まず、笹尾山の駐車場に集合しました。
行くとちょうど、静岡から7~8人の家族が来られていたので、いつものように、ガイドをさせていただきました。
おばあちゃんがご祝儀にと、乾し梅干をひとつくれたので、『好きなんです!』 と、笑っていただき、ツーリングスタートとなりました。
姉川古戦場
浅井・朝倉連合と織田・徳川連合の戦あとです。
行くとたまたま現地のガイドさんが案内してくれる事になりました。
よくわかって面白かったです。
下の写真ですが、看板の上に大きな刀があります。
浅井隊の力持ちの武将が使っていた、実物大の武器です。
これを振るって、大活躍したそうですよ。
戦は、午前4時にスタートしました。
最初、織田軍はおされて、10数段の構えをあと少しのところまで、打ち破られ、苦戦をしていました。
そのピンチを救ったのが、家康でした。
絵
ガイドさんの説明によると、下の写真ですが、姉川の北側になり、後ろのほうに小谷城があります。
赤い線の左側に朝倉隊がいて、家康が写真のもっと左から横っ腹を攻撃し、大混乱になりました。
赤い線のくにゃっと折れ曲がっているところが、壁になっていて、その上の高いところに、浅井隊がいました。
助けを求めてそちらに兵たちは逃げようとしましたが、この壁の高さが数メートルあり、登ることができずに、徳川と壁に挟まれて、朝倉隊はやられたそうです。
上れない

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ここには、大河ドラマにあわせて、竹中半兵衛の旗がたくさんなびいていました。
半兵衛は、姉川の南むこうにあった鎌刃城の堀氏を説得して、戦わないように和議を結ぶ事に成功しました。
これによって、信長は姉川の南側に、容易に陣を張る事ができたそうです。
姉川は兵の血で、真っ赤になったそうです。
姉川通過中
左に伊吹山が見えました。
続いて、石田三成生誕地に到着です。
まつり屋サブリさんの黄色いランチャー
三成像
紅葉が綺麗でした。。
石田三成会館の中で、ちょっとビデオを見せてもらい、展示物をちょっと見て、地図をいただきました。
無料というのがありがたいですね。
石田三成生誕地の地図
三成の生誕地のすぐ下に 小堀遠州の生誕地 というのもみつけました。
こちらも今度、調べていってみたいです。
観音寺 三成と秀吉出会いの寺
こちらは、史料が出ていないので、公に宣伝されていませんが、有名なので行ってきました。
ちょっと前をちらりとみて、退散。
伊吹山が綺麗でしたよ。
伊吹山
山頂を見ると・・・、
山頂レッツ
誰かが、 レッツ・パーリイ!! しているように見えました。
続いて、京極墓所へ。
太平記でもでてきたそうですが、とりあえず戦国ツーリングなので、京極兄弟
京極高次・高知
を中心に説明を。
京極墓所 清涼寺 三重塔
京極一族は、本能寺の変 1582年 で明智光秀に味方していたので、衰弱していました。
しかし、京極兄弟のお姉さんが美人だったので、高貴な美女が好きな秀吉が自分の女 側室にしたことがきっかけで、京極兄弟たちも 大名に返り咲きました。
しかし、おねえさんのおしりの力で出生したので、世間からは
『蛍大名(ほたるだいみょう ・おしりが光る という意味) 』 と、陰口を言われて悔しい思いをしていました。
その後、1598年 秀吉が死んで、1600年 関ヶ原合戦のときに、彼ら兄弟は東軍として活躍しました。
高知は、大谷吉継と戦い、相手が悪かった、やられたけど、それでも一生懸命、奮戦しました。
高次は、大津城で、西の猛将 西軍 立花宗茂を足止めにする という大活躍をしました。
宗茂に城を落とされたのが、 関ヶ原合戦の当日 9月15日と同じ日だったので、もしもあと2日早くおとされていたら、関ヶ原合戦に間に合っていたので、その功績は大きいです。
その努力のかいあって、それ以降、誰も彼らのことを 蛍大名 と悪口を言わなくなった という話です。
京極墓所
墓所を離れて、関ヶ原へ移動。
複雑な移動ルートでしたが、なんとか無事に移動できました。
^^;
大谷吉継墓所
彼らの物語は、今までに何度も語ってきたので、パスさせていただきます。
こちらは、小早川秀秋の陣地が正面に見えます。
松尾山ビューポイント
そして、ランチ。
ココカフェでランチ カレー
戦国、こだわりのカフェで、私お勧めです。
丸山 ココカフェから
今回は上りませんでしたが、丸山は今関ヶ原が大変綺麗に整備しており、お勧めです。
眼下の木も綺麗に伐採され、コンクリートの屋根つきベンチも、綺麗に塗りなおしていました。
何十年ぶりなんでしょうね。。。
見晴らしもよく、笹尾山とはまた違った角度で古戦場が見られるので、合戦の陣形とかが好きな人には、ぜひお勧めですよ。
そして、再び笹尾山へ。
笹尾山 車勢ぞろい
展望台で軽くガイドし、次は東へ。
細川忠興陣跡
今年の3月にできたばっかりなんで、きれいです。
東首塚へ行って、関ヶ原駅前へ。
関ヶ原駅前みやげ物店 おへそ 三成顔出しパネル(すた作画)
自分が描いた 顔出しパネルに 自分で顔を突っ込んで、撮影タイム。
^^;
万福丸処刑場 浅井長政の息子

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ここもなんの説明もありませんが、『姉川の合戦』とつながるので、立ち寄りました。
それにしても、幼いのにかわいそうですよね。。。
山内一豊陣跡あたり
松の並木が綺麗です。
そして、久しぶりに桃配り山へ行きました。
桃配り山 イメージ
写真の左側の道路の上あたりに、平らな土地が合ったらしいです。
大正時代の写真があったとか。
しかし、国道21号線を通すときに、山の真ん中がえぐられてしまいました。
そのえぐられた てっぺんに 家康たちはいた と考えられています。
家康の腰掛岩に座りました。
桃配り山 偉そうなすた1
桃配り山 偉そうなすた2
ここから、隣町の垂井町に入ります。
垂井一里塚
現存している数少ない一里塚。
これは、徳川家康の命令によって全国に4キロごとに作られました。
普通は道の両側にあるそうですよ。
五明稲荷
ここは竹中半兵衛のゆかりの神社です。
これも過去に何度も載せてきたので詳しくはしょうりゃくさせていただきますが、ざくっと説明すると
荒木村重が謀反を起こして、説得に行った黒田官兵衛が牢屋に入れられ、帰ってこないので気の短い信長が『官兵衛も謀反を起こした』と勘違いをして、彼の息子の長政(しょうじまる)を殺せと命令したけど、半兵衛は『彼はそんな事をするやつじゃない』と長政をにがして、ここでかくまっていました。
その後、無事に帰って来たので、ここを去る記念にと、これらの木を植えた という事です。
写真に写っている巨木がそうです。
竹中半兵衛の銅像 陣屋前
垂井 竹中半兵衛墓所
ここで、解散です。
次が楽しみです。
^^