関ケ原町 特別歴史講座 講演会
笠谷和比古(かさやかずひこ)氏
国際日本文化研究センター 教授
『関ヶ原合戦をめぐる新しい歴史像』
を、受講しました。
合計1時間半という結構長い公演でしたが、終わってみればあっという間のとても内容の濃い、戦国史初級者の私にも十分楽しめる面白いものでした。
^^
前回同様、最前列の真ん中に座って、町内の皆様に気合をアピールしてきました。
(笑)
ではさっそく、内容についてまとめてみますね。
*(?)は、よく覚えてなくてあやふやなところです。
m(__)m
≪関ヶ原の戦いの後の領地分配について≫
徳川家は3分の1だけで、残りは3分の2は非徳川家、つまり旧族家と豊臣家だった。
それは何故か?
慶長5年、1600年の関ヶ原の戦いでの戦後処理で、西国には、徳川家の大名が全くいなかったのは何故か?
徳川家の先鋒は、井伊直政と松平忠吉のみだった。
徳川の主力部隊がいなかった。
これが、戦後配分に影響した。
≪関ヶ原の合戦では、本多忠勝は参加する予定は無かった。≫
本来、本多忠勝は、中山道進行部隊だった。
しかし、井伊直政が病気になったので、彼が代わりにやってきた。
だがその後に、井伊直政の病気が治ったので、二人で一緒に参加することになった。
本多忠勝は、関ヶ原の合戦では、いただけだった。
彼の任務は、戦目付け役だった。
来るはずの無かった本多忠勝が関ヶ原にやってきたのには、運命的なものを感じるらしい。
戦いの神が降臨したのだと。
(笑)
≪秀吉の中国おうむ返しについて≫
本能寺の変で、明智光秀が織田信長を殺した時、毛利と戦っていた秀吉は、急遽、京都へ戻る決意をした。
戦っている最中に、逃げる兵士を攻撃するのは、絶好のチャンス。
しかし、これは武士の情けと、毛利家の家臣、小早川たいかいは、秀吉に攻撃をしないように毛利に忠告した。
そこで、秀吉は毛利家に借りができたため、その後毛利家を優遇した。
≪豊臣秀吉の統一後の徳川家の領地≫
とても少なかった。
≪北政所⇔淀殿の政治的対立は、どうだったのか?≫
世間一般には、主に下の三つの主張がある。
1。対立は無かった。
2.北の政所が子飼いを家康に作るように勧めた。(?)
3.俗説を否定。
しかし、笠谷先生いわく、それらは全て間違っているそうで、隠された対立があったとのことでした。
その理由を、以下のように説明していました。
島根の考古博物館で、子飼いの武将たちである、浅野よしなが(?)と黒田長政が小早川秀秋へ送った密書が見つかって、これにはこう書かれていたそうです。
『裏切りをするかどうか、2~3日以内に決断せよ。政所様に深い関係のある我々であるから、あなたに対してこれほどのことを言うのですよ。(だから、家康につきなさい。)』
この文章には、利得については何も書かれてなくて、有効な説得材料だったそうです。
ただし、北の政所は、何も言っていないそうです。
北の政所は、中立か西軍よりであって、彼女の不遇の状況を周りの人間が同情していたそうです。
≪豊臣政権の全国統治政策をめぐる対立について≫
豊臣政権は、中央集権派であった。
太閤検地と、太閤くらいち(?)というのがあって、『秀吉の直轄地を(各大名の領地に(?))入れ込む』、という事をしたらしいです。
『大名家の内部干渉』
秀吉は一本釣りが得意だった。
島津家においては、重臣伊集院忠棟を釣り上げ、島津家を操った。
その為、忠棟は大変な恨みをかった。
秀吉が死んだ1598年の8月に、忠棟は島津によって、血祭りに上げられた。
竜造寺家の重臣、鍋島直茂も、秀吉に釣り上げられ、権威を奪われた。
その為、直茂は80代の時に、苦しんで死んでいき、『化け猫騒動』が起こった。
因みに、徳川家康は、大名行列はしたけど、各大名への内政干渉はせず、自治分権型をとった。
≪黒田長政の活躍≫
関ヶ原合戦時、福島正則と加藤清正が、東軍につくかどうか迷っていた時、『秀頼を置いた上で戦う』ならYesで、『家康が天下の主として戦う』なら、Noと答えた。
その時、黒田長政がうまく対応したおかげで、彼らは東軍につくことになった。
≪三成が家康の屋敷に逃げ込んだ とするのは、誤り≫
NHKなどでは、今でも、『光成は家康宅に逃げ込んだ』としているが、それは間違っている。
今の学会ではそんなのは通用しない、とのこと。
石田三成襲撃のメンバーは、以下の通り。
加藤清正、福島正則、浅野幸長、蜂須賀家政、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興
特に、蜂須賀家政は、地味なキャラクターゆえに、よくはぶかれたり、違う人物に変えられたりするらしいが、実は彼はとても重要な隠れた主役。
その理由は、朝鮮出兵にある とのことでした。
『伏見城と向島周辺図』
地図の左にあるのが、伏見城。
右にあるのが、向島。
本丸の周りには、衛星的なくるわがあった。
そのくるわのひとつに、『冶部の少ゆ曲輪(くるわ)』があった。
それは、石田三成にとって、絶対に安全な場所だった。
だから彼は伏見城にやってきた。
わざわざ危険なところに自分からやってきたりはしない。
しかし、逆に言うと、絶対に安全、誰も入れないが、三成自身、そこから出ることもできなかった。
襲撃時、七人の武将たちと光成方とは、お堀を挟んでにらみ合いをしていた。
その時、家康は向島にいた。
そこで、家康が条件を持って仲裁に入ってきた。
彼は光成にこう言った。
『身の安全は保障するから、政界から引退しろ。』
そして、家康の次男、結城秀康が光成を護衛して、佐和山まで送り届け、光成は佐和山に蟄居することになった。
≪石田三成の挙兵≫
大谷吉継と石田三成が何度も会っていることは、地元でよく知られていた。
そこで、彼らの謀反の噂が広がった。
その時、増田右衛門尉長盛が、その事を徳川家康に通報した。
このとき、淀殿と豊臣三奉行らは、この謀反の噂を聞いて狼狽した。
そして、彼らは、家康に、この二人の謀反を鎮めてくれと、書状を送っていた。
≪小山の評定(おやまのひょうじょう)での決定事項が崩壊する。≫
『石田三成と大谷吉継らが、豊臣家へ謀反を起こしている。』と、判断を下された。
しかしその数日後には、各大名たち全員が、何が真相だか訳が分からなくなり、混乱状態に陥っていた。
同盟豊臣武将たちの向背は、混迷した。
皆、訳が分からずに移動していた。
しかし、福島正則だけは、
『そんなのどうでもいいじゃないか! 一度、家康に加勢すると決めたんだから、家康につこうぜ!!』
と、燃え上がっていた。
≪公戦・正義の軍隊≫
東海道は家康が抑えていた。
家康は、会津に近い大名は、強い従軍義務があるべきだと主張した。
ドラマなどで、山内一豊が、家康につくかどうかで悩んでいたが、それは嘘。
義務的な軍隊で、自動的に家康につくように決められていた。
家康が好きとか嫌いとかは、関係ない。
一豊は東海道にいたので、自動的に家康についた。
だが、九州は違った。
天下二分を予想しての、思惑つきの従軍だった。
≪空白の1ヶ月≫
8月1日~9月1日まで
徳川家康は、皆が訳の分からない、疑心暗鬼状態に陥っているのを知り、今は動かないのが一番だと判断し、江戸でじっと待機していた。
家康は、村越茂助を清州城へ派遣して、『行動するなら行くぞ!!』と、当時の言い方で馬鹿にしたような書き方の書状を送ったが、そんな書き方をしてはいけないと注意を受けた。
≪岐阜・かわたの合戦≫
池田隊と福島隊が、岐阜城を攻めることになった。
上流が池田隊、下流が福島隊だった。
池田隊があっというまに岐阜城を攻め落としたので、福島隊が激怒して、池田隊を攻撃しそうになった。
しかし、彼らの部隊は、強すぎた。
難攻不落といわれる岐阜城をあっというまに落としてしまったからだ。
この合戦の結果を知った家康は、おおいにあせった。
『もしもこいつらだけで、石田三成を倒してしまったら、わしの立場が無いじゃないか。』
と。
家康は、大急ぎで三成のいる美濃(岐阜)へ向かった。
しかし、あまりに急いで来すぎたために、主力部隊の秀忠隊が、まだ到着していない。
秀忠は、中長期戦で戦おうと決めていた。
だから、まさかもう、家康が美濃に到着していようとは、夢にも思わなかった。
秀忠は家康におきざりにされたのだ。
美濃に到着した家康は、考えた。
『もしも今から一週間待ってから光成に戦いを挑んだら、どんな メリット と、どんな デメリット があるのか?』
と。
メリット : 『主力部隊の(息子である徳川)秀忠隊が到着する。』
デメリット : 『毛利が豊臣秀頼を率いて、関ヶ原に現れる。』
この二つを比較すると、秀忠が到着するよりも、秀頼が現れる方が都合が悪い。
そう考えた家康は、三成と戦うことを決心した。
≪合戦後の全国的領地配置≫
家康は、二重公儀体制すなわち、西は西、東は東で、行うつもりだった。
つまり、西国のトップは、豊臣家になってもらうつもりだった。
しかし、その後いろいろな複雑な問題が発生し、結果、大坂の陣へとつながった。
・・・というところで、時間切れとなり、この講演会は終わりました。
終始圧勝に思えた家康率いる東軍でしたが、直前までいろんな駆け引きがあったんだなあと、改めて思い知らされました。
のんびり狸とは、お笑いです。
めっちゃ白鳥だったようですね。
(笑)
とても面白い内容だったので、また参加したいなと思いました。^^