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すた☆君のブログ一覧

2017年10月19日 イイね!

甲冑ボランティア 『過去最悪の持論を押し付けるオッサン』

数週間前に遡ります。

書こうかどうしようか迷いましたが、あまりにも酷かったのでここで公表させて戴きます。

持論って別にいいんですけど、押し付けるのはあきません。

ましてや、他のお客さんの夢を打ち砕く持論は、私は絶対に許しません。


笹尾山の展望台でガイドをしていました。

展望台にはお客さんが数人居ました。

すると、展望台に上って来た50歳半ばぐらいのおっさんが、ガイドをしている私の真横でいきなり音声ガイドのスイッチを押しました。

ガイドをしている私の真横でですよ!?

ちょっとカチンときましたが、なるべく怒らないがモットーなんで、『すいません、ちょっとガイドが終わるまで待っていただけますか?』と丁重にお断りをして、音声ガイドを聞くのを待ってもらいました。

音声ガイドのスイッチは押し続けると停止状態になるので。

私のガイドが終わると、そのおっさんに再び丁重に『はい、どうぞ。』と伝え、音声ガイドを聞いてもらいました。

事件はその後、起りました。

おっさんは私に質問をしてきました。

おっさん   『山中村はどこにあるのかね?』

最近、1000人に1人ぐらい、山中説を尋ねる人がいます。

天満山の向こうをさして、「あの辺になります」と答えました。

するとおっさんは質問を続けました。  

おっさん   『決戦地は、山中村だね?』

おっさん   『山中村だけで合戦が起って、そこだけに兵士が集まって、そこ全ての決着がついたんだね?』


はあ? なに言ってんだ? オレ、そんな事ひと言もいってないんだけど? なに言ってんの??

てか、山中村の合戦説って、そもそもそんなんだったっけ?? 

私のガイドも音声ガイドも聞いているのに、全く違う事を言っている。

・・・これは、嫌がらせなんだろうか と ふと 思った。


これを肯定したら、他のお客さんに嘘をついている事になる。

私はいつも通り、定説を答えることにした。

パネル板に書かれている通りに答えた。


すた    『いえ、合戦が起ったのは、そこ全部で、決戦地は山中村もそうだけど、あの決戦地もそうです。』

そう答えると、おっさんはいきなり鬼のような表情になり、激怒しながら叫ぶように私に向かって、こう言った。

おっさん 『それはねえ!! 全部、昔に作られた定説なの!!  (決戦地を指差して)そこも(宇喜多陣地を指差して)あそこも、全部、二次三次史料なの!! 私は全部調べたの!! ○△の学芸員さんに尋ねに行って聞いたの!!  最近の学者さんは、みんなそう言っているの!! 』



後から書くが、私はこの人の主張らしき本を見つけて、毎日毎日、合計で20時間ぐらいかけて、その全てを調べ上げた。

最近の学者さんはみんなではない。

一部の過激派のみだ。

最近、通説の本を出版している有名な学者さんもいる。

おかしい点、矛盾点を全て洗いざらいにした。

今度会った時は、全てを言い返せる理論と証拠を準備した。

だが、なるべくは避けたく思う。

しかし、分かってなければ、言われっぱなしで終わる。

言われっぱなしが嫌ならば、自分も勉強するしかない。



・・・このおっさんは、他にもお客さんが居るというのに、なんてことを言っているんだ。

私に言うだけならば、まだ許せるが、他のお客さんの前では、こんな事をいってはいけない。

お客さんは、夢を持ってここに来ている人がたくさんいるからだ。

何年も何十年も前から、大好きな石田三成がいたこの場所に来たいと思っていたけれど、なかなかこられなくて、今回なんとか来ることができました!!

という人たちが、本当に多いのだ。

彼らの夢をぶち壊すような発言をするこのおっさんは、絶対に許せない!!

持論を主張するなら、自分で講演会でもやればいい。

本でも出版すればいい。

ここに来て、そんな事をいうのは絶対に間違っている!!


おっさんの持論は、エスカレートを増して行った。

おっさんは私のほうに90°体を向けて、両手を大きく上下に振り上げたり振り下ろしたりしながら、今まで以上の力説を続けた。

おっさん   『小早川だって、本当は裏切ってないの!!』

おっさんは恐ろしい表情で私をにらみつけた。

確かに私は先ほど、『小早川は裏切った』とガイドした。

裏切ってないと論理的に言い返すことも出来るが、早くその場から逃げたい一心で、『それは分かる』と言ってしまった。

後から後悔した。

おっさんは、両目をギラギラさせて、肩で息をふぅふぅしながら私を睨み付けた。

静まり返る、展望台の他のお客さんたち。

おっさんの連れのおっさんも、黙ってほったらかし。

おっさんの目をじっと見返すと、ほんの一瞬だけ、おっさんは静かになった。

が、それもつかの間。

再び、おっさんの力説は続いた。


おっさん   『石田三成はねぇ、ここにはいなかったのっ!!』

・・・ おい、チョット待てよ。

おっさん  『ここは合戦とは、何の関係もないのっ!!』

・・・ それだけは言っちゃあいけない。

頭の血管がぶち切れそうになった。

おっさんは、両手を大きく上から下へと振り下ろしながら、私に向かって叫んだ。

おっさん   『これはねえ、どういう事かと言うとねえ!!』

すた     『他にお客さん居るから!!』

僕は叫んだ。

叫んで、すっとおっさんの後ろに回りこんで、それで終わりにした。

するとおっさんは、一緒に居たおっさんにこれはどうだとか激論しながら山を降りていった。



・・・たいていの事は許せる。

大目に見る。

広い心で気にせずかわしもする。


だが、過去にこれほど頭にきた事があっただろうか。

余りにも腹が立ったので、その後色々と調べた。


このおっさんの持論と同じと思われる本を見つけた。

おそらくこのおっさんが言いたかったのはコレだ。

追撃説

9月14日に松尾山に小早川秀秋が現れた。それを知った 石田三成・宇喜多・小西・島津らは、大垣城を出て、秀秋を倒しに行った。島津は山中村(大谷陣跡)に布陣した。それをしった東軍は、平塚為広の垂井城に布陣していて、東山道から後ろから西軍を攻撃した。三成らを心配した大谷吉継は、大垣城を出て、後から彼らの中に突っ込んで行って乱戦になった。徳川家康は関ケ原には来なかった。



よく分からない点。

①笹尾山に石田三成が居なかったのは、笹尾山に土塁がないからとある。

⇒笹尾山には土塁はある。丘の斜面を並々と凹凸が残っているし、笹尾山には土塁跡があるという看板があった。

⇒決戦地周辺の畑から、鉛玉が出てきたと昔から住んでいる町民の方から聞いたことがある(一般公開していないレベルだから、知られていないだけ)。



②小西はそこにいなかった。

⇒小西陣跡後ろの北天満山を調査した研究者が居る。山頂に明らかに人工の手で平らにされた土地が発見された。
そこに小西行長が居たと考えられる。



③島津はそこにいなかった。

⇒島津義弘は薩摩池の近くに居たと思われる。薩摩池の後ろには、北国街道を封鎖する土塁幅10メートル高さ5メートルの土塁が、北天満山~笹尾山まで伸びている。島津はこれを利用して戦ったから、少ない人数で最後まで残ったと考えられるし、三成たちもこれがあるから、ここに東軍を追い込むなどの策を考えて造っていたと考えられるし、この土塁については何にもかかれていない。
地形を調査した研究者が発表している。

⇒島津陣跡の後ろに『池尻?池』という大きな池がある。島津は助けを求めて逃げ込んできた小西の兵を鉄砲を撃って追い払ったので、びっくりした小西の兵は混乱して、この池に飛び込んで水死したという伝説が残っている。

⇒島津の陣地のすぐ南の中には、薩摩の石を積んだ小さなお墓がいくつかある。島津の兵士の遺族がここまで石を持って来てお墓を作ったと言われている。ここで亡くなっていないのならば、ここに石を積む必要は無い。

⇒島津の陣地の近くの住宅地で、近年家を建て替えようとして敷地内の土地を掘り起こすとお墓が出てきた。
関ケ原合戦の戦死者のお墓と考えられている。



④宇喜多秀家はそこにいなかった。

⇒宇喜多の陣地の前で昭和に発掘調査が行われたら、たくさんの杭が打ち込まれた跡が出てきた。

⇒宇喜多陣地の近くに引っ越した人(信頼おけるしっかりした女性)曰く、『引っ越した日に二階のベランダに出ると、目の前を火の玉が飛んでいった。あれは間違いなく火の玉だった。』とのこと(疑ってはいないが私はそういう類の話は信じない)。

⇒宇喜多の陣地の山 南天満山に3ヶ月間テントを張り、陣跡の調査をした研究者の方がいる。
その結果、多くの土塁が発見された。一時、歴史民俗資料館にその大きな地図が展示されていた。

⇒不破の関(673年に造られた)の北の土塁壁・北壁土塁は宇喜多陣地の南側にあり、1600年にそれをかさ上げして高くして、北壁土塁の一部に穴を開けて小口を作って馬が出入りできるようにしている(跡が残っている)



⑤濃州山中=山中村? 石田三成がいたのは自害峰?

石田三成の陣地を自害峰(大友皇子の首塚)の土塁と書いている。
自害峰は山中村ではなく、藤下(とうげ)村になる。藤下村にはいくつかの謎の土塁壁の囲いが残っているが、他の研究者の発表ではそこには内応軍の誰か?と発表されている。

もし仮に三成・宇喜多・小西が自害峰に居て、東から東軍が来て戦ったのならば、山中村は戦場ではない。藤下(とうげ)の戦いとするべきだ。さらにその後ろから心配した大谷吉継が東から 大垣城からやってきたのならば、そこは藤下村~松尾村になるので、松尾の戦いとしてもいいだろう。

松尾山に1万5000人も居たのか?(最近では1万1000人説)だが、山城になってはいるが、最近山城研究家の人に調査してもらったら、山の中腹や山頂だけではなく、明らかに山の麓にも兵が居た形跡があるのが分かった。場所的に言うと、松尾山駐車場の辺りになるので、そこは松尾村になる。
よって、追撃説を唱えるならば、これを山中村の戦いとするのはおかしい。
藤下の戦い または、小早川を中心として考えるのならば 松尾の戦い とするべきだ。



⑥関ケ原合戦はおかしい説
慶長五年九月十五日に徳川家康が伊達政宗に送った手紙(一次史料)に書かれている文章で
『濃州山中で戦が起った』

濃州は美濃としても、⑤からするとそれを山中=山中村とするのは強引としかいえない。それを言うなら、濃州藤下か濃州松尾だろう。関ケ原がおかしいとも言うが、島津の史料には関ケ原で戦ったとかかれているし、関原村という村は確かに存在した。
町全体に布陣して戦ったのならば、その主要な戦場は関ケ原なのは間違いないし、ましてや追撃説にしても、藤下も松尾も戦場なのだから、これを一番端っこの小さな村の山中だけを取り上げて山中の合戦とするのは強引だと思う。

だから、濃州山中=美濃の山中村=山中村が主戦場説は成り立たない。


⑦島津の敵中突破

島津義弘の日記に『自分は老齢なので伊吹の山を逃げるのは難しい。それならば、たとえこの体が射抜かれようとも、前に向かって進むべきだ』という史料が残っている。笹尾山の南側にいたからこそ、この日記が書ける。

私、烏頭坂から出土された錆びた兜を見たことがある。



⑧大谷吉継が山中村の村民たちに陣地造りを依頼した史料の存在。

大谷吉継が山中村にやってきたのは9月7日。

ずっと陣地造りをしてきたから、こんな大掛かりな陣地が造れたのではないのか?

この辺も説明されていない。





⑨脇坂安治は大津に居た

⇒上石津町(関ケ原の南隣)歴史民俗史料館には、脇坂隊の侍甲冑が展示されている(他の甲冑は無い)。
  なんでソコにそれだけがあるのか?




⑩村民達が山に避難していて、先に下山した村民が『麦を作るから降りてこい』と催促する一次史料の発見。

当時二毛作だったので、早く降りて麦を作らないと来年食べるものがなくなるから という手紙。
村民は、笹尾山の裏 相川山に避難していたと言う。
相川山の麓は笹尾山や決戦地になる。
その辺りで戦っていないのならば、相川山に避難する必要は無い。なにも青田刈りまで山に登る必要は無い。麓でじっと待機していればよい。



⑪菩提山城の巨大掘りきりの謎

関ケ原方面に巨大な堀切が作られている。
これは、関ケ原合戦でもしもの時のために逃げ込むために、家康が竹中に掘らせたと発表している研究者がいる。




持論を押し付けると言うのは、相手の時間を奪う身勝手な自己満足行為です。

興味がない人を捕まえて持論を押し付けるというのは、絶対にしてはいけません。




もう二度と、こんなおっさんには会いたくないのだが、今回、これがきっかけで、たくさん勉強できた。




また同じような出来事になったら、なるべくは避けるけど、それでもどうしようもない場合は、

すたバズーカー!!

を撃ち込んで、

撃退します!!


(ーー;)

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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