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すた☆君のブログ一覧

2012年11月25日 イイね!

関ヶ原東西武将隊の合戦劇のチケットを予約しました。

関ヶ原東西武将隊の合戦劇のチケットを予約しました。

幸いにも勤務が変更になり、観にいけるようになりました。

なので、早速予約です。

^^

11月30日ならば、関ヶ原町民に限り、町民サービスで無料で観られるのですが、あいにくその日は会社の送別会と重なり、いく事できず。

でも、こんなに直前なのに予約できて、本当にラッキーでした。

4回の公演中、2回は既にソールドアウトなので。



ちなみに彼らは東京のプロの劇団員で、去年の後半に結成されて関ヶ原で約4ヶ月間のみ活動していましたが、あまりにも人気が出たので、今年も数回復活する事になりました。

今年は幸いにも、5月・6月・8月と、全て会う事ができました。

そんな彼らのショーの間で、私はステージでインタビューを受けたり、口上をして槍を振り回したり、

殺陣をしたりしました。



例えばこれとか  (・・・と、さりげなく、関ヶ原東西足軽隊の宣伝を。) 


トップバッターの赤いのが私です。



そして、これが殺陣 (・・・と、更にさりげなく、関ヶ原東西足軽隊の宣伝を)


一騎打ちしている赤いのが私です。



・・・久しぶりに見てみたら、この頃はまだ甲冑きれいだったなぁ。。。

またこの冬に塗りなおさないと。

(爆)



実際のところ私が一番活躍していたのは、ショーの後の武将隊の撮影会のお手伝いの時でしたが。

きっとそのときが一番輝いていました。

(爆)



関ヶ原東西武将隊の合戦劇、

タイトルは 『四百年の襷(たすき)』

です。


チケット、まだあるようなので、興味のある人は是非。



楽しみです。

^^
Posted at 2012/11/29 11:31:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行/地域
2012年11月24日 イイね!

鳥取旅行記⑤  後藤又兵衛の墓 

城山を下山したあと、さあ帰ろうと高速道路へと向かった。

すると偶然、 『荒木又右衛門 宝物館』と書かれていた看板を発見した。

直感で、『ピーーン!』 と来たので、妻に引き返してもらい、そちらへと向かった。

実はこの時は、この人物を 荒木村重 と間違えていた。

あの荒木・・・信長に謀反を起こした・・・ひょうげものにも出ていた・・・と勘違いをし、看板の示す方向へと進んでいった。

(爆)

途中、看板の示す道が分からなくなった。

妻にゆっくり走ってもらい、助手席から辺りに慎重に目を配るすた。


『もうそろそろ着くはずなんだけど、あのお寺かなぁ・・・。大きいし、怪しいぞ・・・。』

寺の門


・・・寺の前を通りかかったとき、こんな石碑が目に飛び込んだ!!




石碑


≪    後藤又兵衛の墓   !!≫




すた 『ちょっと待ったあ!! \(゜皿゜#)/』  



車をUターンして寺に戻ると、やっぱりこれはあの、後藤又兵衛だ。

大坂の陣で活躍した、堺の寺にあった『後藤又兵衛に殺された徳川家康のお墓』の、あの後藤又兵衛だ。

この偶然には驚いた。

まるでここに引き寄せられて来た様な・・・。

さっそく、参拝させて戴く事にした。




後藤又兵衛の墓




大坂の陣で戦死した後藤又兵衛の遺髪を、妻が実家の岡山に持ち帰った。

その時の岡山城主 池田光仲 が、鳥取へと移転となったので、城主の家臣である妻の三浦一族と後藤一族もこれに従った。

その時、このお寺を後藤又兵衛の菩提寺として、お墓に遺髪を埋めたんだとか。

池田光仲とは、父が池田忠雄(輝政の息子)で、母は初代阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の娘・三保姫だ。

自分の故郷ともつながりがある。



この偶然の導きに、とても感動した。






細川家の家紋

本堂には、細川家と同じ家紋があった

細川家は、関ヶ原合戦前まで、鳥取の隣の兵庫の隣の京都(天橋立の辺り)にいた。

たしか池田輝政の家紋は、モスラが下を向いている様な絵だった。

なにかつながりがあるのだろうか・・・。

疑問が残った。




後藤又兵衛の菩提寺を出たあと、いよいよあの、荒木(村重)の・・

と、勝手に勘違いをしながら、ゆっくり車を走らせた。
 


続く♪
Posted at 2012/11/28 05:19:45 | コメント(1) | トラックバック(0) | 後藤又兵衛 | 旅行/地域
2012年11月23日 イイね!

決戦地と笹尾山

先週末で終わった、今年の甲冑武者ボランティア。

終了後の初の休日で、どんなになっとんだろうなあと思って、決戦地へ行ってみた。

すると、石碑をローアングルで撮影しているTVカメラとマイクでなにかを集音しているグループがいた。

なにかの番組で使われるのだろうか。

そのシーンで、『ブーン』と車の音がしたら、それはきっと私の車です。

(爆)


北小学校の前を通ったが、片付けられて寂しくなっていた。

笹尾山へ行くと、観光客の車が10台ぐらい来ていて、もったいないなあと思った。



来年のスタートが待ち遠しいです。。。





Posted at 2012/11/28 04:58:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行/地域
2012年11月22日 イイね!

郡上一揆の映画を観ました。

最近、図書館で歴史映画を見あさっている今日この頃。

今日は、『郡上一揆』という映画を観ました。

エキストラ数千人の村民の一揆のシーンが迫力満点。

郡上とは、岐阜県の郡上八幡のことを言います。

郡上八幡城は、山内一豊の妻の千代の生誕地です。


物語は、増税に反対した農民が一揆を起こし、藩主の金森に訴えたが、しりぞけられる。

主人公とその仲間が江戸城へ行き、家老に直訴したが、これもあしらわれる。

罪人として村に戻ったが、藩主が農民たちの全ての貯金を強奪し、村中で巨大な紛争に発展。

再び江戸へ行き直訴したが、想像を絶する厳しい拷問を受ける。

次々に死んでいく仲間達。

しかしその苦労、訴えが遂に認められ、金森家はお家取り潰しとなり、流罪となり、増税をなくすことができた。

だが、主人公とその仲間達は打ち首となり、首一つとなり故郷へ帰る・・・。



・・・江戸時代中期の話ですが、本当に恐ろしい時代ですよね。

今だったら、会社でストライキを起こしても、本当に首を切られるということは無いので。

一般に江戸時代は平和だといわれていますが、農民の生活を見ると、とてもそうではないなあと思わされました。


それにしても、金森一族、なさけないなぁ。

金森は、金森長近が関ヶ原合戦に東軍で参加していましたが、その子孫に当たります。

村民に暴動を起こされる領主って、最低ですね。


・・・今風に言うと、国民に嫌気を指される政治家たちも、最悪。

自分達が膨大な借金を作っといて、それで国民が民主党を選んだのに、それを棚に上げてひたすらつぶしにかかる自民党。

くだらない政権交代の駆け引き。

解散するやいなや、他の党へと簡単に移籍する薄情な政治家達。

外国みたいに暴動  一揆   が起きないのが、不・思・議。

ああ、日本てなんて平和な国。。。

(爆)
Posted at 2012/11/24 19:11:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行/地域
2012年11月21日 イイね!

鳥取旅行記④ 鳥取城址

鳥取砂丘を出発したあと、ご当地ソフトを食べて、鳥取城址へと向かいました。

城跡に近づくにつれて、暗雲が立ち込めてきて怪しげな天候に。

つい今のさっきまでの暖かい気候の晴天が、嘘のようでした。

その薄暗い天候は、鳥取城の凄惨な歴史を醸し出しているようで、不気味に思われました。

まずは麓にある歴史資料館へ。



やまびこ館

ここで鳥取城の歴史を詳しく勉強する事ができました。

入り口の音が地下鉄の駅のような感じでした。




たっぷり勉強した後、ちょっと引き返して鳥取城へ。


城山遠景


山頂に天守閣址のようなものが見えました。


天守址アップ

山の麓に来た時、どうしても駐車場が見つからず、手前を2往復ぐらいしました。

あとから堀の前の路上駐車しかないということが分かり、難義しました。

城の入り口を探している時、お堀の橋の向こうに石垣が見えました。

ここがお城の駐車場かと入っていくと、引き返せない道の細さが右にカーブし、高校の入り口の駐車場へと続いていました。

バックで引き返すこともできないので、しかたなく、高校の入り口で車を切り返してUターンしていると、学校の先生らしきおっさんが、腕組みして仁王立ちをし、こちらをにらんでいました。

・・・ちょっと考えたら、観光客が迷い込んだって分かるだろうに。

車のナンバープレートとかさぁ。

もっと、ソフトな対応できんのか?

正直、気分が悪くなりました。

入り口にもっと分かりやすく、高校入り口って書いておけよな。

高校の手前の石垣


予め、この近くに吉川氏の銅像があると分かっていてその前を通りかかりましたが、とにかく駐車場が無く、通りすがりに写真撮影。

鳥取城の英雄です。

吉川経家の銅像


そんなこんなで、何とか鳥取城址へ到着できました。



石碑




お堀には鯉がいっぱいいました。

持っていたパンくずを投げると、気持ち悪いぐらいいっぱい集まってきました。

おなかすかせとんかなぁ。。。



城の入り口に、鳥取県立博物館があったので、立ち寄りました。

鳥取砂丘のしくみがよくわかって、おもしろかったです。






お堀の鯉








ここ鳥取城には、悲惨な歴史があります。

1580年、羽柴秀吉が中国地方を攻めていた時、ここ鳥取城へとやってきました。

その時、城の応援として、優れた武将の吉川経家が、鳥取城主としてこの城にやってきました。

秀吉は城を攻める際、『兵糧攻め』という、もっとも残酷な手段で城を落とす事にしました。

それは、あらかじめ商人に城の兵糧を買わせておく、毛利の船舶での食糧輸送なども叩いておくなど、徹底したものでした。

城の周りは、ねずみ一匹はい出でる事がないぐらいに取り囲まれました。

しかし実際には、米俵に隠れて川から脱出に成功した農民もいたそうです。



ここからはうる覚えですが、

城には、兵士数百人分の食料しかなかったのに、それよりもさらに多い麓の村人たちがこの城山へと逃げ込み、兵糧は3週間ほどで無くなったといいます。

秀吉による兵糧攻めは、3ヶ月間続きました。

人達は、山麓に仮の小屋を造り、山に生えている木のつるなどを食べ、飢えをしのぎました。

しかし、いよいよ本当に食べるものがなくなったとき、人々は狂乱と化し、餓死した馬や人の肉を食らったそうです。

それはまさに、飢餓地獄でした。

城主の吉川経家は、自分の命と引き換えに開城し、切腹をしてこの世を去りました。

秀吉は、経家ほどの優秀な武人を殺すのはもったいないと考えていたそうですが。



そういう凄惨な事をやって、秀吉は天下人となることができました。

なのでいつも思うのが、大阪とかだと、秀吉の事を親しみをこめて『秀吉さん』って、さん呼びしてたりしている人たちがおりますが、聞いていてすごく気色悪いです。

また、家康が天下を取らなかったら、関ヶ原で負けていたら福島とか加藤とかが力をつけて、もっと戦国時代が長く続いていただろうから、それでよかったとかいう人たちもいますが、本当にそうでしょうか? 

散々残酷に人殺しまくっといて、なにゆうとんねんって 

平和的解決のつもりか?

って、

・・・もちろん、ガイドでは言いませんが。

笑顔で 『そうですね。^^』って、答えています。

(爆)






地図


城門の前に行くと、ちょうど下山してきたおじさんと出会いました。



おじさん  『登ってみなはれ。砂丘がようみえるでよ。^^』


      『・・・あんたらだと、40分ぐらいかなぁ。^^』




解説



砂丘で足がガタガタになっていて、今日中に岐阜に帰らなければならないのでスタミナを温存せねばという事情もあったので、




すた    『そうですね。^^』


と答え、階段を登るそぶりを見せながら、後でおじさんが完全に去るのを見計らって、とっとと下山して帰ることにしました。


(--;)





城門と石垣



あと簡単に鳥取の歴史を言いますと、池田輝政の弟が入ったそうですよ。


城門をくぐった後の階段と石垣




続く
Posted at 2012/11/23 13:41:18 | コメント(2) | トラックバック(0) | 鳥取城址 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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