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すた☆君のブログ一覧

2014年12月16日 イイね!

第1回 石田三成教室 ② ≪三成の戦働き≫

最近仕事がアホみたいに忙しくバタンキューだったんで、久しくネットを離れていました。

では、前回の続きです。
^^


1559年 生まれ
1570年 姉川の合戦 ←11歳 、近所だったので見ているはず。
血で真っ赤に染まった姉川を見て、三成は何を思ったのでしょうか。

≪三杯のお茶≫の話。
気の利く三成を秀吉が気に入り、スカウトした。

1582年 本能寺の変、清須会議、そして≪しずが岳の戦い≫へと時代は流れた。

≪美濃大返し≫
秀吉軍は、大垣からしずが岳までの53キロを、たったの5時間で引き返すと言う大技を見せた。
それは、三成の手配のおかげ。
街道にたいまつをともらせ、握り飯を用意させた。



≪忍城(おしじょう)攻めの真実≫
秀吉が天下統一をなしえようとした時、最後まで抵抗したのが、関東の北条氏だった。
北条氏の拠点が小田原城で、いくつかあった支城のひとつに忍城があった。
三成は秀吉から≪ここを水攻めで落とすよう≫命じられた。

関東は泥沼の湿地帯で、水攻めは水をせき止める土塁を造るとすぐに崩れて失敗するリスクが大いにあった。
これには秀吉の力を見せ付ける宣伝効果が大いにあった。
水攻めは多大な費用がかかるので、莫大な経済力が無ければ実施する事ができない。
秀吉にしか実現できない。
他の大名たちへのアピールは成功した。
三成は秀吉のために、失敗すると分かっている作戦をあえてえ引き受け、案の定失敗した。
コレを取り上げて、『だから三成は戦べたなんだ』と指摘する声もあるが、それは大きな間違い。






≪朝鮮出兵≫
三成は後方支援に回り、兵士や兵糧の円滑な輸送を引き受けた。
また、現地で働いている大名たちの活躍を裏表無く、包み隠さず秀吉に連絡した。
これが大きな反感を買い、命を狙われる事となった。




とりあえず、今回はココまで。

続く♪
Posted at 2014/12/19 08:41:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | 石田三成 | 旅行/地域
2014年12月15日 イイね!

室温6℃

今朝、部屋の温度計を見たら、6℃ でした。

まるで冷蔵庫だなあと思いました。

(ーー;)

因みに17日の関ヶ原の予想最高気温は2℃で最低気温はなんとー3℃。

まるで冷凍庫ですね。^^;

運転の際は、ブラックアイスバーン  ぬれてたと思ってたら実は凍ってた にご注意下さい。








Posted at 2014/12/16 06:49:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2014年12月14日 イイね!

関ケ原 積雪20センチ 

関ケ原 積雪20センチ 前の晩に伊吹山から強風が吹き降ろしたら、翌日は必ず雪が降る。

これを関ケ原名物、伊吹おろしと言ふ。。。

日曜日、ドカドカと雪が降って、おおよそ積雪20センチなり。

長靴はいて選挙に行きました。

田んぼの間の細道を、長靴で雪を蹴っ飛ばして歩ける道を作りながら突き進み、選挙会場へ。

・・・徳島では考えられん。。。

行ってみると、老若男女、み~んな長靴を履いている。

地元に溶け込んでいるような気がした。




あさって、最強寒波が来るってTVで言っている。

最強って、何と比べて最強なん?

最近のTVって、『歴史的』とか『超巨大』とか、表現が大げさすぎて、どれが凄いんだかようわからん。

『歴史的』って言葉遣い、嫌い。

くだらない事で言いすぎ。



それはさておき。

次は何センチ積もるかな?

最強言うからには、70センチぐらい期待させろよ。

(爆)

^^







Posted at 2014/12/15 10:45:07 | コメント(3) | トラックバック(0) | クルマ
2014年12月13日 イイね!

第1回石田三成教室 ~関ヶ原合戦後の三成の子供たち~

先日の鍋パーティで開催した『第1回石田三成教室』でしゃべった内容を以下にまとめたいと思います。

長くなるので、2回に分けて書きたいと思います。


興味のある方、他にネタあるかた、どんどんコメ宜しくです。
^^


^^


~その① 関ヶ原合戦後の三成の子供たちの人生~

三成と正室おりんの間には、3人の子供たちがいました。

長男:源吾(げんご)、次男:重家(しげいえ)、長女:辰姫(たつひめ)

(*他に子供がいたかは知りません。^^;)


≪重家の人生≫

次男の重家の「家」という字は家康の「家」で、名付け親が家康です。



なので、昔は三成と家康は仲がよかったのかな?とか思いました。

まぁ、分かりませんが。

ずうずうしくも、織田家重鎮の丹羽長秀の『羽』と柴田勝家の『柴』をもらって≪羽柴≫秀吉と名乗る人もいますんで。


関ヶ原合戦の時、重家は、大坂城にいました。

その後、京都の妙心寺に入って出家しました。




≪長男:源吾の人生≫
彼は妹の辰姫と共に、津軽(青森県)へ逃げました。

戦国武将 津軽為信(つがるためのぶ)は、昔 お父さんの石田三成に助けてもらった事があるので、その恩を返すために、三成の二人の子供たちを家族同様に大切に育てました。

津軽為信は東軍で、初代藩主で、独立国にしたいと戦っていました。

まず、源吾は石田と名乗れないので、名前を杉山はちべえと変えました。

何故「杉山」かというと、信楽町の杉山というところで、父三成が秀吉から守護神をもらったから、その場所を大切な名前として、自分の新しい名前と決めました。

杉山はちべえは、三代藩主 津軽のぶよし に仕え、家老にまでなりました。



≪長女:辰姫の人生≫
辰姫は、津軽為信の息子の二代藩主のぶひらと結婚しました。

兄 杉山はちべえが使えた殿様が、彼女の息子 三代藩主 津軽のぶよし です。



ちなみに、辰姫はねね(おね 北政所 高台院 秀吉の正室)の養女でした。


ここで疑問に思ったのが、『北政所の侍女№1が、大谷吉継の母なのか?』という説でした。

あと、三成と小早川秀秋の関係ですが、彼らは親戚になります。

小早川秀秋の父は木下家定(ねねの実の兄)で、辰姫はねねの養女なので、秀秋と辰姫はいとこ同士になります。

ということは、小早川秀秋にとって三成は、いとこ(辰姫)の父 という関係になります。


脱線しました。

^^;




それと、家康は捕らえた三成に、彼の子供たちが無事な事を伝えたそうです。

一族郎党皆殺しにするこの時代、敵の子供たちを生かしたことより、家康はなかなか心の広い人間なのだなということが想像できます。

・・・もしかしたら、彼らを生かすことによって、心の広いところを他の武将たちにアピールしたのかもしれませんけどね。




続く♪
Posted at 2014/12/15 10:14:14 | コメント(1) | トラックバック(0) | 石田三成 | 旅行/地域
2014年12月12日 イイね!

小早川秀秋の旗印

小早川秀秋というと、関ヶ原合戦の裏切りで有名なんですが、彼の旗印は鎌が交差している 『違い鎌』 というものです。

では、どうして彼はこの旗を選んだのでしょうか?

ちょっと調べてみました。



九州北部、博多~肥前名護屋城の唐津街道にある、『浜崎宿』。

そこに、『濱崎諏訪神社』 といって、秀吉が朝鮮出兵の戦勝祈願を行った神社 があります。

諏訪神社は、武田・徳川の守護神でもあるそうです。

その神社に、建御名方神(たてみなかたのかみ)という軍神が祭られていて、そのご神体の『薙鎌』をイラスト化したのが、『違い鎌』。

小早川秀秋は、これを旗印として採用したそうです。



以上、関ヶ原合戦武将に関する豆知識でした♪




Posted at 2014/12/13 14:37:05 | コメント(3) | トラックバック(0) | 小早川秀秋 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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