて気持ちいい~』

と言っていたので、私も。

^^

水路<

確かに気持ちよかったのですが、『その水はどこから来ているのか?』と辿ってみると、黒血川っぽかったので、

『だから冷たいのかー。』

と・・・。


(--;)









黒血川


黒血川。

由来は名前から想像できる通りで、壬申の乱の時に、兵士たちの血で川の底が黒くなったからだそうで、それ以前の名前は『山中川』だったそうです。

当時の凄惨さが、地名となって残っています。


写真の奥ですが、今回は行きませんでした。

私が初めてここに訪れた時一人でして、その奥へ歩いていった時正直、かなり不気味に思いましたよ。

そんなに山奥でもなく、すぐ入り口に民家があって、夜でもないのに不気味な場所って、そうそう無いと思うんですよ。

ちなみにそこは、大谷吉継の陣地の南西になるんで、小早川秀秋が雪崩れ込んできた場所にもなります。

こんな場所が普通に残っている関ケ原って、やっぱり凄いところだなあと思わされます。




鶯の滝


黒血川の斜め向かいにあります。


ここは江戸時代、旅人たちの憩いの場で、現在後ろに新幹線が走っており、雪のときはここからポンプで水をくみ上げて、線路の雪を解かすそうですよ。

^^


・・・って、みなさん、関ケ原に滝があるって、知ってましたか??

町民でも知らないんじゃあないでしょうか??

(・_・)/





新幹線の下を通って、少し歩いて最後の目的地へ。




常盤御前の墓


常盤御前は、源義経(牛若丸)のお母さんで、都で一番の美女だったそうです。

彼の後を追ってここの宿に泊まった常盤御前は、不幸にもここで山賊に襲われて命を落としました。

後にそれを知った義経は怒り狂い、その山賊たちを見つけ出して皆殺しにしたとか。

なので、ここに彼女のお墓があるそうです。




それと、これは皆さんに知っておいてもらいたいのですが、ここの地区の人たちは関ヶ原合戦で大谷吉継の味方をした( 陣地を造ったり)(正確には造らされた・はむかえなかった・人数の少ないところに数千人の軍隊が押し寄せてきたから、拒否できなかった。)為、江戸時代には厳しい税率を強いられて、大変な苦労を強いられたそうです。

一般的には四公六民(お米の収穫の4割を納める)  ですが、ここでは五公五民(5割を納める)だったそうです。

しかし現在、この地区の人たちはとても暖かくて、この常盤御前のお墓を自分たちの出費で盛り上げようと努力されています。


一昨年の関ケ原史跡ウォーキングの時、ウォーキングに正式に参加していないのに 『そんなの気にしなくていいから。』と、お菓子の袋詰めセットを頂きました。

この時、ここで史跡ガイドの方とお話しをする機会があって(私、足軽の甲冑を着ていましたので^^;)、いろいろとお話しをして下さり、私いたく感動いたしました。

こういう地域の人たちって、応援したいんですよね。


その時の恩返しをしたく、私的には友人を連れて行くことぐらいなんですよね。

そこで、戦国史跡ツーリングでもいつも行きたいと思っているんですが、でも残念な事に、駐車場が無いんですよね。

なので、どこか駐車場を作ってくれたら、観光客も行きやすくなると思うんですが、いかがでしょうか?










ここでUターンして、不破の関歴史資料館へ戻って、お別れの挨拶をして解散しました。

みなさんにたくさん『ありがとうございました。』と言ってもらえて、とても嬉しかったです。

^^

またなにか、ちょっと志向を変えて実施したいと思います。

遠方から参加して下さったみなさん、ありがとうございました。

最後まで読んで下さったみなさんも、いつもイイネをつけて下さっているみなさんも、ありがとうございました。

^^
Posted at 2015/05/03 21:45:04 | コメント(2) | トラックバック(0) | 関ケ原 壬申の乱の史跡 | 旅行/地域
2015年04月17日 イイね!

関ケ原 ~桜の史跡ドライブ 第2話 壬申の乱 ~

今年の桜はあっというまでしたね。

雨が多くて、楽しむ暇もありませんでした。

ですが雨にもめげず、今年も関ケ原町の桜の景色を求めて車を走らせましたよ。



不破の関資料館の下








藤古川を西側より



この写真の手前に 大友皇子軍 3万人が布陣し、写真奥側の向こう岸に 大海人皇子軍(後の天武天皇) 3万人が布陣して、両軍がここでにらみ合ったそうです。



この場所は、関ヶ原合戦の古戦場めぐりのルートから外れているので訪れる人も少ないかもしれませんが、意外といい穴場なんですよ。


とにかく景色が、綺麗です。





井上神社の桜





以下は桜とは関係ありません。

単なる史跡巡りです。
^^;



茶畑 福島正則陣跡の少し南側







この先は、壬申の乱で両軍が激突した と言われている場所です。

日本書紀に書かれている村があったところで、現在の関ケ原町の玉地区になります。

分かりやすく言うと、伊吹山ドライブウェイの登り口辺り~ゴマの里~関ケ原鍾乳洞の辺りになります。


壬申の乱古戦場 奥平貞治墓所近辺




森 天満山の西側(東側には、島津義弘・島津豊久・小西行長・宇喜多秀家 らが布陣していました。)



玉地区
ここは大谷吉継の墓所の少し北になりますね。



また次回に述べますが、関ヶ原合戦の古戦場と壬申の乱の古戦場は少しずれていますが、大谷吉継が小早川秀秋や藤堂・京極らと戦った辺りが重なっているんですよね。

なんなんでしょうかね、戦いに適した土地とかあるんでしょうかね。
Posted at 2015/04/26 17:12:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 関ケ原 壬申の乱の史跡 | 旅行/地域
2015年04月12日 イイね!

壬申の乱の史跡巡り ③

まだ行けていない 壬申の乱の史跡を2箇所ほど、クルマで パパッ! と廻ってきました。


①野上の行宮(のがみのあんぐう)

ここには1300年前の豪族の屋敷跡があります。

壬申の乱のとき、大海人皇子がここで約2ヶ月間を過ごし、大友皇子の首実検をした場所です。

4年ぶりに訪れると、道が綺麗に整備されていたのはよかったんですが、駐車スペースが見当たらなくて困りました。

入り口に頭から突っ込むしかないのかなぁ。。。

歴史的な雰囲気がムンムンでいい感じだったんで、次回の史跡巡りではなんとか行きたいところです。






②   大橋
伊吹山の登り口の1キロぐらい西にある橋で、この橋の名前こそが、『日本書紀』に壬申の乱の戦いの場所として書かれている  村 の地名です。

この橋の名前の村は、関ケ原の 玉 と呼ばれる地区で、橋がネーミングされているだけで、だからここで戦があったとはなんとも言えないんで、どうしようかなと考え中。




ウォーキングは2時間ぐらいにする予定。


プランを練るのも楽しいですよ。

^^
Posted at 2015/04/12 19:03:34 | コメント(1) | トラックバック(0) | 関ケ原 壬申の乱の史跡 | 旅行/地域
2015年04月10日 イイね!

壬申の乱の史跡巡り ② 不破の関資料館

壬申の乱の史跡巡り ② 不破の関資料館近々実施する『壬申の乱の史跡巡り』の下見を兼ねて、約10年ぶりに不破の関史料館を訪れました(建物の前まで来たのは、何度かある)。

前回訪れた時は冬の寒い日で、私一人で館内に入ったときに、男性の方がさりげなくストーブのスイッチを入れてくれたのが嬉しかったのですが、今回も同様に、女性の方がさりげなくストーブのスイッチをつけてくれて、嬉しかったです。

^^

ここは、不破の関(古代の3大関所の一つ) の跡地に造られていて、そこからの出土品と、壬申の乱の紹介をメインとしています。

何故壬申の乱を紹介しているのかと言うと、この地に大海人皇子軍がやってきたからで、その戦の後に不破の関が造られたから(だと思います)です。

建物のすぐ隣の川を挟んで、3万人VS3万人がにらみ合ったとか。

ちなみにこの時の日本の総人口が600万人なんで、まさに100人に1人がここに来ていた

壮大な戦いだったんですね。


ビデオをノート取りながら見ていると腹痛が来て、たまらずトイレへ。

遠くて外だったんで、また戻ってきますと許可をもらって、外出、再び戻ってきて、残りの展示物や閲覧の記述などを読んで、退出しました。

^^;


その後、雨が降っていたので傘を差して、もらった壬申の乱の史跡巡りのパンフを見ながら、前回車で進んだルートを歩いて散策。

歩きは景色がよく目に入るんでいいなあと思いました。

綺麗な川とか、奥行きのある茶畑とか、桜とか、雑木林だけどただの林じゃなくて、不破の関の一部だったりして、まったりとした田舎の趣があってよかったです。

次は、別の場所の下見に行ってきます~。

^^
Posted at 2015/04/12 18:17:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | 関ケ原 壬申の乱の史跡 | 日記
2015年04月05日 イイね!

若宮八幡宮 ~壬申の乱の史跡巡り①  関ケ原~

関ケ原の壬申の乱の史跡巡りをスタートしました。

まず最初に訪れたのは、若宮八幡宮。

不破の関史料館に車を停めて歩いていくとちょうどいいでしょう。

ここは、大友皇子を神として祭った神社で、どうしてこういうものがあるのかというと、

壬申の乱の時にこの村の人たちか、大友皇子を援助したから だそうです。

本堂


関ケ原の主戦場は、藤古川という川を挟んで、東側に大海人皇子軍(大海人皇子の息子が総司令官)、西側に大友皇子軍が布陣して、そこで両軍が激突しました。

これは関ヶ原合戦でも同様で、勝ったほうが東軍、負けたほうが西軍になります。

さらにもっと興味深いのは、この川を挟んで戦ったのは関ヶ原合戦でも同じだと言うところです。

戦ったのは、大谷吉継隊と京極高知隊。

コレに関しては、また次回、藤古川編にて詳しく語りたいと思います。


説明



壬申の乱の時にこの村の人たちは、大友皇子を支援しましたが、川の対岸の村の人たちは、大海人皇子を支援しました。

なので、そちらの村にも別の皇子 大海人皇子を祭った神社 井上神社 というのがあります。

こういういきさつから、これら二つの村は仲が悪く、これら二つの村々での間での結婚などの縁談は、昭和の初期まで禁じられていたそうです。

これは興味深いしきたりですね。


本堂側面



さて。

建物のほうもかなり凄くて、横から見ればナカナカの圧巻です。

私が初めてココを訪れたのは、今から約4年ほど前で、せきがはら史跡講座(せきがはら史跡ガイドの資格を取るための講座)の受講生だったころに遡ります。

建物を見たときに本当に 凄いなぁ と感動した記憶があります。

このとき初めて、関ケ原は 関ヶ原合戦だけじゃないんだなぁ と実感しました。


それにしても、大友皇子を支援したからと神社まで建ててしまう村の人たちって、凄いですよね。

昔はかなり貧しかったはずなのに、みんなでお金を出し合って造ったのでしょうか。

古の時代の人々の大友皇子を愛する気持ちが現代にまで伝わってくるようで、微笑ましいですね。


続く♪
Posted at 2015/04/05 11:36:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 関ケ原 壬申の乱の史跡 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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