大してお出掛けもしてなければ、クルマの方もすっかり落ち着きはらってしまって
もう昨今、なかなか書くこともない日々が続いてます・・・
あ、稲穂号の子供たち、庭で時々ちらほらと見かけますw
わりと元気そうです。しっかり生き残ってくれているようです。
羽化も進み、累代繁殖の希望が見えてきました。
でもこれをいちいち日記にすると、だいたいが去年の焼き直しになってしまうばかりか
それこそ
虫ブログになってしまいそうなので(
まあ実は今回1匹だけ飼ってるんですけどね(ぉぃ
その辺はまたいずれ・・・(
さて。
突然ですが、
艦隊これくしょん(艦これ)、始めてしまいましたw
正直、すごく悩んだ結果でのスタート。
まず「艦艇」の「萌え擬人化」というのが、凄い違和感を感じたというのが第一印象。
船というものは名詞としては「女性」だから、まあ強ち間違いでもないのだが…
キャラ絵が全般的にレベル高いので、その印象はなおさら。
軍用兵器に萌えるとか、あまつさえ欲jy(ryとか凄い抵抗感ありましたw
ストパンも苦手だったんだが、まだ向こうは装備をしているのが「名のある」キャラだからねぇ。
(これは公式コミック及び公式にて「あれは装備品である」という設定がなされており
また闘う相手は「沈没した艦船の怨霊(船幽霊的な…あ、ムラサ船長のことk)」ということで
自分が無理矢理解釈して納得していた「あれは艦艇の御霊を降ろした立体機動装置みたいなもんで悪霊払いしている世界だ、だから装置が破壊(轟沈)すれば、荒海に呑まれor敵に捕食等されロスト(戦死)という末路がありうるということだ」という解釈が、あながち大きく外れてはいなかったことが判明して、概ね解決を見た)
ですが、それ以上に。
自分、若い頃から帝国海軍ヲタを兼業しており
概ね主力レベルの艦艇の運命を、最初から知っています。泣けるほどに。
ああ、これは下手したら
想い入れが深まれば深まるほど再起不能のトラウマを刻まれかねないな・・・と
(実際、艦娘の台詞とか、図鑑の解説の端々にも、しばしば涙腺を撃たれます。
それだけ史実を忠実にゲーム内へ取り込んでいる…という事です)
とりあえず、
(なぜか)DMMのIDは持っていたので(←
迷いつつも登録だけはしてしまった。
けど、スタートボタンを押すまで、3日掛かりました。
押す手が硬直するんですよ。
史実にある艦艇の、悲壮な末路が脳裏をよぎったり
あとゲーム内容的に…プレイヤー感の連携のあるシステムなら、自分はとてもついていけないだろう…とか
けど、じつは登録できただけでも幸運だったらしいと知って
思い切って門を開いて踏み込んでみたのでした。
(参加想定人数を大幅に上回るプレイヤー人口に運営がギブアップ、
一時仮登録として新規プレイヤーに待機してもらい、サーバを増強する期間が設けられた。
この新規登録制限を、ギリギリ通り抜けたらしいのだ)
そんな小官も、今では中の下レベルの平均的指揮官となれたようで
鬼門といわれた「Map2-4」を、麾下艦艇の奮戦のもと、ついに突破。
ますます泥沼にハマっていこうとしています(
想像以上に長くゆるーく楽しめそうな、このゲームの事は
ちょっと調べたり、あるいは足を踏み入れてみればすぐ解ることなので
私の口からは、くどくどとは申しませんw
本題は、「なんでこのゲームに踏み込むことを決意できたのか」
そして「そのフネは、自分にとって」
この辺りなのでありますw
なので以下本題(ぉ
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このゲームには、言うまでもなく
帝国海軍の、数々の艦艇が登場している。
戦艦・空母・巡洋艦・駆逐艦・・・
その中に、強力な戦闘力を有する「戦艦」のひとつで
「榛名」
というのが居ます。
帝国海軍、開戦当時の最古参戦艦部隊にして
戦艦の打撃力と巡洋艦並みの快速力を併せ持ち、
大戦中を通じて最も活躍した「金剛型高速戦艦」の参番艦。
──戦艦榛名は、祖父の・・・いや、おじいちゃんの乗務していた、戦艦です。
↑この画像の出所ですが、
自宅には、祖父の遺品であるところの
「昭和10年度 軍艦榛名公開記念写真帳」というものがあります。
紐で綴じられた当時モノの冊子。

通常なら、呉あたりの歴史資料館なんかで
ガラスケースの中にしまい込まれ
「お手を触れないでください」レベルで厳重保管されてても不思議ではない物かと思います。
丁度、「宇宙戦艦ヤマト」の影響とかもあって
実在の水上艦艇にも興味を持ち始め
また、たまたま自宅の本棚にあった「軍艦物語」というドキュメントノベルを読みふけるようになっていた頃。
その話題を少しずつ、おじいちゃんと共有し始めたころ。
ある日、襖の奥に仕舞い込まれた、その冊子。いや、そればかりではない。
祖父自身が撮影したもの、軍のフィルムを拝借して紙焼き現像したもの…等
ざっと数冊の、当時モノの書物を、まとめて見せてくれたのです。

大興奮でした。
祖父も嬉しそうでした。私が、本格的に興味を持ち始めたことに。
それからというもの
ウォーターラインシリーズを、多く組み立てたっけなぁ。弟ともども。
祖父は、幸運にも、戦乱に巻き込まれることはありませんでした。
戦時中、もともとあまり体質的に頑健ではなかった祖父は
海軍病院で予備役として闘病生活を送っており
退院を待たずして、戦争は儚く、あっけなく終わりました。
右上、若かりし頃の祖父、入院中の姿
最初から「勝てる見込みなんてないと思っていた」そうです。
諦観ではなく、精神論抜きにして冷静に彼我の戦力差を見据えてのことです。
…榛名の最期。
それは、もはや戦艦としての任を解かれ
主砲以外の殆どの武装を陸上へ配置換えし、浮き砲台である「特殊警備艦」となり
瀬戸内にその姿を横たえていた、終戦間際の7月28日。
二度に渡って敢行された「呉大空襲」その第二回。
多数の命中弾と至近弾の前に、歴戦の名鑑ついに力尽き、大破そして湾内に着底。
浮揚修繕が全く不可能な状態ではなかったが、当然海軍にはそんな余力も、
また、それを敢えて行うほどの戦略的価値が既にあろうはずもなく。
洋上に廃墟の如き半身を晒したまま、約半月後に戦争は終わりました。
第一・第二主砲は、なおも稼動可能だったそうです。
終戦までの戦死者総数、135名。
(乗務員定数 1315名)
多くの艦艇が、その姿を海中深く、数多の将兵たちの命を飲み込んだまま没し去ったのに比べれば
その姿が洋上にあっただけでも、まだ榛名は幸運だったのかもしれません。
…戦後、浮揚のうえ解体という形で、今度こそこの世を去った「榛名」。
巨大な鋼の塊であるその身を、復興のための貴重な資材の一部としたことは、想像に難くありません。
──私が、艦これ参戦に踏み切ったのは
自分にとっても懐かしい想い出のひとつである、この艦と出逢い
そして、共に闘うためだった・・・というのが、半分以上の要因を占めていたのです。
そんな榛名と、ゲーム中で巡り会えたのは
7月も半ばに差し掛かった頃のこと。
海戦の結果で巡り会える、所謂「カードドロップ」での確率が、
設定されているステージも限定されていることから結構低く、レア度がやや高いのだそうです。
自分は、建造で引き当てました。(いわゆる「ガチャ」なんですね、これが)
既に同型艦「比叡」「霧島」を持ち、もし同じカードでダブってしまったら・・・とも思いましたが
戦艦建造(に成功する可能性が極めて高いとされる)資材レシピでもって
一か八か、建造を行ってみました。
何型が出来るかは、建造所要時間で解ります。
(ここで、艦が即完成する「高速建造ユニット」を使わなければ、額面どおりの時間を待つのだ)
表示された建造時間、4時間。
まぎれもなく「金剛型戦艦」の数字です。
基本的にドロップ主体、建造ということをしないプレイスタイルなので
高速建造ユニットは、それこそ売るほど余ってますが・・・
待つことにしました。
敢えて、待った結果で、見てみたくなりました。
4時間後、
ドックに登場したのは、
紛れもなく、捜し求めた彼女でした。
ええ歳こいて、涙がポロポロ溢れてしまいました。
…BGMは自前で事前に用意されていたんですけどねww
キャラ絵は公式HPにも掲出されているので、事前に多少は知っていましたが
なんかもう、いきなり他人には思えませんね。
ええ、黒髪の紅白脇巫女でs(←
但し性格は尽くし女房タイプで随分とれーむさんよりいい娘でしt(←←
登場するやいなや、その大火力とフットワークで敵を圧倒。
現在はついに「改」のバッジを受け、主砲として41サンチ連装衝撃砲を搭載するなど
史実の悲壮な運命を払拭するかのように、金剛四姉妹の一隻として
艦隊の主力を為しています。
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さて・・・これだけでも、充分「私の特別なフネ」であるに事足りるんですが
この話題を母と話していて、さらなる新事実が浮上したのです。
先に申してしまいましょう。
「この巨艦なくして、母も、ひいては私も、この世に存在しなかった」
旧海軍には、「慰安袋」というものがありました。
これも調べれば解るかと思いますが、要は軍人さんに宛てられた応援グッズ。
平たく言えば、差し入れのようなものですね。
この「慰安袋」には、差出人の住所氏名が記されています。
つまり、基本的には自由に差出人へお返事とか出来たわけですね。
祖父は、本当に「ジェントルメン」を地で行くような人でした。
厚意には厚意をもって応えるような人でした。
慰安袋に、丁寧なお返事を返してたらしいのです。
そのうちの一つに、当事女学生だった祖母が含まれておりました。
芦屋在住の、結構なお嬢様でありました。
慰安袋への返信から始まった、ささやかな交流は
やがて文通となり、そして逢瀬となって
最終的にとうとう結ばれてしまったのです。
初耳でした。
当時といえば、海軍さんは国民のヒーローのようなものでしたから
そりゃ嬉しかったんでしょうねぇ・・・
その末裔が、私の母であり、私と弟なのです。
彼女は、私にとっても
まさに出雲の女神様だったというわけです。
もちろん、結婚して家族を持つということは決して理想的な幸せを意味するものではなく
祖父の最期もまた、決して最高の幸せとは言い難く
自分の人生の失敗に逆恨みを抱いた叔父との確執の結果、叔母の住む兵庫へ越して
そこで静かに余生を終えました。
その引越し、および徳島からの「脱出」を手引きしたのは、我ら家族でした。
郷里を後にした晩年、心中如何ばかりであったことか・・・
(皮肉にも、我ら兄弟に「写真・カメラ」の楽しさを理解させてくれたのは、趣味人であった叔父の影響でした。シニカルで斜に構えた皮肉屋でしたが、我々にはよくしてくれたものです。残念でなりません。家族を勘当となった叔父の消息は、今はもう解りません…)
せめてもの救いは、移住先の田舎暮らしで、叔母の嫁ぎ先の近隣住人の方々の人気者であったそうで、そういう意味ではやはり人柄が身を助けた感があります。
…人生に曲折は付き物ですし、今の家族の現状が
美談の如き幸せの真っ只中というには到底程遠いのも、また現実です。
でも、どうにか弟家族には二世も誕生し、彼女の結んだ縁の灯火は守られました。
私も、窮屈で希望もあまり見えない生活ですが
なんとかまだ生きています。
彼女の存在あったればこそ、与えられた命ですからね。
おいそれと捨てることは出来んのですよ。
私は、お前のように
気高く生き抜くことが出来るだろうか・・・。
まあ、今はそれ以上は言いますまいw
我ら家族が生きている「いま」を与えてくれた巨艦に。
心から、ありがとう。
いつか、お前のもとへ行く時には
胸を張って逢えるようにしたいものだ。
名艦の御霊に、敬礼。(`・ω・́)ゝ