
最高気温32℃ 風は微風のこの夏一番の猛暑でした。
朝の10時~午後4時すぎまで一人で笹尾山の山頂にいたんですけど、お客さんが結構来てて、
帰宅したら喉が枯れ枯れでした。
シャワー浴びたら、いい感じで体がだるくて、小学校の頃のプール帰りを思い出しました。
今日もいろんな人たちと出会いました。
では今回も、特に思い出に残った出来事を中心に。
>『1年前に犬と一緒に写真を撮りました。』
若い女性のツアー団体の皆さんが、展望台にやってきました。
三人ぐらいのグループがいたんで声を掛けると、『1年前に一緒に写真を撮りましたよ。』との事。
驚きました。
『犬と一緒に写真を撮ってもらったから、写真を見てもらったら思い出すかも。』
とのことで、写真を見せていただきましたが、悔しい事にその時は分かりませんでした。
すると仲間の方がもう時間がやばいんじゃない と言ってて、『また来ますね。』とみなさんで下山されました。
そのあとしばらく思い出していたら、その子のゆったりとした口調から、パッと記憶がよみがえりました。
『・・・そうだ、1年前にボクはこの子と石田三成陣跡の石碑の横で立ち話をしたんだった。確かに犬、連れてた。』
写真を見たときにすぐに思い出せなかったのが、とても心残りでした。
そうそう、彼女は1年前に 『関ヶ原はとてもいいところですね。住んでみたいです。また来ますね。』 と言ってた名古屋の女の子だったんだ。
それにしても、こうやってまた本当に来てくれたのは、とても嬉しかったです。
なんのツアーなのかは知りませんが、仲間内の中で一番詳しそうでした。
もしかしたら、この子が組んだツアーだったのかもしれません。
『また来ます』とか『いつか行きます』と言って来ない人って、たくさんいます。
でも、そういって本当にまた来てくれると言うのは、ありがたいことです。
『また来ますね。』
今度はまた犬を連れて来てくれるんでしょうか、次回の再会が楽しみです。
>『戦っている写真をご一緒に。』
楽しかったと言えば、僕のお話に夢中になって耳を傾けて下さるお客さんたちといる時間はどれもとても楽しかったんですが、しいていえば、一番最後に出会った若い3人組(男性2人・女性一人)の愛知県からこられたみなさんとの時間が、一番楽しかったです。
お客さんも一通りひいて、ガイドが終わったあとにみなさんと、戦っているところの写真を撮りました。
1枚目 構える。
2枚目 刃を交える。
3枚目 斬られる。
4枚目 地面に倒れる(勝どきをあげられる。)
彼女さんはこういう展開をまったく予期していなかったようで、思いがけず楽しかったそうで
『サービス精神が(凄い)。』との言葉、ありがとうございました。
(笑)
まじめな歴史トークも楽しいんですが、たまにはこういうハメを外したことも楽しいですね。
>大谷吉継のお話のリクエスト
若い女性がやってきて、リクエストをして下さいました。
今日はこれが最初で最後でした。
約10分間ですが静かに聴いてくださり、その後お墓と陣地へと出発されました。
無事に順調につく事はできたんでしょうか。
大谷さんのお話は定番になってきたんで、バリュエーションを増やして今後は平塚為広さんのお話もすぐにできる体制を作っておこうと考え中です。
>歴史民俗史料館(れきみん)でよく勉強してから来て下さったお姉さん。
『島津って凄い。』
そうです、島津は凄いんです。
いろいろマニアックなお話したくさんできて、とても面白かったです。
今後も、ここに来て下さる人たちの心に残るような歴史トークが出来れば幸いです。
またご家族で関ヶ原に遊びに来て下さいね。
^^
>最近多い質問。
私は簡単にガイドした後にいつも
『なんでも質問をどうぞ。分かる範囲でお答えいたします。』
と言っているんですが、この質問は今日、2回ありました。
『毛利って、どうして 安国寺えけい だけが処刑されたんですか?』
去年の大河 『軍師官兵衛』 の影響か、この質問は最近多いです。
ひと言で答えるならば、
『吉川広家が全ての責任を安国寺えけいに擦り付けて、それを家康が認めたから』
なんですが、それだと
『なんで吉川は家康にそんな事が言えたのか?』 とか
『家康はどうしてそれを認めたのか?』
とか疑問が出てくるんで、長くはなりますがこの質問が来た時は、その理由全てをしゃべっています。
話し長くって、10分ぐらい掛かっちゃうんですけどね。
で、いつもしゃべっている内容が以下の通りです。
(乱文御勘弁で。)
関ヶ原合戦が終わった時に家康が一番恐れていたのは、大坂城の毛利輝元 兵士が3万人いました が、大坂城に篭城して秀頼公とともに戦う事だったんですね。
戦っていうのは大義名分が必要で、家康の大義名分は秀頼公だったんですね。
秀頼公のために戦うといっているから、仲間が集まった。
でも、毛利輝元が秀頼公と共に西軍として戦ったら、まず家康の仲間 特に豊臣恩顧の武将たちは、絶対に秀頼公には刃を向けない。
福島正則とか黒田長政とか。
だから、家康は早々に毛利輝元に大坂城から出て行ってもらいたかったんですね。
そのために、家康は吉川の意見を丸呑みして、今回の件は、あんこくえけいが一人でスタンドプレイしたから、毛利は西軍につく事になった。だから、毛利は悪くない。
そういって、家康は毛利に戦争の処罰に関しては何にも心配しなくていいから、安心して国に帰ってコレまでどおりに仕事を続けて下さい との手紙を送りました。
ちょうど毛利輝元も、なんかやばいな、罰せられるかなと心細かったんで、家康の手紙を読んで安心して、大坂城をでていった。
まんまと家康の策略にはまって、毛利輝元は秀頼公の元を離れたから、その時点で家康の勝ちは確定した。
ではどうして、吉川は家康にそんなことをいえたのか? というと、きっかわは家康との間に、毛利のとのさまにないしょで、勝手に密約を結んでいたから。
自分がここで毛利の大軍勢を抑えるから、もしも戦が終わってこれが成功したら、毛利を見逃して欲しいと密約をしていたから。
きっかわは、毛利は西軍について欲しくなかった。毛利が西軍につくと、国が滅ぼされると思っていたから。
で、戦は無事に終わって、もうりはきっかわが押さえ込んだ。
家康が勝った。
だから、吉川は家康に対して、今回はあんこくじえけい一人が全て悪いんだと発言できた。
しかし問題はその後。
家康は吉川との密約を破棄した。
すると吉川は驚いた。
何を言っているんですか、てがみだって 証書だってあるじゃないですか。
でもいえやすは それは家来たちが勝手にやった事だから私はそんなのみとめない。
それを聞いた吉川は、家康にまんまとはめられたことに気がついた。
そして、家康は毛利の殿様たちはみんな首をはねる、毛利は滅ぼす。といった。
でも、吉川は頑張ったからお前には国を一つやろうといった。
すると吉川は家康にそれをやめてもらうように懇願した。
何度も何度も家康の元を訪れたが、家康は吉川を追い返した。
1度、2度、3度。
4度目についに吉川は白装束を着て、家康のところへ命がけで押しかけた。
そして家康は吉川の気迫に根負けして、かれの要求を呑んだ。
毛利は生かす。
だから、結果として、あんこくじえけいだけが処刑となった。
しかしこれには続きがあって、このときの家康の判断は失敗だった。
なぜならば、毛利を生かしてしまったから。
生かした毛利が幕末に立ち上がって、逆に幕府を滅ぼされた。
島津もそう。
とここまでしゃべると、だいたい10分は掛かる。
すると、お客さんに ・・・ということですけど、分かりましたか? と尋ねても、あまりにも答えが長すぎるせいか、みなだまって はい とうなずく。
^^;
まあ、しかたがない。
そんなに単純じゃないから。
(笑)
久しぶりにズラズラ書きました。
^^;
他にもたくさんの楽しい出会いがあって、とても充実した一日でしたよ。
それにしても、前に来てくれた人がまた来てくれるっていうのは本当に嬉しいですよね。
そういう出会いを大切にしていきたいと思います。
^^
おしまい♪