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すた☆君のブログ一覧

2010年05月22日 イイね!

関ヶ原歴史講座  第一回目 総まとめ

関ヶ原歴史講座 に行ってきました。

やはり行ってみたら案の定、ご年配の方が多かった。

遠方から来られている方々もいらっしゃったので、驚きました。

やはり、好きな方はいるもんですね♪

2年間コースで、去年は西軍、一昨年は東軍をやったらしく、今年からの2年間は、最初西軍、来年は東軍をやるそうです。

生徒は全員で、17名。

4年目の方が2名、3年目の方が3名、2年目の方が2名、今年からの方は私も含め10名でした。

2年間通うと、関ヶ原歴史資料館に、ガイドとして名前を登録してもらえ、連絡がきたら、出向くという形らしいです。

最初の2回は、教室で学び、次の4回は、現地学習。

移動は各自車か、乗り合わせでとの事でしたが、事故を起こしても町は責任を取れないとのことでした。

史跡コースは、絶対に入っていきたくないような大変狭い道もありますし、駐車場の無い所もありますので、私は自転車で行こうと思っています。

私、最年少の生徒ですし、まだまだ若いぞと、アピールを。。。

と言うわけで、2ヵ月後に向けて、自転車で足を鍛えようと思っています。

(笑)

第四回目と第七回目は、2年目の方が、現地でみんなの前で、ガイドの練習をするそうです。

1年生はできないというのが、残念です。








今回は、関が原合戦の大まかな流れと、いくつかの史跡及び、西軍の武将数人についてでした。

だいたいが知っている内容でしたが、地元ならではの情報や、石田光成の細かいエピソードなどが知れて、よかったです。^^

習ったところは全て行ってみたいですが、なにぶん時間がナカナカ取れません。

そこでとりあえず、習って印象に残ったことを、以下に一気に書き出します。

(興味の無い方は、無理に読まなくて結構です。自分が復習のつもりで、書き出しているので。)





『何故、竹田重門と黒田長政が同じ場所に陣を敷いたのか?』

二人は、幼馴染だった。

どうしてか?

黒田長政が幼少だった頃、重門の父 半兵衛に、命を救われた。

長政の父、官兵衛(如水)は織田信長に、謀反を疑われ、秀吉に、彼の息子を殺すように命じた。

しかし、竹中半兵衛は、『そんなはずはない、それは間違いだ!』と主張し、長政の命は助かった。

この後、長政は半兵衛と共に、垂井で約一年間ほど一緒に過ごしている。

長政は、秀吉を嫌っていた。

なぜならば、このとき、信長に言われるがままに、自分を殺そうとしたから。

だから、父親が秀吉の右腕だったにもかかわらず、西軍(豊臣側)にはつかず、東軍(家康側)についた。

長政は、18万石の大名で、重門は、5千石の大名。

今で言うと、年商1億8千万円のプロ野球選手と、年収5百万円の普通のサラリーマンといったところだろうか。

これだけ、石高に差がある二人が、同じところに陣を敷くことはありえないが、上記のようなことがあったため、二人は同じところに陣を敷いた。

長政は、重門(命の恩人の竹田半兵衛)が大好きだったから。

関ヶ原の合戦後、長政は、重門の次男を、大変な高給でやとった。

彼は、命を助けてもらった恩を、一生忘れなかった。


長政は合戦後、18万石⇒52万石になった。





『大谷吉継について』

①名前変更の理由について

大谷吉継は、自分の名前を、吉隆に変えた。

なぜならば、吉継(よしつぐ)という発音は、織田信長に滅ぼされた 三好義継(よしつぐ)と同じ発音になり、それは縁起が悪いと思ったから ・・・ という説もある。






②自分の首を埋めろと、湯浅五助に命じた理由

ハンセン病で醜くなった自分の顔を、さらし首にされたくなかったから。








③大谷軍の友軍の裏切り

大谷吉継は、兼ねてから、小早川秀秋を怪しいと考えていた。

万が一、小早川が裏切っても大丈夫なように、友軍として、『赤座・小川・朽木・脇坂』を、自分と小早川の間に配置させていたが、彼らも小早川と共に裏切ってしまった。




『西首塚について』

西首塚は、当時は高さ2メートル、直径10メートルあり、その上に木を植えた。

しかし現在は、気の根っこがむき出しになり、2メートルもの高さがあるとは思えない。

おそらく、風雨にさらされ、気の根っこがむき出しになり、当時の塚の高さは、それであろうとのこと。




『関ヶ原合戦の始まり について』

最初家康は、前田利長に、謀反の疑いをかけた。

それに驚いた利長は、家康の言いなりになり、お母さんのまつ(利家の嫁)が人質として、江戸へ行った。

・・・という出来事があった。


続いて家康は、今度は、上杉に同じように謀反の疑いをかけた。

しかし、上杉はこれに動じなかったので、家康は、これを理由に、上杉討伐に乗り出した。

このとき、大軍を率いて連れて行った。


しかし状況が変わり、上杉討伐はいったん中止にし、西軍の三成を倒そう!!

ということになり、息子の秀忠軍と、美濃か近江で会おう ということになった。

これが、関ヶ原の戦いの始まりと言われている。






『石田三成 と佐和山城 について』

三成辞世の句 「筑摩江や あしまにとほす 篝火と、ともに消えゆく 我身なりけり」 の意味について

彦根市 佐和山城の隣には、入江内湖があった(現在は、開拓されて無くなっている。)

この内湖の北岸に、筑摩という所があった。

筑摩の隣(琵琶湖側)には、あさずまという所があった。

ちなみに、彦根城は、この内湖の少し南になる。


この句の意味は、「筑摩江で、 朝、篝火を焚いて、猟師が漁をしていた。 その篝火とともに、自分の身も消えてゆくのだな」

という意味だろうとのことです。






『島左近 について』

黒田長政の鉄砲隊を率いた、竹田重門が、地元の利を生かして、北の山に沿って、笹尾山に近づき、島左近を狙って射撃した。

島左近は、あまり戦わずにすぐにやられてしまったらしい。

生死は、不明。

多分、ここで戦死しただろう  とのこと。

謎のままです。






長くなるので、いったんここで切ります♪
Posted at 2010/05/22 18:40:54 | コメント(5) | トラックバック(0) | 旅行/地域
2010年05月22日 イイね!

山内一豊 の陣跡

山内一豊 の陣跡数年前のNHK大河ドラマ 『巧妙が辻』の主人公、山内一豊の陣跡です。

何度行っても見つけられなかったのですが(地図も無く)、今回行って、無事発見。

嬉しかったです。

(笑)




山内一豊は、高知県、土佐藩にある高知城の城主です。

2058人の兵と共に、南宮山の押さえとして、ここに配置されていました。

合戦では戦っていません。


ここは、関ヶ原宿のあった場所で、当時の旅人たちの宿場町でした。

現在は、松の並木があるだけで、当時の建物とかは、全く残っていません。

彼らの本の少し前に、桃配り山があります。

家康部隊のすぐ後ろだったことが分かります。

山内一豊の隣(家康隊との間)には、有馬則頼(900人・戦いには不参加)が陣を敷いていました。


一豊は、妻の千代(見性院)が有名。

もしも千代がいなかったら、夫は英雄にはなれなかっただろうとも、言われています。





現在は、すぐ北を、JR鉄道が走っており、桃配り山の真後ろには、新幹線が走っております。
Posted at 2010/05/22 18:13:07 | コメント(1) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦に類する合戦跡地 | 旅行/地域
2010年05月22日 イイね!

吉川広家の陣跡

吉川広家の陣跡吉川広家の陣は、垂井町にあります。

写真は、合戦地を向いたものです。

真正面に南宮山の裾野が見え、激戦地である関ヶ原盆地は全く見えないのがよくわかります。

ここから車で約5分ぐら走ったところに、桃配山があります。

結構な距離があります。

ここから笹尾山までは、直線距離にして、約5キロあります。

笹尾山ののろしは、まず見えないでしょう。。。

使い馬を出すにしても、どれぐらい時間がかかるでしょう。

合戦場からは、あまりにも離れている印象を受けました。





『吉川広家』
毛利家を守るため、徳川家康と密約を交わしており、ここに毛利軍を釘付けにした。

毛利隊はすぐにでも南宮山を降りて、家康を攻めたかったが、吉川広家が動かなかったので、毛利隊も動けなかった。

吉川広家は、毛利秀元の父親のような存在であったので、彼を無視することはできなかった。

早く戦場へとせしむ他武将たちに対し、毛利秀元は、『今、弁当を食っているから、終わるまで待て!』

と伝え、ずっと弁当を食べる振りを続けた
というエピソードは、『宰相殿の空弁当』として、広く知られています。


合戦は、吉川の思惑通り、東軍が勝利した。

しかし、結果は、吉川の思惑通りには行かず、毛利家は大きく石高を減らされてしまった。

(中国地方の5県⇒山口県のみへ)
Posted at 2010/05/22 17:50:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦に類する合戦跡地 | 旅行/地域
2010年05月22日 イイね!

浅野幸長陣跡と垂井一里塚

浅野幸長陣跡と垂井一里塚関ケ原町の東隣、垂井町に、浅野幸長の陣跡があったといわれる場所に、一里塚があります。




『浅野幸長 陣跡』


関ヶ原合戦時、東軍 浅野幸長は、この辺りの陣を敷いたと言われています。

浅野幸長隊(6510人)は、南宮山に陣を敷いている 毛利軍の押さえとして、ここに配置されたそうです。

毛利軍は、合戦前、大垣城に滞在していた西軍の部隊を後ろから守る為に、南宮山に陣を敷いていたそうですが、合戦の前日に家康軍を追って、光成軍は夜中にこっそりと大垣城を出陣したので、彼らはそこに取り残されてしまったそうです





『垂井の一里塚』

家康は、交通網を整備するために、全国に塚を作らせたそうです。

塚は、江戸をスタートとして、約4キロにひとつづつ造られました。

高さは約4メートル、直径は約10メートルほどあります。

塚は道路を挟んで南北に作られますが、写真は南側で、大変きれいな状態で残されています。

現在、国史として残されている一里塚は、東京ともうひとつは、この垂井の一里塚のみだそうです

江戸時代、旅の疲れを癒すため、多くの人たちがこの塚の下に集まり、休養したそうです。


ここにいると、江戸時代の飛脚や馬のひづめ、旅人たちの喧騒とかが聞こえてくるような気がします。^^
Posted at 2010/05/22 17:13:20 | コメント(1) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦に類する合戦跡地 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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