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すた☆君のブログ一覧

2017年08月31日 イイね!

甲冑ボランティア  『最高の贈り物 ~ 映画 関ケ原にて ~』

それはとある季節のまだ涼しい日の午前中でした。

甲冑ボランティアで、笹尾山へ行っておりました。

展望台の下でおもてなしをしていると、おばちゃん二人がやってきました。

私は赤い甲冑に白色の陣羽織を着ておりました。

おばちゃん  『今、関ケ原の映画を作っているの、知っているでしょ?』

         『私達、○○を作っているのよ。』

おばちゃんたちは、今上映中の  映画 『関ケ原』 の衣装さんたちでした。

しかし、そんな情報、知るはずも無く。

その時は、学校の教育映画か何かかな?と思いました。
(爆)

おばちゃんは、私の白色の陣羽織を見て とても誉めてくれました。

その後、肩幅や長さなどを指を拡げてサイズを測ったり、素材を見たり、色を詳しくチェックしたり、どうやって作ったのか? とか、これは井伊の誰の陣羽織なの? とか、ちょっと過去に例がないぐらいに細かい質問を受けました(いや、全く居なかった。 笑)。

とにかく、『赤に白』のセンスがいいと、何度も誉めてくれていました。

これは私の妻が私のために縫ってくれたもので、赤に白は、妻のセンスです。

たくさん質問をした後、バッグから取り出した手帳に何かをメモして、お別れ際に、

もしかしたら使うかもしれないからと、使用許可の確認をされました。

当然、快く使用許可に承諾OKして、お別れしました。

今考えれば、それが 『アイデア使用の許可を得た』 という事だったんですね。

(笑)

もう一人のおばちゃんも、『あなた、これは凄い事なのよ!』 と言うような、満面の笑みを浮かべていました。

^^;

おばちゃんたち二人は、すごい笑顔をくれて、笹尾山を降りていきました。

とても爽やかな人たちでした。



それから、随分の月日が経ちまして、『映画 関ケ原』 のCMを見てみると、

なんと、井伊直政の陣羽織が、白色ではありませんかっ!!

驚きました。

直政に白色の陣羽織って見たことがありません。

なんと、あの時のおばちゃんたちは、今回の『映画 関ケ原』 の衣装さん達で(教育映画ではなかった・爆)、

私の陣羽織を採用してくれていたのです。


嬉しかったなぁ。

最高の贈り物でした。


甲冑ボランティアって、いいことばかりでなく、嫌なこともあるんだけど、こういう事があるから、やめられないんだよね。

おばちゃん、ありがとう。

そして、陣羽織を作ってくれた妻に感謝です。


みなさん、映画を観にいったら、思い出して下さいね。

(笑)
Posted at 2017/08/31 22:03:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 甲冑武者ボランティア | 日記
2017年08月29日 イイね!

『小早川秀秋の元々東軍説』を紐解いてみよう。

昨今ちまたで 『小早川秀秋は元々東軍だった』と主張する人たちが増えている。

果たしてそれは、本当なのだろうか?


人間は、自分の立場によって、偏った考え方を主張することがある。

石田三成や大谷吉継が好きだったり、自分の好きな人がそうだったら、一緒になって、裏切りだ!! と主張し、

小早川秀秋が好きだったり、自分の好きな人がそうだったら、一緒になって、いいや、裏切ってない!! と主張する。



私は第三者として、客観的に論理的に筋道立ててこれを分析してみる事にした。


ちなみに私は、石田三成ファンではないし、大谷吉継ファンでもない。

ファンではないが、好きだ。

石田三成公祭り、一度も行った事が無い。

私はここ数年、大谷吉継の最後の話を力説して、拍手喝采もらっているが、その敦賀の史跡も今年の初夏に初めて行った。

お客さんに『行ったほうがいい』と言われたほどだ。


徳川家康ファンでもなければ、島津のファンでもない。

ファンではないが、彼らも好きだ。


私は、関ケ原ファンである。

純粋に、全てが好きなのである。


では、本題に入ろう。




関ケ原合戦で、小早川秀秋が布陣したのは松尾山。

ここは元々大坂城から西軍総大将の毛利輝元が豊臣秀頼を連れてくる予定だった。

それが石田三成の最大の作戦で、その時点で家康の負けとなる。


戦には大義名分が必要、みんな豊臣のために戦っていた。

だから、秀頼を手にしたら、特に豊臣恩顧の大名たち 福島正則らは、絶対に攻撃しない。

それどころか、家康に刃を向けるかもしれない。

家康はそれを極度に恐れていて、合戦の直前の8月の一ヶ月間の江戸城滞在中は、正則に手紙を送りまくった。



だが、秀頼は来なかった。

大坂城は西軍が占領していたが、増田長盛が不穏な動きをしていたからとか、淀君がカワイイ幼いわが子をどこともわからぬ場所へ出したくなかったからだとも言われている。

関ケ原合戦公式本には、増田説が書かれている。

教科書が正しいので、これが正解となる。



松尾山には城があって、もう数十年使われていなかったが、秀頼を迎えるために綺麗にしていた。

そこには、大垣城を追い出された城主の伊藤守政が300人の兵と共に過ごしていた。

大垣城は石田三成が西軍の拠点にするから明け渡してくれとお願いしたので、居場所が無くなり、誰も住んでいないこの松尾山城へ行くはめになった。

だが、そこへ小早川秀秋が兵1万5000人と共にやってきたから、また追い出された。



ところで、ではなぜ小早川秀秋は松尾山城へやってきたのか?

毛利輝元が大坂城を出られなかったので、その代わりにと言うことで、同じ毛利一族 毛利吉川小早川 の小早川秀秋がそこに入る事になった。

ここで大切なのは、伊藤守政は小早川によって、人数の圧倒的なさにより抵抗できず、強制的に追い出された説 の存在なのだが、

関ケ原合戦公式本には、同じ毛利関係だから と書かれていたので、それが正解となる。



ではどうして彼なのか?

小早川秀秋のそれまでの行動は、宇喜多秀家たちと伊勢方面へ進軍していたのだが、何故か途中で引き返して、近江で不穏な動きをしていた、体調が悪いとかで、近江の宿場町などでじっとして動かなかった。

関ケ原の近くに居た。

30キロぐらいだろうか。

吉川広家と毛利は、南宮山を離れられない。

東軍が大垣城を攻撃したら後ろから挟み込むために彼らはそこに居た。

元々西軍は、大垣城に篭城して戦う予定だった。


それで、西軍から声が掛かって、毛利の代わりにと小早川が松尾山城に入ったのが、関ケ原合戦の前日となる。

ここで気になるのは、小早川秀秋は関ケ原で戦が起こるのをわかっていたのか? 説。

これはわからない、わかるはずもない、全くの不可能だ。

徳川家康は合戦の前日に、関ケ原から15キロ離れた美濃赤坂に到着したばかりだ。

お互いに反対方向から来たもの同士、今みたいに携帯もなく、数十キロはなれたもの同士、1日で連絡取り合うすべはなし。

だから、小早川はたまたま合戦の前日に松尾山の城へ入ったのが自然な考えとなる。



ここで大切なのが、小早川秀秋は徳川家康と内通していた という事実だ。

秀秋は合戦の一ヶ月ぐらい前から、家康に味方をしたいと手紙を送っていた。

家康も最初は疑っていたが、最終的には承諾したので、この時点で西軍だけど東軍に内通している となる。


だから、西軍の進軍から離脱して、近江に滞在していた時点では、小早川秀秋は東軍だった といえる。


西軍が挙兵した時点では、小早川秀秋は西軍だった。

だから、元々はここがスタートなのだから、小早川秀秋は元々は西軍だった といえる。

鳥居元忠みたいに伏見城で玉砕したら、元々東軍だったといえる。

彼らは凄い。

周りに西軍が現れたにもかかわらず、東軍を主張した。

皆殺しにされるのが目に見えているのに。

本当に元々東軍を貫くならば、伏見城が攻撃されている時点で、鳥居らと同様に西軍を攻撃するべきだ。

それをしていない以上は、元々は西軍になる。



島津も鳥居と共に東軍として戦いたかったが、生き残るために西軍に着き最後まで西軍を貫いた。

島津を元々東軍だという人はいるだろうか?




小早川秀秋陣営だが、東軍の息のかかったものであふれていた。

二人の重鎮 稲葉正成と平岡頼勝。

稲葉正成は後の大奥で有名な春日の局の旦那さんで、黒田長政の縁戚。

平岡頼勝は、弟を徳川に人質に出していたし、元々徳川に仕えていた。

関ケ原にお墓がある奥平貞治は、秀秋のそばに居て、奥三河武士だから、当然徳川の者。

更にもう一人、黒田の手のものが居た。

だから、小早川秀秋首脳陣は、徳川に関わっていた者だらけとなる。

しかし、それすなわち 東軍 というのは筋が通らない。

なぜならば、西軍の陣営に居たからだ。

もしこれが東軍の陣営に居たのだったら、東軍と言える。



ここで加えて言ってみれば、小早川秀秋は西軍から東軍に変わったけれど、西軍の陣営に西軍として布陣した時点でまた西軍に戻った。しかし、小早川秀秋首脳陣は、東軍に関わっている者だらけだった ということになる。



この時点で、麓にはもう何日も前から大谷吉継たちがいた。

ここが戦場になるだろうと予測して、陣地作りをしてきた。

脇坂 朽木 小川 赤座 もいた。

彼らは北陸で前田を倒すために一緒に行動してきた戦友である。

松尾山の麓に、西軍数千人が布陣していた。

もしも小早川が東軍ならば、攻撃していたはずだ。

夜襲も仕掛けたはずだ。

しかし、攻撃をしなかったのは、大谷・脇坂・朽木・小川・赤座らは同じ西軍だと認識していたからだ。

小早川秀秋は、彼らを騙していた事になる。

西軍を騙して西軍の陣地につき、チャンスをうかがっていたのかもしれないし、まだ昨日の今日で松尾山城へ入ったばかりだったから、どうしたらいいのかと、首脳陣の考えにまとまりが無かったのかもしれない。



大谷吉継の陣跡には、小早川の陣地に向けて、数十メートルの土塁と空堀が残っている。

先日NHKの番組で、これは大谷吉継が小早川秀秋が裏切る事を予測して造った土塁だと紹介していた。


脇坂らの陣地も、周りがぐるりと囲まれているのが不自然だ。

後ろの小早川を味方と思うのならば、後ろに壁を造る必要は無い。

ちなみに私は関ケ原の陣地の地形を研究してきた。


つまり以上の事より、東軍の小早川秀秋は西軍の陣営にまんまと入る事ができたが、同じ西軍の 大谷らや、脇坂・朽木・小川・赤座らは、敵かもしれないと疑って準備をした。   と言える。








合戦の前日の話。

両軍が前日の夜に関ケ原に向けて、大移動をした。

関ケ原町の真ん中から東にかけて、東軍7万4000人が布陣した。

西軍はそれを周りの山~ぐるりと囲み、1万人多くて8万4000人で、鶴翼の陣を敷いた。

鶴翼の陣を作ったということは、小早川秀秋の松尾山はその中心なので、やはり西軍には仲間と認識されていた という事になる。


南宮山の毛利たち3万人は、これまたもう何日も前からここに布陣していた。

毛利たちを動かすことなく、鶴翼という陣地を敷く事に成功した。

小早川秀秋は、西軍の陣地に西軍の武将の代理として布陣している形となった。

だから、中身は東軍だが、西軍の陣地に居たから、西軍だ。



慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)午前8時

日本を二分化した大戦が始まった。


徳川の問い鉄砲により、小早川秀秋が裏切った。

松尾山を駆け下り、大谷隊を攻撃した。




小早川秀秋のいた松尾山は、松尾山城で、大谷吉継の陣地には神社がある。

今はもうないが、当時はこのお城と神社を結ぶ道があった。

彼らはこれを下った。

松尾山の裏側からも降りて出てきた。

裏側から出てきた兵のほうが圧倒的に多かっただろう。

松尾山の裏側 南側はお城の表参道で、とても綺麗に整備されていて、スムーズに折り易い。

これは豊臣秀頼公が来られるからと、綺麗な道が整備されたものだ。

お城の山道からなら、先頭が麓 平塚為広がいた中仙道(旧東山道)に到着するまでは、15分ぐらいだろうか。

裏側から1万人が走って来たとしたら、それでも30分ぐらいで麓で合流だろうか。

開戦と同時に攻撃説も疑問が残る。

家康の問い鉄砲が嘘になる(多分作り話)。


大谷吉継からしてみれば、西軍の陣地にいた兵たちが、自分たち西軍を攻撃してきた。

だから、『おのれ金吾、寝返ったな!!』 となるのは当然である。

最初から、福島正則ら東軍の陣営に布陣していて、西軍を攻撃したのならば、裏切りではない。


以上のことから、大谷吉継からしてみれば、西軍の陣地に西軍として入ってた小早川秀秋が、同じ西軍の自分たちを攻撃したのだから、小早川秀秋は裏切った となる。


合戦の一ヶ月前に西軍から東軍に寝返った武将竹中重門(半兵衛の息子)は、最初から黒田長政と一緒に松尾山に布陣していて、東軍として東軍を攻撃しているから、当日としては、裏切りとはならない。


それを言うならば、吉川広家も裏切り者で、脇坂・朽木も裏切りであるが、彼らは小早川共に、家康と内通していた。

はっきり言えば、一番の裏切り者は、東軍と内通せずに西軍を攻撃した 小川と赤座こそが、真の裏切り者なのだが、それがあんまり認識されず、小早川秀秋ばかりが裏切り者扱いされるのは、世論の影響か不自然である。



西軍の陣地に西軍として布陣して、同じ西軍を攻撃した以上は、例え家康と内通していて首脳陣が東軍だらけだろうと、裏切り者と言われてもしかたない。


以上のことを踏まえると、


小早川秀秋の元々東軍説は筋が通らない。


と、私は思う。


以上。
Posted at 2017/08/29 08:15:04 | コメント(1) | トラックバック(0) | 小早川秀秋 | 日記
2017年08月28日 イイね!

出陣中の携帯について。

ここ2~3年で、歴史関係と車関係(笑)のお友達がずいぶん増えまして、私を訪ねて笹尾山に来てくださる方も増えました。

嬉しい事です。

で、この機会にちょっとだけ、注意事項を。

えーっと、私、おもてなし中は、基本、携帯の音量はOFF にしておりますー。

ガイド中に音が鳴ったら OUT! でしょ。

なので、携帯にメールくれても、すぐには気がつきません。

予め前もって連絡くれていたら、その時間付近で確認したりはしておりますが。



先日、こんなメールを頂きましたー♪

^^

『笹尾山の山頂に赤い人が見えるんですけど、すたさんですか?』


・・・メール送らず、登って確認して下さい。

凸(ー。ー”) チッチッチッ。



・・・因みに、私が来ていたら、必ず駐車場のどこかに、戦国ロードスターが停まっております。

^^


最近、お客さんめっちゃ多いんで、

みなさん、今後ともども、そういう事で、宜しくお願い致しますー。

^^w
Posted at 2017/08/29 01:48:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 甲冑武者ボランティア | 日記
2017年08月27日 イイね!

甲冑ボランティア   バスがいっぱい来ました。

昨日同様、午前中だけ甲冑ボランティアへいきました。

今日も朝~すさまじい人数のお客さんが 笹尾山 石田三成陣跡 へと来られてて、

ざっとみても、 500人は来てたと思います。

GWレベルのすさまじい人数で、特に大型バスが多かったです。



ざざっと簡単に。


>関ケ原組の足軽見習いの新人さん

わざわざ山頂まで挨拶に来てくれて、ありがとうございました。

一緒に写真撮影、お客さん喜んでいたね。

こちらこそ、これからも宜しくね。





>福岡からの男女混合グループ

のみなさん。

特に、黒田長政大好きなお兄さん。

(笑)

話をとても面白いといってくれて、ありがとうね。

いつか一緒にお酒を飲みにいけるといいね。

また来てね。



ほか、多くの出会いがありました。


下でおもてなししていた関ケ原組のみなさん、甲冑ボランティアの仲間たち、史跡ガイドさんたち。

暑い中お疲れ様でした。

みんなで関ケ原を盛り上げていきましょう。


とても楽しい一日でしたー。

^^w
Posted at 2017/08/28 08:27:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 甲冑武者ボランティア | 日記
2017年08月27日 イイね!

宇喜多堤址

私もあんまり知らなかったんですが、岡山っていうところは、干潟が多いところだったらしいです。

戦国時代とかは岡山の中心部はほとんど干潟で、その後、どんどんどんどん、堤防を造っては、海水の流れを変えて、干潟から海水を自然に無くして、新たな土地を作る

 と言う作業を数百年にわたって繰り返し、それが最終的に終了したのは、昭和になってからだそうです。


今回行った  『戸川家記念館』の すぐ南に、 宇喜多秀家が造った 宇喜多堤の址がある ということで、ちょっと見てみました。


右側


宇喜多秀家は、ここに堤防を造って、干潟を新たな土地にしたそうです。

そしてその後、この土地で藺草を作るとこれがヒットして、大儲けできたそうです。

だから、この早島町の歴史民俗資料館は、実は藺草の資料館だそうです。





左側


堤防址といっても、今は完全に道路になっており、左右に大体3キロぐらい延びています。

この道は、江戸時代は讃岐の金毘羅さんへとつながる道として、栄えたそうです。



史跡巡りとは、新たな地方の歴史の発見。

行ってみないとわからない、行ってみて初めて知る発見あり。

面白いですわ。
Posted at 2017/08/27 01:40:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宇喜多秀家 | 日記

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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