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すた☆君のブログ一覧

2010年05月21日 イイね!

家康、最初の陣地は、空中だった。

家康、最初の陣地は、空中だった。桃配り山は、国道21号線を造る為に、大きく削られていた。

現在の桃配り山の陣跡は、とても狭い。

あんなところに、陣を敷ける訳が無い。

家康が陣を敷いていたのは、空中だった。。。




『明治25年刊 神谷道一著 の 関原合戦図志』によると、桃配り山の北の端は、中山道に面している。

現在は、この中山道と桃配り山の間に、幅20メートルぐらいの土地と、国道21号線がある。

『大正2年刊 熊田宗次郎著 の 日本史○』 に載っている写真によると、桃配山の山頂は、大変広々としている。

この写真には、腰掛岩や机岩というものは、存在していない。

石碑はなく、代わりに『桃配り山 徳川家康本陣 古○』と書かれた板が地面に突き刺さっているだけ。


現在の巨大な石碑は、端っこに追いやられたものらしい。





いやー、私、桃配り山の石碑のあるところが本当に陣取った跡だと、信じきっていましたよー。

本当に、驚きました。

家康の陣取っていた跡は、今は空中なんですねー。


^^;






≪桃配山≫
関ヶ原合戦時、徳川家康が最初に陣をとった場所。

家康の兵は、約3万人いたが、実際は旗本が2万人で兵士は1万人だったので、戦えるものは1万人しかいなかった。旗本はせいぜい、防御するだけらしい。

それと、最前線に、井伊直政と松平忠吉と、監視役の本多忠勝のみが、本当に信頼置ける、家康恩顧の武将たちで、彼ら以外は豊臣恩顧の武将たちなので、家康には、『いつ裏切られるか?』という不安が常にあった。

家康の本当の兵力は、周囲の兵士10000人と、井伊直政3600人・松平忠吉隊3000人 、本多忠勝、そして息子秀忠の部隊約40000人だったが、彼らは信州上田で、真田親子(約2千)に足止めを食らっていて、合戦には間に合わなかった。
Posted at 2010/05/22 16:41:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 関ケ原 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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