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2016年08月07日

真田丸紀行(3日目その2・高崎市〔旧群馬町〕〜前橋市〔旧大胡町・旧粕川村〕〜桐生市〔旧新里村含む〕)

伝、箕輪城主長野業盛の墓です。
長野業盛は、戦国時代の西上州の要であった箕輪城の長野氏最後の城主です。
永禄9(1566)年武田信玄の攻撃を受け落城し、自害しました。
その遺骸は当地の僧法如らによってこの井出の地に葬ったとされています。
長野業盛の墓
長野業盛の墓 posted by (C)pismo

長野業盛の墓 (1)
長野業盛の墓 (1) posted by (C)pismo

保渡田古墳群は、昭和60(1985)年9月3日に国の史跡に指定されています。
榛名山東南の麓、群馬県高崎市(旧群馬町)保渡田・井出にある3つの前方後円墳の総称です。いずれも墳丘の長さ100m級の大型古墳です。5世紀後半に、二子山古墳→八幡塚古墳→薬師塚古墳の順で相次いで造られ、この地に有力な豪族がいたことを示しています。
八幡塚古墳は、南東1kmにある三ツ寺Ⅰ遺跡(巨大な館)に住み、榛名山東南麓・井野川流域を治めた豪族の墓です。当時、群馬県地域(上毛野)は国内でも有力な地域でした。八幡塚古墳の被葬者は、古墳の充実度からみて、この頃、上毛野各地に勢力を持った豪族達のなかでも代表的な人物であったと考えられています。
墳丘は全長96mで3段に造られ、斜面は葺石で飾られています。周囲には、内堀・外堀・外周溝が巡り、それらの間には内提・外提が設けられています。
墓域の長さは約190mに及ぶ。内堀の中には4つの島(中島)があり、この古墳の特徴となっています。
この古墳には、たくさんの埴輪が並べられていました。外界との垣根である円筒埴輪は、幾重にも列をなして並べれ、その数6000本と推定されています。内提上の2ヶ所には人物・動物埴輪を置く区画(A区・B区)があり、各50体以上が並んでいたと考えられています。これは、一つの古墳では最多級の量で、かつ配列状態もわかる重要な資料です。
遺体を納めた施設は、後円頂部に2ヶ所存在しました。後円部の中心には、舟形石棺が据えられていました。古墳を築いた豪族本人の棺と思われます。その脇には竪穴式石槨(木棺を石で囲んだもの)も発見されました。近親者の埋葬移設と思われます。
八幡塚古墳はかつては、大きく削られていました。そのため史跡公園の全体計画にあたり、この古墳に限って造られたときの姿に復元し、活用することが決定されました。
5ヶ年にわたる発掘調査結果を基に、古墳に保存用の土を厚く盛って、築造時の姿に復元しました。
平成28(2016)年6月17日の歴史秘話ヒストリア「コーフン!古墳のミステリー」に登場しました。
(現地説明板などより)
保渡田八幡塚古墳
保渡田八幡塚古墳 posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (1)
保渡田八幡塚古墳 (1) posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (2)
保渡田八幡塚古墳 (2) posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (3)
保渡田八幡塚古墳 (3) posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (4)
保渡田八幡塚古墳 (4) posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (5)
保渡田八幡塚古墳 (5) posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (6)
保渡田八幡塚古墳 (6) posted by (C)pismo

大胡城は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670m、東西最大幅310mの規模を測り、桝形門、水ノ手門虎口、空堀り、土塁等の跡が良く残っています。
城主は、大胡氏および牧野氏でした。大胡氏は秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族です。
天正18(1590)年徳川家康の関東入部により牧野氏が大胡藩2万石に封ぜられ、その居城となりました。元和2(1616)年に長嶺へ転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれましたが、寛延2(1749)年、姫路へ転封し廃城となりました。
(現地説明板などより)
大胡城 (0)
大胡城 (0) posted by (C)pismo

大胡城 (1)
大胡城 (1) posted by (C)pismo

大胡城 (2)
大胡城 (2) posted by (C)pismo

大胡城 (3)
大胡城 (3) posted by (C)pismo

大胡城 (4)
大胡城 (4) posted by (C)pismo

大胡城 (5)
大胡城 (5) posted by (C)pismo

大胡城 (6)
大胡城 (6) posted by (C)pismo

大胡城 (7)
大胡城 (7) posted by (C)pismo

膳城は、兎川と湧水による湿潤な谷地の間の丘陵性台地の先端部に位置しています。南北約550m、東西約300mほどの範囲の中に濠や土塁をめぐらし、本丸の他、数区画からなる郭を形成しています。
この城の築城年代は不明ですが、鎌倉時代の文書に既に「善」氏の名が見えます。しかし、この膳城に居城していたかについては明らかではありません。その後、室町時代から戦国時代にかけての文書にも「善」氏は度々登場します。
戦国時代には、関東地方の覇権をめぐる北条、上杉、武田の戦記物に度々「膳」の名が現れます。
現在見ることのできる膳城の姿が形成されたのは、この戦国時代末期と考えられています。特に天正8(1580)年の武田勝頼による東上州進攻の際の、膳城をめぐる攻防戦は「膳城素肌ぜめ」として著名です。
天正8(1580年)年、御館の乱のなかで武田勝頼は上杉景勝を支持、上杉景虎派の厩橋城を制圧しそのまま赤城山南麓の大胡城・山上城・伊勢崎城を攻略していました。攻略後、武田勝頼軍は人心安定のため平服のまま各地を視察し、膳城付近を通過しました。当時膳城では酒宴が行われ玉村五郎兵衛という侍が、渋川主膳正と口論を始め喧嘩沙汰も起きており、武田軍を見た一部城兵が激高、武田軍の倉賀野秀景に攻撃を仕掛けてしまいました。この結果、武田勝頼軍の反撃を受けて膳城は落城、河田備前守や城代・大胡民部左衛門が討ち取られてしまいました。 これを「膳城素肌攻め」といいます。
膳城はこの戦いの後、廃城となったと伝えられています。本丸周辺の濠、土塁等は当時の姿を良く残しています。
(現地説明板などより)
膳城
膳城 posted by (C)pismo

膳城 (1)
膳城 (1) posted by (C)pismo

膳城 (2)
膳城 (2) posted by (C)pismo

膳城 (3)
膳城 (3) posted by (C)pismo

膳城 (4)
膳城 (4) posted by (C)pismo

膳城 (5)
膳城 (5) posted by (C)pismo

膳城 (6)
膳城 (6) posted by (C)pismo

膳城 (7)
膳城 (7) posted by (C)pismo

膳城 (8)
膳城 (8) posted by (C)pismo

山上城は田原藤太といわれた藤原秀郷の流れをくむ、藤姓足利氏の一族、山上五郎高綱によって築城されたといわれます。
高綱の子、高光は源頼朝に仕えました。その子孫も代々この地域を領し、上杉氏が関東管領の頃は東上州のなかでも、特に重きをなしたと伝えられます。しかし、北条・武田・上杉などの群雄が割拠した、戦国時代動乱のなかで、やがて16世紀末ころに廃城になりました。
城の構造は、並郭構造といわれるように、北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並んでいます。なお、南郭には物見台の跡が残っています。南北は650m、東西は220mの細長い形をしており、平坦な郭構造ではなく、高い郭を持つことから丘城ともいわれています。城下町の名残として、元町・鍛冶屋などの地名が残っています。
(現地説明板などより)
城跡は、山上城跡公園となっており、敷地内にある新里郷土文化保存伝習館では説明のパンフレットなども配布しています。
山上城
山上城 posted by (C)pismo

山上城 (1)
山上城 (1) posted by (C)pismo

山上城 (2)
山上城 (2) posted by (C)pismo

山上城 (3)
山上城 (3) posted by (C)pismo

山上城 (4)
山上城 (4) posted by (C)pismo

山上城 (5)
山上城 (5) posted by (C)pismo

彦部家は第40代天武天皇の皇子高市親王で、臣籍降下し高階姓を賜り、高階家第14代惟章(1053~1107)は武士として下野国佐久山館(栃木県太田原市)に下向、この地を統治しました。そして、その娘と奥州征伐途上の源義家との間に生まれた惟頼(1089~1140)が高階姓を継ぎ、これによって源氏の血脈が高階氏につながることになります。惟頼は奥州検断職を命ぜられいわきに赴任。惟頼の後、数代この地で過ごし高階家第21代光朝(1216~77)の代、奥州斯波郡彦部郷に移りこの地を領有して土地名をもって彦部姓を名乗りました。
従四位以下雅楽頭11代彦部晴直は、足利家第10代義稙・第11代義澄・第12代義晴・第13代義輝の4代の将軍に仕えました。晴直の母は近衛関白政家の娘で、政家の室は足利家第8代義政の姫になります。
そして、戦国時代に関東下向した近衛前嗣親子が上杉謙信に追随し、桐生城入りしましたが、それに同道した彦部信勝は、近衛親子の帰京後も桐生市広沢に留まりました。
関ヶ原の合戦には屋敷から竹竿380本を、旗絹とともに献納、それによって桐生領54ヶ村は賦役御免になったといいます。
彦部家屋敷は平成4(1992)年、主屋・長屋門・冬住み・文庫倉穀倉の5棟と、宅地20,600平方メートルが重要文化財彦部家住宅として指定を受けました。
屋敷構えは、背後を戦時の砦となる手臼山、残る三方を壕や土塁で固め、中世武士館のたたずまいを残しています。南側は大手口(正面)に長屋門を構え、両脇を玉石で覆った土塁が築かれています。東側は高く積み上げた土居と、約4m下の水路がかつての壕の面影を残しています。東北隅には櫓台、この西脇に溺手口(裏門)を設けています。ここから西へ深い空壕が直線状に続き、西北隅には竹が岡八幡宮・稲荷神社・弁財天等を屋敷神として奉っています。また、庭園は手臼山の借景を自然に取り入れた竹林・果樹園、そして室町風池泉回遊式庭園へと続いております。
主屋は17世紀初頭の建築で、敷地のほぼ中央に建ち、南東に19世紀前半建築の冬住み(隠居屋)、後方には幕末の建築である文庫倉・穀倉が並んで配置されています。この他、編物業を営んでいた時の従業員寄宿舎(大正期)・医務所(昭和期)等々が時代の変遷を伝えています。
郭外には西部に手臼山砦跡、西北部に菩提所福厳寺、南部に一族屋敷跡、北部に譜代屋敷跡がみられます。
(現地説明板などより)
彦部家住宅
彦部家住宅 posted by (C)pismo
ブログ一覧 | ドライブ | 日記
Posted at 2016/09/21 00:01:07

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