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すた☆君のブログ一覧

2020年09月24日 イイね!

420年前、なう。⑨「毛利輝元、大坂城から去る。」

関ケ原合戦で勝利した後、家康の唯一の気がかりは、大坂城の毛利輝元だった。

豊臣秀頼と一緒にいたので、下手に動けない。

そこで家康は、毛利輝元に「身の安全」と「本領安堵」を条件に大坂城からの退去を提案すると、輝元はそれをすんなり受け入れ、大坂城から去ってしまった。


しかし、そうはいかなかったのが家康のズルい所。

家康は毛利に対して、「毛利は潰す。毛利輝元は処刑する」と言った。

これを聞いた吉川広家は 「約束が違う。」と怒り、家康のいた草津へ足を運んだが、

家康は 「家来が勝手にやったことだから、知らない。」

と言い、広家は門前払いされてしまった。


しかし再び足を運び、また門前払いされて、3回目、吉川広家は白装束(死を覚悟した)で家康の所へ押しかけ、その勢いに負けた家康は、ついには

「毛利は許す。輝元も助ける。」

と言ってしまい、吉川広家の勢いに根負けしてしまった。



だが、その後の展開が歴史の面白い所。

徳川幕府が衰退していた幕末。

薩長同盟で薩摩と長州が手を組んで、徳川幕府は滅びた。

もしもあの時家康が、吉川広家の押しに負けずにそのまま毛利を滅ぼしていたら、薩長同盟はないので、幕府は滅びずに済んだのかもしれない。

ちなみに薩摩はご存じ島津なので、こちらも徳川に手痛い目にあわされた人たちの子孫になる。

薩摩は江戸時代に、徳川の無理難題の命令「宝暦治水」により、莫大な借金を背負わされ、多くの藩士が苦しみながら死んでいった悲惨な事件がある。

これは明らかに、徳川の島津に対する嫌がらせだ。

長州と薩摩は大名行列で江戸へ行った時、いつも殿様と家臣との間で、恒例の合言葉があった。

「殿、そろそろ 殺りますか?」

「いや、時はまだじゃ。しばし待て。」

彼らはこれを260年間も続けた。

そしてついにその時が来て、殺った ということになる。

先祖から子孫へと恨みが重なる、蓄積は恐ろしいものです。

ちなみに、坂本竜馬は土佐の下士なので、長宗我部一族の子孫となり、こちらも関ケ原合戦で西軍で負けています。

関ケ原合戦で負けてそのあと、大変な苦労を強いられた人たちの子孫たちから、幕末に英雄が誕生して、新しい時代を切り開いた というところが、とても興味深い所です。


ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

^^
Posted at 2020/09/25 15:13:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | 420年前、なう。 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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