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すた☆君のブログ一覧

2012年09月04日 イイね!

『松永城跡 ~松永久秀生誕地』 8月16日後編 徳島帰省日記

川島城を出たあと、市場町へと向かった。

とりあえず、昼食休憩。

懐かしい味がした。

素うどん


店を出て目指すは、松永久秀生誕地の松永城跡。

去年のお盆に見つけられなかった所を、再度アタックだ。


『松永城』  別名 『犬墓城』 とも呼ばれている。

場所は、徳島県阿波市(阿波郡)市場町犬墓大北


地図で言うと、だいたいこの辺だ。
地図 

黄色い道との分岐点を、細道の直進方向へと進む。

右に大きくふくらむカーブの先っちょに、松永城跡の石碑がある。

地図上の青いポッチンの分岐点

山際に沿って進むと、右手に リカーショップ マツナガ があり、そのすぐ左斜め前になる。

松永城跡石碑 南側 

行く直前にたいちょ~にメールを送ると、丁寧に教えてくれたので、よく分かった。

あまりにもすんなり発見できたので、拍子抜けしたほどだった。



松永城跡石碑 全体


松永久秀は、『へうげもの』でも 『織田信奈の野望』でも、とにかく、よく出てくる有名な戦国武将だ。

主君を殺し、将軍を殺し、奈良の東大寺の大仏殿を焼き、裏切りを繰り返し、最後は『平蜘蛛の茶釜』を持って、天守閣もろとも爆死した。

織田信長が『平蜘蛛の茶釜』を持って降伏したら命は助けてやると言ったが、おまえに渡すぐらいならば一緒に死んでやると、城もろとも木っ端微塵に。

信長はあまりにもの悔しさに、怒り狂ったとか何とか・・・。

当然、一緒に爆死に巻き込まれた家臣たちもたまらないだろう。

当時の茶器と言うのは、戦争の交渉などにも使われ、小牧長久手の戦いでは、秀吉が家康に送ったりもした。

高価なものなら、国が一つ買えるほどだとか・・・。


とにかく松永久秀という人物は、なんともムチャクチャな男である。

そのあまりもムチャクチャで豪快な生き方が、今回私をココまで連れてきた・・・、

・・・って、可児才蔵の時と同じやな。

(爆)





また、もっとも悪い戦国武将3人の内の1人としてよく代表される。

あとの二人は・・・、宇喜多直家、斎藤道三・・・、いやいや、真田昌幸だったかな。

興味のある人は調べてね♪



石碑アップ 





1560年 11月
松永久秀により、三好氏の大和支配が始った。

1565年 5月
松永久秀と三好三人衆は謀議して、将軍義輝を暗殺した。

1566年 6月
篠原長房、足利義栄を擁して、兵庫に上陸。

11月
松永久秀と三好三人衆の関係悪化により、河内・大和が戦場となった。

1567年 10月
奈良で三好三人衆と松永久秀が戦い、大仏殿が炎上した。

1568年 9月
将軍足利義昭を推して入京し畿内を制圧した織田信長に、松永久秀は降る。
(三好三人衆は阿波へ逃亡。)

1569年 4月
篠原長房、宣教師ルイス・フロイスの上洛を斡旋。

1570年 9月
三好三人衆、石山本願寺と同盟して、織田信長と対立する。

1571年 5月
篠原長房、讃岐から挙兵し、備前児島へ出陣する。

6月
三好三人衆は、摂津・河内で、織田信長と戦う。

1573年 3月
松永久秀は、三好三人衆、将軍足利義昭と同盟し、織田信長に叛く。

5月
篠原長房、阿波の上桜城で細川藤孝と戦い、この世を去る。

この間、ちょうそかべもとちかの阿波侵攻が進み・・・、

1577年 5月
阿波三好一族 滅亡

10月
松永久秀は息子と共に織田信長を寝返り、信貴山城にこもって、平蜘蛛の茶釜と共に天守閣もろとも爆死し、この世を去った。






松永城跡石碑北側


この地域には、松永さんという家が非常にたくさんある。

数十件あるとかなんとか。

恐らくみんな、松永一族の子孫達であろう。





城山を少し離れて、遠くから全体を見ようと思った。



松永城跡 離れて見る 


南に傾斜のある山の裾のあたりであろうか。

北には讃岐山脈、2~3キロ南には吉野川があるので、いつでも敵の侵入が見渡せる という意味では、当然南向きの城ということになるのであろう。


ここで、今回の旅は終了となった。



終始同行してくれたN君、そしていろいろと教えてくれた たいちょ~には、心からお礼を井伊隊(爆)言いたいです。

ありがとうございました。

次回を楽しみにしております。

またいろいろ教えて下さいね。

^^





次回、いよいよ、堺編へ突入。

故郷・徳島を離れて、本州へ上陸、大阪府堺市へと向かったすた。

ここではいったい、どんな史跡が待ち構えているのかっ!?

こうご期待あれ。

(笑)
Posted at 2012/09/04 14:59:07 | コメント(2) | トラックバック(0) | 松永久秀 | 旅行/地域
2012年09月04日 イイね!

私の動画 槍裁き・剣舞 

ここでちょっと一息。

私の動画でも観て下さい。
(爆)



一対一をしている赤い方が私です。




トップバッターでした。
Posted at 2012/09/04 09:41:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | 甲冑武者ボランティア | 旅行/地域
2012年09月04日 イイね!

『植桜城址 篠原長房~織田信長が警戒していた男』 8月16日中編 徳島帰省日記

徳島市国府町の矢野城址を出た後、川島町へと向かいました。

ここには、三好義賢(みよし よしたか)の重臣、篠原長房(しのはら ながふさ)の城 植桜城址 があります。









植桜城址 到着ラフェスタ



≪篠原長房 は、どんな人物?≫

篠原長房は、三好義賢が泉へ行っている間、阿波を守っていました。

三好義賢が死んだ後は、阿波と讃岐を統治し、分国法 『新加制式』 を制定。

陪臣の身ながら、分国法の制定者となったのは、長房ただ一人。

将軍義栄の擁立に際して畿内に登場した。

三好三人衆と共にしばしば禁制などに著判している事より、重要人物だったことが想像できる。

三好長慶が死んだ後は、殆ど一人で三好三人衆政権を支えていた。

また、戦の時に織田信長は、篠原長房がいると知ると逃げたそうです。

織田信長は彼を 『三好氏中、あなどり難し』 と、最も警戒していた。

『昔阿波物語』によると、篠原長房の父祖は、近江篠原の出身(滋賀県野洲市小篠原)で、多賀社の神官の従者として阿波へ下り土着したと言われています。









入り口付近全体


場所ですが、川島高校の西の道を南に2キロ?ぐらいいったところに、右へと曲がる山道があります。

決して、手前の住宅街では曲がらないで下さい。

曲がった山道を数百メートル(西に)進んだ、ぷっくらと膨らんだ大きなカーブの先っちょの右手(北側)に植桜城の入り口があります。

植桜城址は、山の上の入り口から山の斜面の下り方面へと5分ぐらい行ったところにあるそうです。

大きな山の傾斜の一角で、普通山城というと、だいたいは麓から登って上へいくというイメージがありますので、行った時は正直、意標を突かれました。





説明 



着いたはいいですが、結論から言いますと草が凄かったので、奥へと進むのは断念しました。

数歩進んで、ギブアップです。

この山城を攻略するならば、草が枯れている秋の終わりか冬がベストかもしれません。



≪和泉 久米田川の戦い≫
1562年
三好義賢が戦死し、六角義賢が京を制圧した戦。
篠原長房連合軍(三好家臣団をまとめた)と三好義賢VS六角義賢と畠山高政

*この戦の絵が大阪城にあるらしく、二日後の8月18日に行ってみたけど無かった。





入り口 


≪篠原長房の最後≫
三好長治(最後の三好一族)と絶世の美女・大形殿(少小将 しょうしょうしょう)との女性問題が嫌になり、政界を引退、上桜城へ隠居した。

しょうしょうしょうは男癖が悪く、夫を殺した男の妻となったりして、最後はちょうそかべもとちかの側室となった。

しかしそれが謀反の企てと間違われ、長治に出兵され、戦う事になる。

戦国の男達の人生を狂わす絶世の美女。

やはり女は怖い。

(爆)




入り口入ってすぐ




篠原長房は、上桜城の麓の大日寺、そして植桜城の支城的役割の善入寺と東弾寺 に、1500人の兵を置く。

そして対する敵、十河存保が、7000人の兵を吉野川を挟んだ北の対岸に敷く。

大変激しい戦が行われ、戦死者はなんと、3000人。。。




この激しい戦をしっている徳島県民、どれぐらいいるのだろうか。。。

僕も今回初めて知ったのだが。。。

みんな、徳島は戦国時代はあんまり関係ないとか思っていないだろうか?

人気の武将がいないからよくわからない 

蜂須賀小六ぐらいなら分かるけど

で終わっていないだろうか。。。



矢野城址のポーネグリフを建てた矢野さんみたいに、もっとなんらかの形で徳島の歴史をアピールした方がいいのではないかと、今回の件を通じて思わされた。






入り口くぐった先 道なき道 



今回植桜城跡へ行く為、僕はたいちょ~とかめさんとお別れしたあと、遅くまでこの城の事や、篠原長房の事を調べた。

その時に、支城的役割の3つの寺の存在を知り、その場所を調べて、行ってみようと考えた。


しかしながら、植桜城の麓の 大日寺は、今はもう無いということがわかった。

善入寺は、市場小学校の近くに『善入寺 土地改良区(阿波市市場町市場字上野段73)』というのを発見した。

ただ、市場町は吉野川の北岸なので、支寺ならば吉野川の南側ではないのかな?と疑問が残った。

東禅寺は、石井町高川原字南島459-1 に同じ名前のお寺があったが、禅という漢字が違ったのでどうだろうかと考えた。

結局これらの二つの寺は行かなかったのだが、また次回、機会があればゆっくりとまわりたい。

行ってみたら分かる事実というのもよくある話だ。






石碑 



篠原長房は、この戦で戦死した。

三好政権を支えた大きな人物の生涯が、ここで幕を閉じる。



上桜城址横からの展望北側 吉野川・讃岐山脈


景色が綺麗だ。

晩年、篠原長房も、この景色を見たに違いない。

彼は最後、何を思いながらこの世を去ったのだろうか。。。





植桜城址のある山を下った後に、川島城へと行きました。

川島城

ここは国道192号線沿いにあり、誰もが知る地元では有名なお城です。

友人N君は城の裏にあったテニスコートが気になったらしく、そちらへプラプラと歩いていきました。

(笑)




川島城は、先に行った上桜城の代わりに建てられた城で、これは模擬天守です。
 
篠原長房を滅ぼした戦での功労者 川島兵衛之進(川島惟忠)がこの城を築きました。

その後、 蜂須賀家政の家臣である林能勝が城主となりました。



僕は川島城よりも、上桜城を復活させて欲しいです。

歴史的にも、そちらの方が面白いです。

川島城なんて、ただきれいなだけでつまらんです。

それにしても、滅ぼされた篠原長房を思いながらこの城の写真を観ていると、なんだか胸が切なくなってきますよね。






たいちょ~殿、魅力的な人物を教えてくれて、ありがとうございました。
^^



次はいよいよ、阿波の史跡めぐりラスト、去年見つからなかった松永久秀の生誕地 リベンジ編 へと続きます。

こうご期待あれ♪

^^

Posted at 2012/09/04 06:57:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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