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h.shibataのブログ一覧

2010年08月25日 イイね!

ドイツ先生・アメリカ先生のワケを想像してみる

先日のブログを書いてからorいて、思ったことがあります。


もちろん作っている側にしたって、「アメ車の真似」「ドイツ車のデッドコピー」と思われる・評価される。そう思われるのでは?という危惧は当然あっただろう?という事です。別に、似て非なる物を作りたくて作っているわけでもないでしょうし。

ということは。

どこでそうなったのか?どうしてこうなっちゃったのか?



これを考える方が得策であろう、と。


以前目にした話では100系のチェイサー。
本当かどうかは分かりませんが、ディーラーの本当のお偉いさんには、極秘に新モデルに関するヒアリングとかお披露目みたいなものがあるそうです。で、そんな時に。とある「オート店(現ネッツ店)」のお偉いさんが

「ウチにもビーエムみたいな車が欲しい」

と口走ったとか。
この話が本当か否かは知る由もありませんが、目出度く100系チェイサーはBMW風の丸目4灯ヘッドランプとL字テールを髣髴とさせる外観を身に纏って登場いたしました。
馬鹿馬鹿しいことに。そのことに引っ張られ、先代90系の時には見向きもされなかったチェイサーだったのに。100系チェイサーが買えない方々から「同じ名前のクルマ」と言う理由だけで、当時は売れずに困り果てていた90系の中古車の査定価格が急上昇するというね。
もう、当時の状況を知っている人間からするとあまりにも馬鹿げていて。「人間ってバカだなあ」とちょっと呆れしました。まあ、いいけど。



もう1つ。
とある方が、トヨタの幹部クラスの人に、こう尋ねたのだそうです。「あなたがもし、自由に車が選べたとしたら何を買いますか?」

その方は「その道のプロが個人的に推奨する商品ならば、それはやはりいい製品に間違いなかろう」という考えをお持ちだったようです。お仕事上、トヨタの幹部社員とも面識があったようで、機会を捉えて興味半分で聞いてみたのでしょう。
聞かれた側がどの部署のどういう経歴の人なのかは知る由もありませんが、そのトヨタ社員は無邪気にも(そう、あまりにも無邪気にも、)

「BMWがいいですねえ」

と答えたのだそうです。



仮に本田宗一郎さんに同じ事を尋ねたのなら「うちのクルマが良いに決まっている。何せ俺が心血注いで造ったんだからな」とか、「今度作っている奴はもっと良い。苦労してるからな。もっと良くなる。」位のことは言ったのでは?と思うのですがね。

確かに、私もベンツとか乗ってましたので、それらと比べて日本車は.....、とは思います。ただ、それははっきりと「うちはこういう理由だから、こうするんだ」というベンツの主張に比べ、日本車は「俺はこう思う」という根拠が弱いor声が小さいために余計にそう思わされるのかなと思うわけです。

今までの日本車の中で、自己主張の一番ハッキリした車って何?と聞かれれば、想い起こすのはやはり「初代セルシオ」と「R32 GT-R」でしょう?
「静かなことが一番」と「本番では500馬力にして、レースでトップを張る」。単純明快にして分かりやすいことこの上ない。
おそらくインプレッサにしたって「WRCで勝つ為の逆計算したスペックを如何に市販車に残せるか?」というね。あくまでも中の遣り取りは想像の域を出ませんけど。





機械に関して、という事で1つ象徴的なのかな、と思うのは豊田章夫さんの経歴です。

思えば、歴代豊田家の社長経験者は、私の思い浮かぶ限り理系の工学部系出身者ばかりです。初代豊田佐吉は言うに及ばず、豊田喜一郎、豊田英二、豊田章一郎、豊田達郎各氏(敬称略)は工学部機械科の出身者ばかり。
ただ、章夫さんは法学部なんですね。それが悪いとは言いませんし、トヨタ自動車社長への道が既定路線でもあったでしょうから、ハナからその道のほうがいい、という判断もあったでしょう。


でもね。機械を作る会社ですしね。機械に関する思いや嗅覚ということを思うとねえ。



マガジンXでは、車のデザインに関しての話が掲載されていました。「売れるのは営業の手柄だけど、売れないときはデザインの所為にされる」という話ですね。そんな中で、外野の声がうるさすぎて本来の味がスポイルされ続けている、と言った内容でした。

おそらく皆さん売らんが為、一所懸命に商品力の向上に励まれているのだとは思います。先の「うちにもビーエムみたいなのが」発言も「こういうものなら売れるのでは?」とか、「こういうものなら売り易そうだ」という意見であったと受取るならば、まあ、それはそれとして、という話になるのでしょう。

でも結局は「これが良いみたい」という、良く言えば「市場迎合」、悪く言えば「ポリシーの無い」商品開発。そうなってるんじゃあないのかなあ。
で、あまりにもこれらを考えすぎて、結局は「ドイツ先生」「アメリカ先生」から抜け出していない様に見える。



もう、「ビーエム」の様な、「ゴルフ」の様な、「ベンツ」の様なモドキの商品を造って、他人の商品コンセプトで商売をするのはいい加減にしましょうよ。

ホンダ「ビート」の開発ストーリーのエピソードで印象的なものの1つに、当時の飯塚PLが、当時の川本専務(後の社長)に
「ホンダも大きい会社になったから、ひとつくらい失敗してもいい」と言われた、というものがあります。ついでに「オジンの言うことは聞かなくてもいい」「営業の言う事も聞かなくていい」なんてのもあったとか。
いいねえ。これぞ社長でなければ言えない一言です。



ベンツ風、BMW風の商品でなければ安心できないのなら、それはそれで構わないのですが、トヨタほどのラインナップを抱えている会社なら、1つ位その中に「え?」というモデルが紛れ込んでいてもいいと思うんだろうなあ。

でもそれが「FT86」じゃあなあ。


結局、ドイツ先生・アメリカ先生の影が透けて見えるのは、所帯が大きくなりすぎたことも含めて「こういう機械であるべきなんだ」という会社全体のポリシーに関する部分で、はっきりとしたイメージが創れていない、という事が大きいのでしょうね。または売らんがために、お手軽に小手先の小細工を弄しすぎる。

だから安易に「じゃあ、3シリーズみたいな....」となる。




「私の作品」を見せてくれることをお願いしたいのですけどね。
Posted at 2010/08/25 13:56:30 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2010年08月25日 イイね!

無限ループ

江戸時代には「腐れ儒者」略して「腐儒」という言葉がありました。私なりのものすごい大雑把な印象で言うと「字句の解釈のみに捉われて本筋を見失ってしまった、言葉遊びに終わってしまっている儒者」です。本来の儒教というものは、孔子の生き様などを思うに「本物の生き方とはなんぞや」ということを問い続ける学問であった実用学だった様に思うのですけどね。


さていつもの様に話は飛びます。


現在の日本では、事実上「自分の身を守ることすら違法」になる不思議な社会です。
これもブルマウさんのブログを読みながら思いついたというか連想したことです。いつもネタにしてしまいすみませんねえ。

例えば、いかにも「コイツ大丈夫か?」と思える挙動をとっている車があったとします。例えばここで、どこかの映画のように「うりゃ」っと自分の車をぶつけて相手のクルマを停めようとしたとします。

すると、車の事故としては。

あまりにも危なっかしい運転がそうした行動の原因だとしても、「ぶつける」という行動を起こしたのはこちら側となるので、こっちが悪い、と。あまつさえ、相手方への賠償責任まで発生してしまいます。



仮に相手のクルマを止めて「君、そんな危なっかしい運転をされてはみんなの迷惑だよ」などと、出来杉君のように言い諭そうとしたとしましょう。
実は相手がのび太君のような奴で「ハイィ。すみませんでしたぁ。」と素直に謝り改心の意が見えれば、こちらとしてもそれ以上言うこともなく、「ああ、今日も町は平和になったなあ」と、晩酌の時のビールも殊更においしく感じられることでしょう。ところが、世の中というものはそうは上手いこと問屋が卸さないように出来ているのですねえ。もしくは悲しいかな、そういう世の中になってしまったといえばいいのか?

それこそクルマを止めた瞬間「ウルセエ、ゴルァ」などと胸倉掴まれてしまったら、どうしたらいいのでしょう。
こっちはみんなのためにいい事をしているつもりなのに、こういうときに限ってみんなは遠巻きにこちらの様子を窺って、おそらく助けに入るなり、声援の1つも送ってくれる人もなく、結局は、何故かこちらが謝ってしまう事になりそうな感じです。


それでは、相手が「ウルセエ、ゴルア」の一言を発する前に「先手必勝」とばかりに鉄拳一発を浴びせたらどうなるか?

はい。傷害罪です。



では胸倉をつかまれる前に、先に胸倉を掴んでやり、「オイ、社会の皆様の迷惑になるだろう。それが分からんか?それ以前に俺様の機嫌を損ねるんじゃあねえ」などとやるといいかもしれません。

でも、恐喝罪に問われる可能性も大です。




一応日本国内では、公式的には一般人の拳銃の所持が禁じられています。どうも、実は持っていてもいい特権階級の存在も噂されていますが、少なくとも私は持ってませんし、見たこともありません。せいぜいがエアーガンを持って野良猫を追い払うのが精一杯です。
その拳銃の所持が認められているお国ならば「うるせえ、このヤロー」とばかりに銃殺するのか・されるのかは分かりませんが、まあそういう解決法も無きにしも非ずですねえ。

でも過剰防衛は問われるでしょう。





では、そういうところまで行かないにしても、先日公判が開かれた秋葉原の加藤君のように車の中に刃物を持っていると。

これも「武器の携行」と看做され、別荘での宿泊を余儀なくされます。

ちなみに私が以前買った樫の木の木刀(素振り用)も、裸のままトランクの中においてあるとまずいようです。袋に入っていると大丈夫とかいう話もありますが試したくありませんので、真相のほどは分かりません。





そんなこんなで、何故か「威張った方が勝ち」というか、「やりたい放題になった方が勝ち」的な変な風潮ではあります。

で、なぜか日本の刑法は「教育刑」という根底思想があるそうで、「刑に服する事で、今までの生活態度や信条を矯正させる」という、たいそう御立派な教義があるそうで。犯罪者にも人権があるしね。

でもさあ。


また、被害者はいつも一般市民で、何の言われもない人が、ということを阻止するのが先なんじゃあないですかねえ。
誰かを守る為の法律なんでしょうけど、それが回り回ってなぜか違う結論に落ち着いちゃってるっぽいのも果たしてどうかとは思うのですが。
Posted at 2010/08/25 11:52:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2010年08月22日 イイね!

日本車の明日はどっちだ 2

前回アップしたブログにコメント頂いたナインツさんへの御返事が異様に長なってしまいました。でも、これはこれで1つの文章としてもまとまっているかな?とも思いましたので、今回ちょっと昇格して再録・追加修正をして1本に再構成してみました。



初代プリウスが世に出た後の数年間は、日本車というかトヨタにとっての爛熟期だったと思っています。

営業職にある人間としてはあまり好ましくない行動ではありますが、個人的に「これはだめだ」というクルマに関しては、欲しいと言われれば特に何も言うことはないにしても、「あれ、どう?」と聞かれたときにはハッキリと「やめとけ」と答えていました。仮にそれが自社の販売車種であったとしてもです。
そういう人間でしたが、この時期以降のトヨタ車は、素直に勧められる内容を持っていたと思っています。もちろん全てが全てではありませんが、少なくとも積極的に否定するほどのクルマは以前に比べれば明らかに少なくなった、と今でも思います。

このため、当時のトヨタ車に関しては、他ディーラーの取扱車でも、そこの営業さんへの「セールス同士の紹介」をして、結構な台数を納めました。
車の出来に関して否定する要素がそれほどなかったのと、他のディーラーに行かれて、そこでまた別のディーラーとの繋がりを作られたくもなかったからです。それよりは、さっさと自分が動いて自分が手配してしまう方がいいや、と。

それに、そこで紹介をしておけば、そこからの逆紹介も期待できますしね。実際に紹介も貰ってましたし。
そんなこんなで、あちこちの他トヨタディーラーから営業所に、私宛によく電話が入るので、所長が不思議がっていたものです。


話を元に戻します。それ以降、現在の状況について。先生を見失い、次を何処に見定めたのか。


今現在は「プリウス」以外に頼れるタマが無い、というか、「それ以外には何にも用意していないorモノになる物がないのだろう」という事は思っています。

あの当時、トヨタ本社から営業研修と称して私の居た営業所にトヨタ社員が来ていました。
その当時ですら聞いた話では「今はもう電気系の技術職ばかりです」という事でした。おそらく本気で次のタマは電気だと当時から踏んでいたのでしょう。豊田章一郎さんも基調講演でそうぶち上げてしまいました。


例えば営業職の中にも、未だに本気で「燃料電池車が...」と口にする人も居ますが、電気は厄介なんです。現実問題として、あれがモノになるとは到底思えません。まあ、「エコ=我慢すること」という共通認識でも醸成できるのならばともかくとして。


電気を蓄えるにしても、バッテリーのエネルギー容量は到底ガソリンに及ばず、重量もかさばります。
ガソリンは、使ってしまえばその分タンクは空になりますので、エネルギー残量が減れば減るほど重量が軽くなるというメリットがあります。その点、バッテリーはエネルギータンクではなく、「発電プラント」というのがその実態ですから、残量が少なくなっても軽くなることはないんですよね。つまり「腹が減り、更にその重さが身に沁みる」という事になってしまうわけです。
そのうち素晴らしいバッテリーが......、という期待は何時の時代もありますが、バッテリーの現実に打ち砕かれているのが現状です。

水素自動車なんてアイデアもありました。
確かに理屈上は「水素を酸素と反応させれば水になる」だけなのですが、じゃあ、どうやって水素を運ぶの?原子番号1の物質ですよ?
ということで、最小の原子である水素を透過させないように分厚いタンクを積む、なんて事を当初計画していましたが、それが半端でない位厚く重くなる。しかも、やはり原子番号1な物質ですので、大してエネルギー容量がない。
となれば大量に積み込む必要がでてくる訳ですが、高圧タンクなんて重くて仕方がない上に、水素は反応しやすい物質でもあるので危なくって仕方がない。

ちなみに、宇宙ロケットなんかはよく知られているように液体水素を燃料としていますが、あれって、打ち上げるその時にもまだ燃料注入はしてるんですよね。漏れまくっているので、次から次へと注入し続けている。でもまあ、その時限りの物でしかないのでいいんでしょうけど。


じゃあ、という事で燃料電池、つまり水素を含む物質から水素のみを取り出して、酸素と反応させる、という方式。ガソリン改質やらエタノール改質やらという方式です。
水素を酸素と反応させる、という理屈は水素自動車と変わりません。水素単体で運ぶのがきついので、その前段階の物質を載せて、その場で水素を作っちゃおう、という事です。

言うのは簡単なんですが、その水素を取り出す「改質機」。結局触媒を使ったりする装置なんですけど、触媒がやはり白金頼りです。しかも、触媒の作動温度というものがあって、それが100度以上ということなんですが、そこに行くまでをどうするの?という事とか。
結局、改質機の触媒を暖める為にヒーターが必要で。つまり必ずアイドリングの為のバッテリーは必要な訳です。で、温まってから水素を作り出して。で、やっと作り出した水素で得られるエネルギーは?という事に。



達成目標としては、「二酸化炭素排出用を減らす=ガソリン使用量を減らす事」。と、同時に「現在のガソリン自動車と同等の利便性や快適性が確保できること」。また、「ガソリン自動車と同等の安全性が確保されるべきこと」。この3点でしょう。

で、非常に無理のある技術内容に向って、それ一本しか道を用意しない形で突き進んでしまったのでは?と想像します。で、他の選択肢はばっさりと切り捨てた、もしくは傍流の技術として日陰者扱いされた。
これもまた想像の域を出ませんが、欧州メーカーは早い段階でこれらの新世代エネルギーに関して見切りをつけたのでは?と思われます。ロータリーの時のように。

ハイブリッドがモノになってしまった瞬間、「次の階段が見えた」と勘違いしてミスリードしてしまった事。「次は電気だ」と、それ一辺倒になってしまい、それ以来、機械屋・エンジン屋が傍流扱いになってしまったこと。
おそらく、こうした流れが今に行き着く1つに理由になっていると想像しています。
ただ冷静になって考えれば分かるように、あくまでハイブリッドシステムは「ガソリンエンジン(というよりガソリンというエネルギー源の優秀さ)におんぶに抱っこ」が現実の状態であり、あくまで本筋はガソリンエンジンの効率向上なんです。やはり現状、ガソリンというエネルギー源の優秀さを抜きにして、今のクルマの快適性は成立しません。


初代プリウスの優秀性を否定するつもりはありません。ただ、ハイブリッドシステムがプリウスの売りとするならば、あくまで2代目プリウスの名前を関するに足る製品は「初代エスティマ・ハイブリッド」だと思います。

あのボディにエスティマという名前をつけてもいいのか?という根本的な疑問は残りますが、殊、ハイブリッドシステムに関しては次の可能性を感じさせてくれる製品でした。
また、「3代目プリウス」を襲名するべきは「2代目エスティマ・ハイブリッド」でしょう。2代目・3台目プリウスは私の目には初代のハイブリッドシステムの「焼きなおし」・「バージョンアップ」以上には写りません。


ただ、「プリウスショック」とまで言われ、絶賛されたことが却って災いしたのでしょうね。名声に溺れてしまいすぎた。
しかも、当時の奥田社長の後、2代続いたのがどうやら財務畑出身らしい張さん、渡辺さんです。彼らに機械の事を理解するセンスがあろう筈がありません。

で。

世界戦略、拡大戦略にうつつを抜かしつつ、保守本流たる機械の効率向上を押しのけ、電気・ハイブリッドに軸足を移すという愚を冒した。

あくまでサブシステムであってこそ光るものがあるのに、本質を見抜けないままでいた。

もう1つ、プリウスの本質はハイブリッドなどではなく、車体骨格、基本設計の「全面新設計」によるベーシックカーの世界基準への大幅なバージョンアップが本筋でした。しかもこの骨格をカローラクラスに投入してきたことに意義があったわけです。
これも両社長たちは見抜けなかった。どころか置き去りにした。


もちろんリーマンショックが大きいことは認めますが、それ以前からの技術的な停滞と、本筋から外れた系統への傾倒が今になって大きく響いている、というのが今の現状でしょう。それこそ「失われた10年」といっても良いと思います。


よく、日本の自動車技術者達には「ゴルフ」信奉者が多い、と聞きます。私も、ゴルフではありませんが同じフォルクスワーゲン社の製品としてルポを実際に所有し、使ってみて、その優秀さには感心しています。これはよく出来ているし、手を抜いていないな、と。

ただね。

「信者」・「ベンチマーク」では、到達点はそこでしかない、という事も言えると思うんですよね。その先を見据えた理想状態がハッキリとイメージできなければ、絶対にそれを越えることはありえません。
製品として世に出ている以上、開発者の目線は既に次を向いているはずです。つまりは既に通過したポイントでしかない。これが常に彼らの後塵を拝する理由の大きなポイントだと思います。



先生ではなく、理想状態を思い描けていないこと。こうあるべきだという、自らの根っこが非常に細いこと。これが造りたい、という意志が有るのか無いのか。

もう1つ。トヨタという大企業に就職できた時点で、気持ちとして1つ終わってないか?という疑念もあるんですけどね。


就職する、というのは通過点です。例えば同様に結婚するということなども通過点。だから個人的には右倣えで一斉に「就活」・「結活」などという言葉を口にする光景は大嫌いですし、それに踊らされる方々、扇動する側も大嫌い。

何でそんな他人の言うことに素直に相乗りし、納得できるのかなあ?あまりにも自分が無さ過ぎるのがまずいと思うんですけどね。
Posted at 2010/08/22 12:04:28 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2010年08月20日 イイね!

日本車の明日はどっちだ

ブルマウさんのブログを読んでの感想文です。

思えば日本車というのは常に先生が居たのだろうと思っています。
先ず手始めにアメリカ先生。
大きく、豪華に、きらびやかに。低く、幅広く、伸びやかに。キーワードはこれです。
日本車はこれらに倣い、アメリカ先生の自動車の様に低く、ワイドなシルエットを身に纏ったクルマを作りました。

当時のアメリカは(もちろん今でもその残り香は十分にありますが)豊かさの象徴として君臨していましたから、当然アメリカ先生の模倣たる日本製自動車も、豊かさの象徴に置いて行かれる事のないよう、快適装備を余す所なく装備していきました。

さて。

時代もバブルの頃にもなりますと、だんだんアメリカ先生のご威光も翳りをみせます。それと同時にGX81マークⅡ、JZS131クラウンといった車達が登場します。ここにカリーナEDという車を加えてもいいでしょう。

これらの車達はそのままアメリカ車の優美なスタイルと豪華な装備を5ナンバーサイズの中に凝縮し、極めて日本的な、1つの完成形に達したのであろうと思われる姿と内容を具現化していました。

以前書いた、中古車業界で言うところの「フル装備」基準はこの時代までのお話です。

そして、これを期に日本車は一斉に宗旨替えをしたかのごとく、大きくその方向性を......。まあ、ありていに言えば、先生をアメリカ先生からヨーロッパ先生に乗り換えた訳です。もっと言うとドイツ先生ですね。

3ナンバー規制から開放された日本車は、中味は5ナンバーサイズのままで、ガワだけ「大きな事は良い事だ」と言わんばかりのボディを纏い始めました。なにやら「張りのあるボディ造形が良いらしい」という迷走の始まりです。

5ナンバーの頃がちょうど良い塩梅の密度感だったと思うんですけどね。

ここから先は「ベンツ先生」「ビーエム先生」、ちょっと違うポジションで「フォルクスワーゲン先生」という3先生が日本車の前に立ちはだかります。
となれば先生のやることなすことを真似してみるしかありません。そうして「安全の3種の神器」たる「エアバック」「ABS」「衝突安全ボディ」を纏うことに日本車は邁進していくのです。

で、ある時ふと気がついてしまったのです。

かりそめの衝撃吸収ボディに変身すると、なぜだかボディそのものが丈夫になっていることに。
さらに、「このままアメリカ先生一途ではいけない」という平成初期からの思いは、そのままドイツスタイルのボディ骨格を模倣していたことになり、それらがヴィッツやプリウス、プログレやアルテッツァとして結実していったのは御存知の通りです。


この時。平成12~3年の頃でしょうか。
タイミングとして何故か欧州メーカー達は「自動車帝国主義の白昼夢」を見ていて少々迷走を始めておりました。結果的に日本車は先生を見失う事になります。

悪いことは重なる物で、瓢箪からコマの例えの如く、日本車は「プリウスという車とハイブリッドシステム」なる物に目が眩んでしまったのですね。作った本人も初めは半信半疑だったはずなのに、思わぬ大好評の為、それで有頂天になってしまった。
もっと悪いことに、その直前に世に出た「直噴ガソリンエンジン」が、前評判ほどの性能も実績も残せず、泣かず飛ばずに終わった(終わってないけど...)のも、これに拍車をかけました。


で、今に至る、と。


これはクールな奴だ、となれば、一斉にそれに飛びつくのは日本人の、いつもの悪い癖です。

平和な時代が長すぎた弊害からか、どうも上司とは「偉い人」と同義語と勘違いされている気配が濃厚です。でも、実は組織としての方向性を判断する役、という意味で上から目線を要求される、組織としての責任を一身に背負うポジションなんですね。指揮官なんです。


で、指揮官であるはずの上司が、前線の兵士と同じレベルの事をして、周りと一緒になって踊っている(踊らされている)ことが問題なんじゃあないのか?と思います。


思えば私も40歳。バブル絶頂期の就職組です。
おそらく、普通にいっていれば課長なり何なりの役職にいるであろう年齢層になるのでしょう。

果たして彼らは今何を考え、どういった信条に生きているのか知る由もありませんが、企業の舵取りの一端を担う年齢層に達し始めていることだけは事実のようです。
また同時に、一番いい時代を最前線で過ごしてきたであろう世代が企業のトップに位置している、という事も年齢的に言える事です。

怖いんですよねえ。

就職して初めの10年が、後の人生に大きな影響を及ぼす、と思ってますので。



大丈夫かなあ、同級生の連中は。
人と同じ事をしていないと不安な連中ばっかりだったような気もするしなあ。
Posted at 2010/08/20 18:40:46 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2010年08月19日 イイね!

やっぱり言われちゃいました

先日、健康保険の保険料について触れさせていただきました。また読み直してください、とお願いするのも何なので、実も蓋もない結論を書いてしまうと「えー、こんなに高いの?払いたくないなあ。」という事です。

個人事業主なんで、健康保険料は給料天引ではなく、雇い主が半分負担してくれるでもなく、全額自分で何処かしらに払いに行かなくてはなりませんから、余計に意識的になるんですよね。

で、文中「面と向って言う勇気はありませんが...」と何度かお断りしつつ書き進めたわけですが、やっぱり言われちゃいましたねえ。

もしよろしかったら皆さんにもご覧いただけたら、と思います。リンクを貼っておきます。




リンク先HPの管理人であるコロパパさんは、オフラインで直接私と御面識のある方です。既に10年以上お付き合いをさせていただいています。

正直言うとコロパパさんの仰ることに関して、私ははっきりとした反論を持ち合わせておりません。御説、御尤もです、と首肯するばかりです。誰もが好きで病気になる訳ではない、と言われれば「確かにそうだ」以外に言いようありません。ぐうの音も出ません、とはこの事です。




まあ、茶化す訳でもなく、こう言われてしまったら反論の余地はないのが自分でも分かっているので、あらかじめそう書いた、という事もあるんですが。


ただ、それでも素直に納得できない・釈然としない物が残るのも自分自身としては正直な所です。現実問題として「こんな保険料を請求される『健康保険』なる制度には、もう付いて行けません」と、制度から止むを得ずか自主的にかはいざ知らず、離れてしまっている方々も少なくないのも事実かと思います。

また、一度離脱してしまった以上、再度制度に合流する為には、遡って2年分だかの保険料を払い込まなければ再復帰も出来ない、と聞きます。

事実上、制度への再合流は無理ですわな、これじゃあ。その意志が仮にあったとしても。




「保険」という以上、予想されるリスクに応じた相応の保険料負担というのが原則かとも思うのですが、リスクの高い方が年齢による区切りによって「ばっさりと自己負担額が大幅に免除になる制度」というのもいかがなものかとも思います。あくまでも保険と称するならば。
事実これによって、若年層、就労可能な年齢層の保険料負担の割合が「懲罰的なほど重い」と感じてしまうのも疑問です。

働けないからこそ高齢者は現金が手放せない、というのも分からなくもありませんが、それでも資産家と呼ばれる層のかなりの部分は高齢者が占めているのも事実であり、納めなければならない保険料の上限額の設定は、結果的に率としての負担割合が、高所得者であればあるほど相対的に低く、低所得者なほど負担割合が格段に大きくなってもいます。



もう少し「公平感」という事をキーワードに制度の再構築を計っていただけないだろうか?という私の印象すらもズレているのかなあ?と自問自答しています。もちろん、これは高齢者への感謝の念とはまた違う次元でのお話として。

単純に

「高齢者=弱者」という概念に一辺倒であり過ぎるのではないか


という気もしないでもありません。



もう1つ言っちゃうと、分配者たる国や公共機関そのものに対する「そこはかとない不信感」が一番の不公平感の元凶なんですけどね。色んな分野に於いて。

しかも公務員個人に対しては職責に対する責任を追及されない、という事らしいですしね。法的に。
Posted at 2010/08/19 22:50:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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「[整備] #タフト ダイハツ・タフト オーディオレス車への純正ナビ取付 https://minkara.carview.co.jp/userid/603944/car/3542135/7641092/note.aspx
何シテル?   01/14 11:39
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