• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

すた☆君のブログ一覧

2015年03月31日 イイね!

ロードスター ~桜の史跡巡り at 関ケ原~

ロードスター ~桜の史跡巡り at 関ケ原~今年初めて、ロードスターのエンジンを掛けました。

実に、・・・5ヶ月ぶり。

無事に掛かってよかった。

A(^^;)


そろそろ関ケ原も、桜が綺麗なシーズンがやってきましたよ♪


≪松尾山・小早川秀秋陣跡への登山口の手前にて≫
Posted at 2015/04/02 11:50:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | ロードスター | 旅行/地域
2015年03月30日 イイね!

アニメ銀魂もうすぐですね。

1週間程前から、毎日毎日番組表をチェックして、まだか?まだか?と見ていましたが、なかなか出てこず。

・・・もしかして東海圏内ではやらないのか? と不安がよぎり、居ても立ってもいられなくなり、銀魂HPをチェックしたら。。。

・・・4月8日(水)~スタートでした。

もうほとんど、病気ですね。

(爆)

アニメ銀魂公式HP
http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/gintama/index2.html
Posted at 2015/03/31 13:02:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2015年03月29日 イイね!

まったりお休み。 『壬申の乱』について調べてみた。

今日は久しぶりの長いお休みで雨なんで、たまったブログ書いたり(10日分)、調べたい事を調べたりして、家でまったりと過ごしています。

晴耕雨読で、晴れたら外出、雨の日はクルマも危ないんで、家でまったりのんびりが一番です。

ここ最近は仕事が激務続きで、毎日仕事が終わったら家に直行、帰ったら家の事をして、ご飯食べ終わったらバタンキュー、夜中に目が覚め風呂に入ってまた寝て出勤 の毎日でした。


調べ物ですが 『関ケ原の別の歴史・壬申の乱とその前の歴史的な流れ』 や、『関ヶ原合戦史跡のある垂井町の史跡の歴史的背景』、『源平交代思想』、『関ケ原の西隣の町の史跡の歴史的背景』、『関ヶ原合戦前後の稲葉一族』 などについて調べました。

あと、『ゲティスバーグ古戦場』と『関ヶ原合戦当時の織田一族』についても調べたいところです。

いやぁ~、好きな勉強を思う存分出来るって、幸せですねぇ~。

^^


以下、今回調べた事をメモ書き程度に書き記します。

興味のある人は、是非コメントを。

^^;



① 壬申の乱 
主戦場、関ケ原なんですよ。

なので、いろんな史跡が残っています。

この戦までの流れを調べてみました。


壬申の乱 は、大海人皇子と大友皇子の戦で、勝ったほうの皇子は即位して天武天皇になりました。

では何故、彼らが戦う事になったのか。

前者の兄であり後者の父でもある天智天皇(中大兄皇子)の後継者問題 が、事の発端でした。

おいとおじの戦い になります。

中大兄皇子(天智天皇)といえば、大化の改新で有名ですが、跡継ぎに自分の子供である大友皇子を選びました。

しかし、当時の世襲では、跡継ぎは弟が優先でした。

天智天皇は、大海人皇子を殺そうとさえ考え、それに身の危険を感じた大海人皇子は出家して、吉野へ脱出し、挙兵の準備をしました。

天智天皇が亡くなったあと、息子の大友皇子らに不穏な動きがあると知り、大海人皇子は挙兵して、吉野宮⇒鈴関⇒三重⇒桑名から美濃へと入り、関ケ原にやってきて陣を敷き、大友皇子と激しく戦いました。

その後大友皇子は琵琶湖に沿って南へと逃げていきましたが、追い詰められて自害、大海人皇子に土地を提供していた人物 おわりのむらじのおおすみ が大友皇子の首を関ケ原に持ち帰り埋めた (=自害峰) という戦でした。

勝った大海人皇子は即位して天武天皇になって、伊勢神宮を神社の中の神社へと変えました。

なので、今の伊勢神宮があるのは、壬申の乱で大海人皇子が勝ったからだといっても過言ではないでしょう。



で、今度は少し歴史をさかのぼってみたいと思います。

後継者問題 ですが、考え方の違いによる派閥争いも重要でした。



ここで、海の向こうのお話です。

当時中国と朝鮮半島には、超大国の唐と百済と新羅という3つの国がありました。

天智天皇(中大兄皇子)は親百済派で、百済(遺民)と手を組んで、唐・新羅連合軍と戦ったほどの仲良しでした。

ここで重要なのは歴史上、日本が外国と完全な同盟を結んで他国と戦ったのは、この戦だけだそうです。

この戦を『白村江(はくすきえ・はくそんこう)の戦い』と言い、壬申の乱の9年前に起こりました。

結果は大敗、倭国は負けてしまいました。


この百済に親しくつきあうという姿勢に、将来の倭国(日本)の危機を感じたのが、親唐派の大海人皇子(天武天皇)でした。


天智天皇の息子の大友皇子は父の意思を継いだので、将来の日本のあり方について の戦でもあったと言えるでしょう。




とりあえず、今回はここまでで。

Posted at 2015/03/29 19:43:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | 関ケ原 | 日記
2015年03月29日 イイね!

関ケ原グラウンドデザインシンポジウムを考える。 『ワーテルロー古戦場を調べてみた。』

この度、関ケ原町が世界三大古戦場へと名乗りを上げて、他の二つの成功している古戦場の仲間入りを目指すというプランを公に発表しました。

その二つとは、『ゲティスバーグ』と『ワーテルロー』らしいんですが、そう言われても実際にどう成功しているのか? が、具体的に見えてきません。

そこで、どんな古戦場なのか? とか どんな施設があるのか? とかを調べてみました。



まず最初に、『ワーテルロー古戦場』を調べてみました。



ワーテルローはベルギーにあり、ナポレオンが大敗した戦場になります。

フランス帝国軍(ナポレオン・ボナバルト率いる)VS同盟軍(イギリス・プロセイン等)との戦で、1815年に起こりました。




ベルギー観光HP
http://www.belgium-travel.jp/opt/elems/detail/688


ワーテルロー古戦場公式HP(ベルギー)
http://www.waterloo1815.be/en/home






①主戦場にライオンの丘という小高い丘があり、天辺にライオンの鋳造があります。

鉛はナポレオン軍の鉄砲の弾で造られたそうです。

また、展望台があり、布陣図があります。

②ライオンの丘の麓に史料館があり、巨大な合戦の絵(幅12メートル・長さ110メートル)があり、360度のパノラマ合戦(上映時間20分)の映画館があります。



①と②を関ケ原に当てはめると、

①⇒ 『ライオンの丘』 =  笹尾山・丸山・松尾山 など に当り、各山のてっぺんに  石田三成・黒田長政・小早川秀秋 らの武将のモニュメントがあり、鉄砲や大筒の弾で造られた  という事になるのでしょうか。

歴史民俗史料館に高さ20メートルの展望台を増設する と言っているのですが、正直ピンと来ません。

すぐ隣に役場があって、そこの屋上と同じぐらいの高さになるんだったら、『役場の屋上を開放すればいいじゃないか。』 『無駄に税金使うな!』 『何億使う気だ?』『元出はいつ取れるのか?』 などと思ってしまいます。

正直、かなり税金払って来たので、これぐらいは言わさせてもらいます。

実際、大阪府の堺市は合同庁舎の最上階を展望台として無料開放して、仁徳天皇稜が眼下に見えるようになっています。

こないだ行って来ましたが、とてもよかったですよ。

是非、参考にして頂きたい所です。


堺市合同庁舎へ行って来た日のページ
https://minkara.carview.co.jp/userid/572723/blog/27785368/




話し戻して。

展望台の布陣図はすでにありますね。

②麓の史料館は、歴史民俗史料館に当りますね。

巨大な合戦の絵=関ヶ原合戦屏風 に当り、これは既にあります。

360度のパノラマ合戦映画は、今後歴史民俗史料館内に作ると言っていましたよね。

モニュメントも造ると言っていました。


とすると、これで施設はほぼ同じになりますね。

とことん真似るなら、ついでにモニュメントも関ヶ原合戦で使った鉄砲や大筒の弾で造りましょう。

ですがまあこれは無理ですね。




続く。
Posted at 2015/03/29 18:42:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行/地域
2015年03月29日 イイね!

黒野城址 ~関ヶ原合戦に関わる武将の城址~

黒野城址 ~関ヶ原合戦に関わる武将の城址~カーナビで岐阜県のお城を検索したら岐阜市に出てきたんで、『カーナビに載っているぐらいなんだから、そこそこ名のある史跡なのかな?』と思いつつ、なんとなしに行って来ました。

行って驚きました。

岐阜市の戦国史跡はもうほとんど行きつくしたと思っていたのに、まだこんなに大きなお城があったとは。。。

お城のお堀をくるりと一周しましたが、住宅密集地のど真ん中と言う事あってか、車を止めるスペースを発見できなく、登城することなく撤退。

城の入り口に白地に○の陣旗があり、加藤なんとかという名前が見えたので、

・・・もしや、加藤清正の血筋の者のお城か!?

と少々興奮しつつ、帰って調べてみたら違っていました。



黒野城は西美濃の安藤氏の一族に仕えた 加藤貞泰。


お父さんは光泰で、秀吉の家臣(甲府24万石の大名)でした。

安藤氏というと、美濃三人衆の安藤守就の家臣ということになりますね。

安藤守就は城を奪われて、高齢で最後に城を奪い返そうと戦いを挑んで戦死した(たしか数年前史跡めぐりした時に その戦士の地へ行った) だったと思います。



加藤光泰は勇猛な武人で、その実力を評価した織田信長によって、秀吉の下につけられた そうです。

次男の加藤貞泰は、関ヶ原合戦にも関わっておりました。

加藤貞泰は、関ヶ原合戦時、すぐ近くの城 岐阜城の城主 織田秀信(三法師)と共に西軍についていましたが、犬山城へと入り、その後(たぶん岐阜城落城後)、西軍⇒東軍へと寝返り

・・・この辺は、竹中重門と同じですね。。。

きっと、一緒に行動を取ったんでしょうね。


西軍⇒東軍 へと寝返り、東軍だったので家康に許されて御家存続、生き延びた らしいです。



よく関ヶ原合戦では裏切ったのは小早川が有名で、彼ばかり非難されますが(脇坂・小川・朽木・赤座と吉川広家も)、

当日ではなくとも、例えひと月前でも裏切りは裏切りで、竹中重門もそうですし、この黒野城主の加藤貞泰もそういうことになります。




話し戻して。

写真ですが、左の丘の上に城跡 天守 があって、低いところがお堀あとになります。

街中の細い道を走っていたら、突如としてこのような大きなお城が眼前に現れた時は、とても驚き、興奮しましたよ。

また機会があれば、ゆっくりと訪れたいです。
Posted at 2015/03/29 08:16:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 美濃三人衆 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

霧の中の決戦地 
カテゴリ:関ヶ原合戦の史跡
2010/12/24 11:25:35
 
関ヶ原町の史跡 『十九女池・六部地蔵・七つ井戸・与市の墓』 
カテゴリ:岐阜県の史跡(関ヶ原合戦以外)
2010/12/20 12:40:04
 
関ヶ原町 『常盤御前の墓・鶯の滝』 
カテゴリ:岐阜県の史跡(関ヶ原合戦以外)
2010/12/20 12:36:11
 

愛車一覧

トヨタ ノア ハイブリッド トヨタ ノア ハイブリッド
ノアハイブリッド
マツダ ロードスター マツダ ロードスター
2代目の戦国ロードスターです。 出陣時は関ケ原バージョンになります。
日産 ラフェスタ 日産 ラフェスタ
中古で買って、5年間乗りました。 4WDです。 買って半年後に底から大きな「ブーン」と ...
マツダ ロードスター すた号 (マツダ ロードスター)
マイナス2℃で、オーポン走行しました。 冬でも幌をあけるオーポン漢を目指しています。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation