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すた☆君のブログ一覧

2013年03月20日 イイね!

米野の戦い跡地 ~関ヶ原合戦前哨戦~

本日、戦国史の評論家としても全国的に有名な小和田哲男先生が、関ヶ原合戦ゆかりの地を、名古屋からバスでガイドしながらやってきます。

今回は、そのツアーの中でも訪れる 『米野の戦い跡地』 のレポを書きたいと思います。






1600年(慶長5年)8月22日

東軍 池田輝政隊が木曽川を渡って、西軍を攻めた。



米野の戦い跡地 木曽川北岸の土手

標柱は、木曽川の北の道路と高速道路が交わる辺りのすぐ西の土手にポツンと立っています。
県道178号線の東米野のバス停の斜め前にあります。西から走ってくると(土手の上の道ではない・一本下の道)、よくわかります。






木曽川の北には、岐阜城が見える。

ここには、西軍 織田秀信(清州会議で秀吉に担がれた三法師)がいた。

岐阜城は高い山の天辺にあり、難攻不落と言われていたが、引き止める家臣を無視し、何故か秀信は麓まで降りてきて、勝負を挑んだ。

これが後に、若さゆえの無謀な失敗と言われるようになる。

この時、秀信20歳。

・・・もしかしたら、織田信長の孫ということで、『絶対に負けない!!』 という、高いプライドと絶対の自信があったのだろうか・・・。

木曽川南岸より、岐阜城を見る

東軍の兵は、池田輝政を初めとして、朝野浅野幸長、山内一豊ら、1万8000人。

西軍の兵は、3200人。



西軍は、大きな兵力の差を補う為に、川面に『矢来』と呼ばれる柵を作り、敵を左右に誘導し、その先の水中に深い穴を掘り、敵を落として猛攻撃をした。

最初の内はこれが大きな成果をもたらしたが、圧倒的な兵力差により、それもだんだん効き目がなくなり、次第に追い詰められていった。

米野の村民達は、一箇所の家に固まって、ただただ戦が終るまで震えていたという。。。

この戦により、木曽川は血の川と化した。



河田渡河戦の説明板
木曽川の南側・図書館の横・鉄橋の南側にあります。




因みに米野とは、木曽川北岸の村を指す。

河田(こうだ)とは、河田島(こうだじま)のことで、現在の各務原市川島のことである。

河田島、川島という名前からも伺えるように、その村は川の中にある。

今木曽川は大きな一本の川だが、現在とは違って当時の木曽川のこの辺りは、もっと複雑に何本もの細い川に分かれていた。

この、米野~川島間の戦を、『米野の戦い』とも言う。





木曽川西側 関ヶ原方面を見る


実はここの史跡に来たのは、2回目。

1回目は、墨俣一夜城近辺から、約6時間かけて寄り道しながら歩いてきた。

距離にして約20キロ。。。

20キロも歩く人は、なかなかいないだろう。

着いた時には、日没寸前だった。

足は限界に達しており、近くまで来ていた妻に拾って帰ってもらうほどだった。



そして日を改め、約10日後、今度は歴史友達と再び訪れた。



~乱闘橋の戦い~

木曽川での戦いに勝った東軍の将池田輝政らが、敵将織田秀信(三法師)の目前まで迫ってきた。

『乱闘橋の戦い』 『板橋の攻防』 『印食(いんじき)の戦い』 と呼ばれています。



乱闘橋の石碑
岐南市八剣北3丁目いんじき共同墓地の南の道路側に石碑アリ




今はもう無いが、合戦当時ここに橋がかかっていて、それを巡って両軍が激しく戦い、多くの人たちが命を失った。

境川



川から少し北へ行った所に、秀信の陣跡がある。


閻魔堂正面
乱闘橋辺りから北へ住宅街を突っ切っていった左側にあります。
厚見中学校の東です。




今は住宅で囲まれている場所だが、恐らく合戦当時は田畑があったぐらいだろう。

すぐ目の前まで敵の大群が押し寄せてきて、血みどろの大乱闘を行い、秀信は恐ろしくなったのではないだろうか。。。

結局、秀信は岐阜城へと撤退し、東軍の取った首は227、捕虜は50人にものぼった。


閻魔堂 説明





今度は、木曽川を渡った後の池田輝政の陣跡へと行ってみた。

閻魔堂からそんなに遠くは無い。

1キロぐらい西にあった。



鎧かけ松の説明 石碑



この松に、池田輝政ら東軍の兵士達が鎧をかけたらしい。



鎧かけ松
西小学校の北側・線路の西側にあります。



その後、難攻不落と言われた岐阜城はあっけなく落とされ、秀信は高野山へと飛ばされ、その数年後にこの世を去った。

享年 26歳。

歴史に利用され、周囲に踊らされた生涯だったように思う。





本堂と本


因みにこの陣地へ、竹ヶ鼻城攻めを終えた福島正則がやってきた。

一番槍が大好きな正則は、抜け駆けというものがどうしても許せず、約束に反して先に攻めた輝政とかなりもめたらしい。

しかし実際の所は、西軍が鉄砲を撃って挑発してきたのでそれを無視するわけにはいかない状況になったので、輝政は約束を破って先に攻める事になったらしい。

ワタクシ的には、『正則は言い出したら聞かない』 というちょっと駄々っ子のようなイメージがあるので、おそらくここで激しくケンカしたんだろうなぁと、当時を想像しておりました。

(笑)





再び、木曽川の南側・川島 へとやってきました。

橋の横に図書館がある建物があり、その中で歴史資料の展示会をやっていたので入ってみる事にしました。

ちょっと名前は忘れましたが、犬山城の城主だったでしょうか、本物の武将の絵が展示されており、いいものが見れてよかったです。

無料でしたし。

^^


木曽川と本

この写真の方向辺りから、犬山城にいて東軍に寝返った竹中重門(関ヶ原村の領主・竹中半兵衛の息子)らが南から北へと渡河したらしいですよ。


*訂正:この時竹中重門は犬山城にいて、岐阜城が落城したのを知ってから、西軍から東軍へ寝返った。写真の方向に犬山城がある。



米野の戦いはあまり知られていない史跡ですが、いろいろ調べてみると、結構いろいろ残っており、なかなか面白かったですよ。

^^
Posted at 2013/03/20 03:23:27 | コメント(1) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦に類する合戦跡地 | 旅行/地域

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何シテル?   10/29 04:58
旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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