マンションの駐車場に降りて、ゆっくりとカーカバーをはがした。この半年間毎週欠かすことなくエンジンをかけて、地下駐車場の中を2周してきたけれど、今日はよいよこの車で外に出る。
思えば、長い一年間だった。
面倒な仕事から遅く帰ってきて、先に寝ている彼の寝顔を確かめたのが、去年の夏。テーブルの上にはホワイトボードのサインペンでメモに走り書きされた
「ごめんね、風邪っぽいので先に寝ます」
というメモがあった。
申し訳ない気分で凹みながら、とりあえず暖かいお茶を入れて一人で飲んでると、いつもと違う雰囲気に気が付いた。
なんかおかしい・・・・寝室が静か過ぎる?!。
胸騒ぎがして、あわてて寝室のドアを開けベットに寝ている彼に駆け寄った・・・・安らかな寝顔とは裏腹に、彼の体はすでに冷たくなっていた。慌てて救急車を呼んだが何の役にもたたなかった。司法解剖から戻ってきたのは数日後。死因は脳梗塞だった。
亡くなる前の数日、帰宅した彼が頭か痛い風邪っぽいって言っていたのが思い出された。
葬儀とかは親類と会社の同僚、友人たちがやってくれて、ほとんど何もせず日々泣いていた。自分を責めても仕方ないことだと解っていたけれど、あの日もっと早く帰っていれば・・・・前日とりあえず引っ張ってでも病院に連れて行ってたら・・・・と、たらればの後悔の波が、後から後から押し寄せてきて涙がとまらなかった。
四十九日を過ぎたころ、会社の同僚であり旧来の友人のM君が訪ねてきてくれた。M君はあの日、最後に彼と話した人だった。
「今まで黙っていたけれど、あの日、昼飯食べたとき、あいつは変なこといってたんだよ。」
「どんなこと?」
「俺に何かあったら車の処分はお前に任せるからさーって。いつものことながら、あまりに唐突なB型っぽい話の飛び方だったから、おうおう、もらってやるよ、俺が大事に乗るよって適当に答えたんだけど・・・・。あいつなんか予感してたのかもしれない。」
そうだった。
彼が愛してやまない車があったことを私はすっかり忘れてた。結婚してすぐに買って以来大事にしてる車。
「いいよ、彼がそういったんなら。M君なら問題ないし手続きして」
「いやいや、勘違いしないで。あの時はこんなことになるとは思いもよらなかったから適当に答えただけで、僕が乗るとは思ってない。いろいろ考えたけれど、僕は、妻である君がちゃんと乗りついで欲しいと思う。」
「えええ!!!、無理。ぜったい無理。免許とってから3回ぐらいしか運転したことないしAT限定免許だし、左ハンドルだし。」
「AT限定からMTへの限定解除なんてたいしたことないし、左ハンについては、僕のゴルフで教えてあげるから大丈夫。彼も常々君が運転できたらいいのにって言ってたのは、君も覚えてるだろ?」
たしかに。
彼はことあるごとに、オープンカー好きな私に、自分ひとりであの車に乗れるように限定解除をしろって勧めてたけれど、めんどくさがりの私は、助手席で十分だから結構ですって突っぱねてた。
M君につれられて、ほぼ二ヶ月ぶりにマンションの地下駐車場に降り、持ち主を失った愛車の前に立った。うっすらホコリが積もったシートカバーを剥がすと、ぴかぴかのAudiTTロードスターが飼い主のことを待つ忠犬のように佇んでいた。
「ほら、やっぱりこれは僕が乗る車じゃないよ、こうしてシートカバーをとった時に君の事待ってたって感じがするよ。」
M君がドアを開け、イグニッションをオンにするとキュルキュルという長めのセルの音とともにヴォーンとエンジンが掛かった。と、同時に彼が電源を入れっぱなしにしてたのだろう、カーステが鳴り出した。
それは、二人のドライブで定番だった曲。
メセニーの「Last Train Home」だった。
何処に行くときでも、必ず帰り道に彼が聞いていたっけ。
きっとこの車に最後に乗ったときにも聞いていたに違いない。
あまりに、できすぎの偶然だったけれど私の気持ちはこの曲を聴いて固まった。
「やる!。乗れるようにがんばる。」
まずは教習所に通い、AT限定の解除まで半年。なんとか右ハンドルのMTの教習者を乗れるようになったところで、今度はM君の足車のゴルフIIIのGTIで、隔週の週末ごとに左ハンドルMTの練習すること半年。先週末、ようやく外に出るお許しがM君から出た。
地下駐車場のスロープをゆっくり登って外に出た。
真っ青な空が目に痛い。
長い間土のなかで暮らした蝉の幼虫が外にでるってこんな感じなんだろうか。
駐車場からでてすぐに幌を開けると夏の日差しが容赦なく照りつける。
幼虫が羽化して羽ばたいた気分ってこんな感じなんだろうね。
混んでる国道をなんとか抜け外環道にのり、関越道、上信越道と進む。目指すゴールは彼の実家のある長野。平日ということもあって、高速道路には車が少なく、自分のペースで走れた。
走りながら、このクルマの楽しさがステアリングを通してひしひしと伝わってきて、彼が生前に見た風景、ステアリングの感触、それらを実感した。
この車、ホントに楽しいんだ。
気持ちよく上信越道を走っていると、小諸ICを越えたあたりで、追い越し車線をかなり速く走って来る車がミラーに写った。
ポルシェ?・・・・って思ったとたんにそのクルマは横を通り過ぎた。
あ、同じ車!緑色のTTロードスター。同じ左ハンドル。
通り過ぎるときに運転席をみたのだけれど、あちらはトップを閉じていてドライバーの顔があまり見えなかった。でも男の人のごつい手がステアリングを握ってるのが少し見えた。
そのTTRは追い抜いた後ブレーキを踏んで速度を落とし、私との距離をキープしながらハザードを点滅して並走しはじめた。まるでテレビでみた宇宙船のランデブーみたいに。見ず知らずの人が、同じクルマに乗っているだけで挨拶してくれるなんて初めての経験だった。
こんなことあるんだなー!
そのまま30秒ぐらいランデブーで並走してたら、後ろから来たレクサスが、不躾に何度もパッシングをしてきた。そのとたん、その車は、ハザードを消し、まるでワープするみたいにスルスル加速していった。もちろん、パッシングしたレクサスを置き去りにして・・・。
見る見る小さくなる後ろ姿をみてたら、ひょっとして、あれは彼が乗ってたんじゃないかって気がしてきて、久しぶりにポタポタと涙がほほを伝って落ちた。
彼が降りてきて一緒に走ってくれたんだよね、きっと。
遠くに消えて見えなくなったTTRを見送って、これで本当に彼とお別れだって感じた。同時にあの日から1年間眠ってたような私は、今日で終わりにしよう。
そう思ったら、なんだか大きな声が出したくなった。高速で走る風切り音に負けないように私は浅間山に向かって大声で叫んだ。
「明日からちゃんと前を向いて、窓も屋根も開けて気持ちよく走りますよーっ!! 行ってきまーすっ!!」
すっきりした。
長野の目的地まであと1時間。
「Last Train Home」は、もうちょっと先で聞こう。
青い空の向こうに見える長野を目指して、私はアクセルを踏んだ。
※ この物語はフィクションです。実際する人物や団体と一切事実関係はありません。