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ピズモのブログ一覧

2017年02月26日 イイね!

京の冬の旅(金戒光明寺・西翁院・聖護院)

黒谷の金戒光明寺は、山号は紫雲山で浄土宗の大本山です。
承安5(1175)年、法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結んだのがこの寺の始まりであるとされています。
以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光(ごこう)厳(ごん)天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるに至りました。
また、正長元(1428)年、後小松天皇より、上人が浄土教の真実義を悟った由緒により「浄土真宗最初門」の勅願を賜りました。
御影堂脇壇には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置しています。また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊直實と平敦盛の供養塔二基が建てられています。
寺宝としては、山越(やまごえ)阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には、国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒、筝曲開祖八橋検校などの墓があります。
徳川家初代将軍家康は、二条城の外城として、徳川家の宗旨である浄土宗の黒谷金戒光明寺と知恩院を城のように造らせました。
幕末の京都守護職を務めた会津藩主・松平容保が本陣を構え、新選組誕生の地でもあります。
特別拝観中に大方丈では「謁見の間」「虎の間」「松の間」の拝観と回廊式庭園「紫雲の庭」、平成24(2012)年に作られた庭「ご縁の道」が散策できます。
境内には幕末不幸にも命を落とした会津藩士の墓もあります。
金戒光明寺 (1)
金戒光明寺 (1) posted by (C)pismo

金戒光明寺
金戒光明寺 posted by (C)pismo

金戒光明寺 (2)
金戒光明寺 (2) posted by (C)pismo

金戒光明寺 (3)
金戒光明寺 (3) posted by (C)pismo

金戒光明寺 (4)
金戒光明寺 (4) posted by (C)pismo

金戒光明寺 (5)
金戒光明寺 (5) posted by (C)pismo

金戒光明寺 (6)
金戒光明寺 (6) posted by (C)pismo

金戒光明寺 (7)
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金戒光明寺 (8)
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金戒光明寺 (9)
金戒光明寺 (9) posted by (C)pismo

金戒光明寺 (10)
金戒光明寺 (10) posted by (C)pismo

西翁院は大本山金戒光明寺の塔頭寺院です。
天正12(1584)年、藤村源兵衛西翁院宗徳居士によって、明蓮社光誉清玄上人を開祖として創立されたもので、本尊に春日作の阿弥陀如来をまつります。
有名な茶室「紫雲庵〔反古(ほろぐ)庵〕」は、宗徳居士の後嗣宗佐の養子となった久田氏出自の藤村庸軒によって貞享2(1665)〜貞享3(1666)年の頃に建てられたもので、遠望できる景勝の地にあり、はるか淀、山崎方面を臨みうるところから、「淀看席(澱看席)」とも云われます。
庸軒は諱を当直、字を微翁、庸軒または反古庵と号しました。薮内家に学び、古田織部の流れをくみ、小堀遠州や千家中興の元伯宗旦に従ってその薀奥(うんおう)を極め、庸軒流として一家をなしました。庸軒の茶室には書院式の傾向と侘形式とを併せ持ち、一方、織部の弟子、笹屋宗貞(泉州堺の茶人)の中襖の茶室を模したことから、茶室「宗貞囲(そうていがこい)の席」とも云われています。
庭園は、昭和期の造園家重森三玲も研究に訪れました。
一般公開はされていませんが、第51回「京の冬の旅」の特別公開で訪れました。
金戒光明寺西翁院
金戒光明寺西翁院 posted by (C)pismo

聖護院は役行者を開祖とする本山修験宗総本山、山伏の総本山です。
役行者の教えは山伏に伝承され、やがて天台宗に伝わりました。
白河上皇の護持僧であった三井寺の増誉大僧正は寛治4(1090)年白河上皇が熊野三山に参詣された「熊野御幸」の先達を務められた功績によって「聖護院」と称する寺を賜りました。「聖護」とは聖なる御身(上皇)をお護りする「聖体護持」より2文字をとったものです。
増誉大僧正は全国の修験者の統括を命じられ、最盛期には全国に2万余りの末寺が存在しました。
しかし、明治政府により修験道廃止令が出され、多くの山伏は還俗し、寺院は衰退しました。
後白河法皇の皇子、静恵法親王(じょうえほうしんのう)が宮門跡として聖護院に入寺された後、明治維新まで37代門主のうち25代は皇室より、12代は摂家から門主を迎えた皇室と縁の深いお寺です。
天明8(1788)年、京の都が大火に襲われ御所も焼けてしまった折り、時の光格天皇は親王時代に入寺されていた聖護院に避難し、その後3年間こちらを「仮皇居」とされました。また安政元(1854)年再び御所炎上の際にも、孝明天皇がこちらをお住まいとされたことから「聖護院旧仮皇居」として史跡に指定されています。
宸殿には上段の間があり、絢爛豪華な「花鳥図」「老松図」など約170面に及ぶ狩野派の障壁画が残ります。御所から移築した瀟洒な書院(重文)は、釘隠しや透かし彫りなどみどころが多いです。また、明治期までは春秋に御着替がなされた「弁才天尊」(旧才智院本尊)や、財運・金運の蛇神「宇賀神像」などがあります。
聖護院
聖護院 posted by (C)pismo

聖護院 (1)
聖護院 (1) posted by (C)pismo

聖護院 (2)
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聖護院 (3)
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聖護院 (4)
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聖護院 (5)
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聖護院 (6)
聖護院 (6) posted by (C)pismo

聖護院 (7)
聖護院 (7) posted by (C)pismo
Posted at 2017/03/28 22:59:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年02月18日 イイね!

日生・瀬戸内

加子浦歴史文化館は、日生の歴史や産業をテーマ毎に展示した資料館と、備前市出身の文芸作家を紹介した文芸館からなります。
日生の資産家「筑前屋」(屋号)の家を移築した資料館は「海と人を活かす町」をメインテーマに、弁財船や打瀬船の模型・船具などを展示しています。
文芸館では、正宗白鳥・柴田錬三郎・藤原審爾・里村欣三ら著名作家や、児童文学作家・牧野大誓、日本画家・久保田耕民の作品を展示、現在作曲家として活躍中の岡千秋さんのコーナーもあります。
「加子浦」とは、公用船や海路を行く参勤交代の諸大名の通船へ、水や薪を供給したり、加子役(船をこぐ者)を勤める、労役を課せられた浦のことです。日生は江戸時代には加子浦に指定され、その代償として近隣の漁業権を得ていました。 
(現地説明板などより)
加子浦歴史文化館 (2)
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加子浦歴史文化館 (3)
加子浦歴史文化館 (3) posted by (C)pismo

加子浦歴史文化館 (4)
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加子浦歴史文化館 (5)
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加子浦歴史文化館 (6)
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加子浦歴史文化館 (7)
加子浦歴史文化館 (7) posted by (C)pismo

加子浦歴史文化館 (8)
加子浦歴史文化館 (8) posted by (C)pismo

みなとの見える丘公園は、楯越山頂上付近に展望広場・遊歩道・駐車広場を整備した公園。展望広場からは日生港をはじめ日生エリア一帯が一望できます。
公園内にある「幸福の鐘」は、幅1.8m、高さ3.4mのアーチ型のステンレス枠に、直径30cmの実際に船で使った1927年製の「号鐘」が取り付けられています。霧が晴れ、日生から世界へ幸福の鐘が響くよう願いを込めているそうです。
平成27(2015)年4月16日に開通した備前市日生町と鹿久居島を結ぶ全長765mの備前♡日生大橋もよく見えます。
みなとの見える丘公園 (2)
みなとの見える丘公園 (2) posted by (C)pismo

みなとの見える丘公園 (3)
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みなとの見える丘公園 (4)
みなとの見える丘公園 (4) posted by (C)pismo

夢二郷土美術館分館は、夢二が16歳までを過ごした生家と、夢二が東京に建てたアトリエ「少年山荘」(復元)を公開しています。
竹久夢二は明治17(1884)年9月16日、この家で生まれました。家業は造り酒屋でしたが夢二が生まれた頃は酒の取次販売の傍ら農業もしていました。
夢二は8歳で本庄村明徳小学校に入学し12才で邑久高等小学校へ、16才で神戸中学校に入学しました。
しかし、事情があって僅か8ヶ月で同校を退学し帰郷、翌明治33年2月に家族と共に福岡県遠賀郡八幡村枝光に転居しました。
恵まれた風土のこの生家で夢二は16才まで多感な少年時代を送ったのですが、ふるさとそしてこの生家こそ夢二芸術の原点と言いましょう。
夢二一家が、九州へ転居した後は人手に渡っていましたが修復整備の後、昭和45(1970)年夢二郷土美術館として一般に公開しました。現代では珍しくなった茅葺き屋根の伝統的な日本家屋は、約250年前に建てられました。夢二の子ども部屋や、建物や庭など外観も夢二の生前そのままに保存し、公開しています。夢二生家内でも、夢二の掛け軸や屏風、スケッチなどの作品の展示を行っています。 夢二生家入口には有島生馬氏が記した「竹久夢二ここに生る」の碑があります。
少年山荘は、竹久夢二が自らデザインを手がけた洋風建築を、夢二生誕95年を記念し、昭和54(1979)年夢二の次男、不二彦氏の協力で復元したものです。
大正13(1924)年、夢二は当時の東京府下松沢村松原(現在の世田谷区松原)にアトリエ付き住居を建てました。少年山荘の名前は、中国の「酔眠」という漢詩の中の一節から、少年の日のように春の長い一日を過ごしたい、との願いを込め夢二が名付けました。少年山荘は昭和9(1934)年9月、夢二が亡くなった後、荒廃し取り壊されていましたが次男不二彦氏らの考証、記憶をたどってここに復元したのがこの建物です。「少年山荘」の名は、「山静かにして太古に似たり、日の長きこと少年の如し」という中国宋の詩人唐庚(とうこう)の「酔眠」の詩からとって夢二が名づけたもので、少年の日の如く長い一日をこのアトリエで暮らしたいという願望から名づけられたものと言われています。また、「山帰来」というのは、この付近の山野に自生している植物ですが、最愛の人、彦乃を「山」と呼んでいたことから亡き人の再び帰って来ることを希って名づけたとも思われます。建物の周りにはサンキライやクヌギなど、少年山荘の周りに夢二が植えた木々も育っています。雑木林の中の「少年山荘」での夢二の暮らしの風情を感じながら、建物の中では、夢二生前の写真などを展示しています。
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (2)
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (2) posted by (C)pismo

夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (3)
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (3) posted by (C)pismo

夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (4)
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (4) posted by (C)pismo

夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (5)
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (5) posted by (C)pismo

夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (6)
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (6) posted by (C)pismo

夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (7)
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (7) posted by (C)pismo

夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (8)
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (8) posted by (C)pismo

夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (9)
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (9) posted by (C)pismo

夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (10)
夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘) (10) posted by (C)pismo

天保窯は備前焼の登り窯跡です。
江戸後期まで南、北、西の三大窯で多量生産していた備前焼も、藩の保護の減少や燃料の関係で大窯の融通窯として規模を縮小した三基の小窯が造られ古備前の壷、茶器、花器、角徳利など小形の品が生産されました。
天保窯は、そのうちの一つで、天保3(1832)年頃築窯され、初め五室であったものが、補修、改修されながら、昭和15(1940)年頃まで焼き継がれました。
備前焼の古窯で、原姿をとどめているのは、この窯だけです。
構造は、それまでの穴窯形式のものより燃焼効率がよく、大窯の1/4の十数日で焼きあげられ、経費の節減、品物の回転を早めることのできる備前焼としては画期的なものでした。
昭和53(1978)年に、岡山県陶友会が中心となり、備前市観光協会の協力によって保護屋根を設置したが、乾燥し崩壊が進むので、昭和60(1985)年に再び陶友会が中心となり、 岡山県郷土文化財団の助成を受け、窯体を樹脂加工で強化保存工事を行いました。
(現地説明板などより)
天保窯 (3)
天保窯 (3) posted by (C)pismo

天保窯 (4)
天保窯 (4) posted by (C)pismo
Posted at 2017/03/23 21:58:28 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年02月11日 イイね!

直虎・大井川紀行(2日目・浜松、島田、大井川鉄道、御前埼灯台・刈谷ハイウェイオアシス)

浜松城はかつては、今川の臣飯尾氏の居城で「曳馬城」と呼ばれていました。
永禄11(1568)年徳川家康が攻略し、自らの居城としました。
元亀元(1570)年に家康は本拠地を岡崎城から移し、浜松城と城の名前を改めました。
元亀3(1573)年、武田信玄が浜松城を素通りし、西上しようとしたところ、徳川家康は浜松城から打って出て、三方ヶ原で激突しました。しかし、徳川軍は武田軍に敗北を喫してしまいます。
その後、浜松城は武田軍へ備える必要もあり、拡張・改修を加えました。しかし、武田家滅亡後、駿河、甲斐、信濃へ領土を広げた家康は、天正14(1586)年、浜松城から駿府城に本拠を移しました。
天正18(1590)年の徳川家康の関東移封後は、堀尾吉晴、堀尾忠氏が在城しました。
江戸時代は譜代大名達の居城となり、水野忠邦他幕府閣僚への登竜門となった城で「出世城」と呼ばれました。
浜松城
浜松城 posted by (C)pismo

浜松城 (1)
浜松城 (1) posted by (C)pismo


明治2(1869)年、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣たちが大井川右岸、つまり島田宿の対岸にある「牧之原」を開拓してお茶を作り始めました。
苦労の連続でしたが、順調に茶の栽培が営まれる様になりました。
生活が安定するに従い対岸の左岸の「島田宿」の方へ生活品や食料品を買いに出掛けるようになりました。
また「島田宿」方面方面からも山林、原野を開拓するものが往来するようになりましたが、大井川を小舟で渡る事は大変危険な事でした。
そこで島田宿の開墾人総代達は時の県令(県知事)に陳情し、許可されて明治12(1879)年1月13日、「蓬莱橋」が完成しました。
現在の「蓬莱橋」は、全長897.4m、通行幅2.4mで、大井川の増水のたびに木橋の蓬莱橋は被害を受けてきたこともあり、昭和40(1965)年4月にコンクリートの橋脚に変わり、現在の姿となりました。平成9(1997)年12月30日、「世界一長い木造歩道橋」としてイギリスの「ギネス社」に認定されました。
橋の名前は、静岡藩主となった徳川亀之助(後の家達9が明治3(1870)年4月に牧之原を訪れた際、開拓する幕臣たちに「ここは蓬莱、宝の山だ。」と激励した事が謂れだと伝えられているそうです。
逢来橋 (2)
逢来橋 (2) posted by (C)pismo

逢来橋 (3)
逢来橋 (3) posted by (C)pismo

逢来橋 (4)
逢来橋 (4) posted by (C)pismo

逢来橋 (5)
逢来橋 (5) posted by (C)pismo

逢来橋 (6)
逢来橋 (6) posted by (C)pismo

新金谷駅はSLで有名な大井川鉄道の駅です。
新金谷駅前には、SL急行券の販売窓口やお土産物の売店、喫茶スペースやSLミュージアムが入った「プラザロコ」があります。
昭和30年代から40年代の駅舎を再現したロコミュージアムは、SLいずも、1275といったSLや井川線の客車Cスロフ1形の展示のほか、昔のポスターやレトロな電話ボックス、世界で一つしか残っていない広告入り鏡などが展示してあります。
プラザロコ (2)
プラザロコ (2) posted by (C)pismo

プラザロコ (3)
プラザロコ (3) posted by (C)pismo

プラザロコ (4)
プラザロコ (4) posted by (C)pismo

新金谷駅
新金谷駅 posted by (C)pismo

新金谷駅 (1)
新金谷駅 (1) posted by (C)pismo

新金谷駅 (2)
新金谷駅 (2) posted by (C)pismo

新金谷駅 (3)
新金谷駅 (3) posted by (C)pismo

新金谷駅 (4)
新金谷駅 (4) posted by (C)pismo

新金谷駅 (5)
新金谷駅 (5) posted by (C)pismo


千頭駅は、大井川鉄道の駅です。
大井川本線の終点、井川線の始発駅となっており、寸又峡温泉の玄関口になっています。
大井川鉄道は現在でもSLが定期的に運行されている数少ない路線です。C11型やC12型など今でも現役で活躍している昔の蒸気機関車の姿を見ることが出来ます。「アプト式」の井川線の列車も見ることができる、鉄道ファンのみならず楽しめる駅です。
千頭駅
千頭駅 posted by (C)pismo

千頭駅 (1)
千頭駅 (1) posted by (C)pismo

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1O0A1515 posted by (C)pismo

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1O0A1509 posted by (C)pismo

千頭駅 (2)
千頭駅 (2) posted by (C)pismo

千頭駅 (3)
千頭駅 (3) posted by (C)pismo

千頭駅 (4)
千頭駅 (4) posted by (C)pismo

新金谷駅 (6)
新金谷駅 (6) posted by (C)pismo

新金谷駅 (7)
新金谷駅 (7) posted by (C)pismo


金谷坂の石畳は、旧東海道金谷宿と日坂宿の石畳です。
江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であっっため大変難儀をしていました。このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。
この故事に因んで、菊川坂と金谷坂の石畳を平成の今、再び蘇らせました。
金谷坂は、町民一人一石運動により集められた山石7万個をもって、平成3(1991)年11月24日子供達からお年寄りまで500名余の町民の力で道普請に着手、翌年3月に400メートル余の石畳が出来上がりました。
旧東海道・金谷坂の石畳
旧東海道・金谷坂の石畳 posted by (C)pismo


遠州灘は古来より海岸線が単調でまた気候条件が悪く海の難所として知られていました。
寛永12(1635)年に徳川幕府が船の道しるべとして、この地に灯台の元祖ともいえるあんどん型の見尾火(みおび)灯明堂を建てたのが御前崎灯台の始めとされています。
現在の灯台は、明治5(1872)年5月、英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの指導のもと現在の西洋式灯台の建設工事を開始し、明治7年(1874)年5月1日に点灯を開始しました。
御前崎灯台 (1)
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御前崎灯台 (2)
御前崎灯台 (2) posted by (C)pismo

御前崎灯台 (3)
御前崎灯台 (3) posted by (C)pismo

御前崎灯台
御前崎灯台 posted by (C)pismo

御前崎灯台 (4)
御前崎灯台 (4) posted by (C)pismo

御前崎灯台 (5)
御前崎灯台 (5) posted by (C)pismo

刈谷ハイウェイオアシス
刈谷ハイウェイオアシス (1)
刈谷ハイウェイオアシス (1) posted by (C)pismo

刈谷ハイウェイオアシス
刈谷ハイウェイオアシス posted by (C)pismo

刈谷ハイウェイオアシス (2)
刈谷ハイウェイオアシス (2) posted by (C)pismo

刈谷ハイウェイオアシス (3)
刈谷ハイウェイオアシス (3) posted by (C)pismo

刈谷ハイウェイオアシス (4)
刈谷ハイウェイオアシス (4) posted by (C)pismo

刈谷ハイウェイオアシス (5)
刈谷ハイウェイオアシス (5) posted by (C)pismo

刈谷ハイウェイオアシス (6)
刈谷ハイウェイオアシス (6) posted by (C)pismo
Posted at 2017/03/22 22:46:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年02月10日 イイね!

直虎・大井川紀行(1日目その1・井伊谷後編)

方広寺は山号は深奥山、臨済宗方広寺派の大本山です。別称、奥山半僧坊といいます。
建徳2(1371)年、この地の豪族奥山六郎次郎朝藤の招きにより、無文元選禅師を開山として奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、創建しました。
元選禅師は、この地が、かつて訪れたことがある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、この寺を方広寺と名付けられました。
幾度となく火災にあって伽藍は消失しましたが、明治14(1881)年の大火の後、復興を遂げ、現在、大本堂、半僧坊真殿、開山堂、三重の塔など多数の建物があります。なお、この寺に祀られる半僧坊権現は開山の無文が中国の元から帰国する際、悪天候の中、無文の乗った船を守護したとされる神です。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第6回「初恋の別れ道」の直虎紀行で紹介されました。
方広寺
方広寺 posted by (C)pismo

方広寺 (1)
方広寺 (1) posted by (C)pismo

方広寺 (2)
方広寺 (2) posted by (C)pismo

方広寺 (3)
方広寺 (3) posted by (C)pismo

方広寺 (4)
方広寺 (4) posted by (C)pismo

方広寺 (5)
方広寺 (5) posted by (C)pismo

方広寺 (6)
方広寺 (6) posted by (C)pismo

方広寺 (7)
方広寺 (7) posted by (C)pismo

方広寺 (8)
方広寺 (8) posted by (C)pismo

方広寺 (9)
方広寺 (9) posted by (C)pismo

方広寺 (10)
方広寺 (10) posted by (C)pismo

方広寺 (11)
方広寺 (11) posted by (C)pismo

方広寺 (12)
方広寺 (12) posted by (C)pismo

方広寺 (13)
方広寺 (13) posted by (C)pismo

方広寺 (14)
方広寺 (14) posted by (C)pismo

井伊家の分家である奥山氏の居館跡がこの地に想定されています。
奥山氏は分家とはいうものの、嫡流家に匹敵する力を持っていました。南北朝時代の当主奥山六郎次郎朝藤は、後醍醐天皇の皇子、無文元選を招き、奥山方広寺を開いています。
また、奥山氏一族は、永禄3(1560)年桶狭間の戦いで今川義元に従い、多くの戦死者を出したといわれています。井伊直政の実母(奥山因幡守朝利の娘)も奧山氏の出身です。
(現地説明板などより)
奥山氏居館 (1)
奥山氏居館 (1) posted by (C)pismo

奥山氏居館
奥山氏居館 posted by (C)pismo

渭伊神社は創立の年代は不明ですが、三代実録に「貞観八年十二月二十六日授遠江 国正六位上蟾渭神」とあります。
かつては、今の龍潭寺境内にありましたが、南北朝時代に今の地に移転したといわれています。
渭伊二十七郷の産土神で、旧地頭近藤氏にも崇敬されました。また井伊氏の発祥とともに氏神になり神仏混交方式となり、渭伊八幡宮と改称されました。
明治元(1868)年の神仏分離令により、渭伊神社にもどりました。
(現地説明板などより)
渭伊神社
渭伊神社 posted by (C)pismo

天白磐座遺跡(てんぱくいわくらいせき)は、渭伊神社の境内にあります。
「延喜式」にその名を載せる渭伊神社本殿の背後にある薬師山の頂上に位置し、約40m四方にわたって群在する巨石群を神の依代(磐座)として我国屈指の規模をもつ古代祭祀遺跡です。
平成元(1997)年夏に実施された発掘調査により4世紀後葉(古墳時代前期)から平安時代に至る長期間、連綿と続いた祭祀場であったことが明らかとなりました。
とくに高さ7mにおよぶ最大の磐座の西壁直下は、古墳時代の祭祀場として限定され、多量の手こね土器や鉄鉾や滑石製勾玉などの祭祀に用いられた遺物が出土しました。
また、12世紀末には末法思想による埋経のための経塚が巨岩群の中央に営まれ、渥美製の経筒外容器が和鏡と共に出土しています。
この遺跡は渭伊神社の創祀が古墳時代前期までさかのぼることを語るとともに、古代人の精神や宗教観を解明するうえに重要な文化財です。
平成4(1992)年3月17日、静岡県の指定文化財になっています。
(現地説明板などより)
大河ドラマ「おんな城主 直虎」の中でおとわ(直虎)たちが駆け回って遊んでいた場所がこの天白磐座遺跡です。
天白磐座遺跡 (1)
天白磐座遺跡 (1) posted by (C)pismo

天白磐座遺跡
天白磐座遺跡 posted by (C)pismo

天白磐座遺跡 (2)
天白磐座遺跡 (2) posted by (C)pismo

天白磐座遺跡 (3)
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妙雲寺は山号は浩徳山、臨済宗妙心寺派に属する寺院で、もともとは自耕庵とよばれていました。
戦国時代、井伊氏の苦難を支えた次郎法師(井伊直虎)の菩提寺であり寺号は次郎法師の法名、妙雲院殿にちなみます。次郎法師は井伊氏当主であった井伊直盛の娘で、幼い頃の井伊直政(虎松)の後見人となりました。
没年は天正10(1582)年です。
開山は龍潭寺二世の南渓瑞聞和尚です。平成28(2016)年、直虎と、南渓和尚の位牌が見つかりました。
土、日と祝日限定で一般公開しています。
現在、妙雲寺がある場所とその周辺には北神宮寺遺跡という井伊谷でも最大級の遺跡の所在地です。
土地区画整理事業に先立ち、平成15(2003)年から平成19(2007)年にかけて発掘調査を行い、縄文時代から江戸時代にかけて、人々がこの地に住み続けていたことが明らかになりました。
戦国時代についても、大型の建物が確認され、鍋がまとまって出土した一画があり、井伊氏を支えていた有力者の住まいがあったと考えられます。
(現地説明板などより)
妙雲寺
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浜松市地域遺産センターは、文化財をはじめとする地域に残された遺産の調査や保護、活用事業を行う施設です。旧引佐協働センター庁舎の一部を改修し平成29(2017)年1月15日に井伊谷城の麓にオープンしました。
戦国時代の井伊谷周辺の人々の暮らしがわかる遺跡出土品などを多数展示しています。
プロジェクションマッピングを用いた地形模型や、実際に手に取れる「青葉の笛」のレプリカなどが体感できる展示のほか、図書やグッズの販売コーナーなどもあります。
(現地説明板などより)
浜松市地域遺産センター
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浜松市地域遺産センター (1)
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井伊谷城(井伊城)はこの城山の南麗にあり、本丸、二の丸、三の丸に分かれ井伊家の居城でした。
井伊氏は、平安時代の在庁官人からはじまり、中世には国人領主として、浜松市北区一帯(引佐、細江、都田)などを治めました。
南北朝の動乱期(1336〜1392)には、この地に宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を迎え、
南朝方の活動拠点としました。 
延元元(1337)年遠江介井伊道政が後醍醐天皇の皇子宗良親王をお迎えしてより、元中2(1385)年8月10日宗良親王がこの地で甍去されるまで約50年、親王は京都と鎌倉の中間であるこの井伊城を本拠として、駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野の国々を転戦されました。
平時にこの城山の御所の丸に居られ
 夕暮れは湊もそことしらすげの
 入海かけてかすむ松原

 はるばると朝みつしおの湊船
 こぎ出るかたは猶かすみつつ

の御歌が残されています。
戦国時代には当地の支配権を巡って、今川、武田、徳川の各勢力が争い、当主である井伊氏は大きく翻弄されました。
とくに、永禄5(1562)年に井伊直親が謀殺された後には適齢の男子がなく、井伊氏は存亡の危機を迎えました。
この時に、城主としてふるまったのが、女性領主、井伊直虎です。
天正3(1576)年直虎は直親の子である虎松(のちの井伊直政)を徳川家康に引き合わせ、
井伊氏再興の道を開きました。

城山の一段高い所が御所丸跡で井の宮石陵があり、宮入御表門跡、搦手門跡等があります。また東山麓には宗良親王を祭る二宮神社、親王の御念持仏を祭る足切観音堂があります。
(説明看板などより)
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第1回「井伊谷(いいのや)の少女」の直虎紀行で紹介されました。
城山には多目的研修センターの駐車場から登っていきます。城山公園として整備されていて、登城はしやすいです。
井伊谷城
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井伊谷城 (1)
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井伊谷城 (2)
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井伊谷城 (3)
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二宮神社は多道間守と宗良親王との御二柱を祭神とする神社です。
かつては三宅神社と称し、天日槍尊の4世で、井伊郷の荘司三宅氏の始祖多道間守の尊霊を奉祀した延喜式の式内社に列せられた霊社です。
第11代垂仁天皇の勅諚に応え常世の国から我国へ橘を将来したのが多道間守で井伊家は式内社渭伊神社を象徴する井桁と三宅神社の橘とを家紋と致しました。
元中2(1385)年8月10日、後醍醐天皇の皇子宗良親王が井伊城に薨ぜられると、9月南帝の勅使中院為久郷、中院少将定平朝臣下向、御連枝の方廣寺開山、圓明大師を御導師として葬送の御儀を行い、当三宅神社に尊霊を合祀し、二柱の神霊を祭祀するため二宮神社と改称しました。
境内には天王社があります。
井伊直虎を追い立てて井伊谷城を専横した小野政次の天下はわずか34日のことでした。
遠江侵攻を開始した徳川家康によって井伊谷城は攻め込まれ、山中に逃亡し捕らえられた小野政次とその幼い子息2人は刑場、蟹淵において処刑されました。
怨霊を鎮めるため二宮神社の境内に小野政次を祭神とした但馬社が建てられました。永禄11(1568)年のことでした。現在は天王社に合祀されています。
(現地説明板などより)
(写真は天王社)
二宮神社
二宮神社 posted by (C)pismo

足切観音のある場所は、井伊直虎の叔父、直満らの屋敷跡と伝えられています。
足切観音は宗良親王の御念持仏「足切観世音」を祀るお堂です。
「慈は心も遠江、井伊谷の里の円通寺、本尊足切観音・・・」と念仏和讃で有名なこの寺の菩薩は弘法大師の作です。
延元4(1339)年、井伊道政と共に南朝方として南北両軍攻防を戦っていた宗良親王は敵の流れ矢を受け落馬しました。馳せ付けた従者が介抱したところ不思議なことに傷は消え跡もありませんでした。
親王はその夜、観音様の夢を見たのでこれは、日頃信心する観世音の効力によるものとして、翌朝起きると早速参拝し、厨子の扉を開けて見ると観音様の片足は鮮血に染まり痛々しいお姿でしたので、これは自分の身代わりとなって立っておられると、涙を流し終生の守り本尊として祈願したと伝えられています。
この御持仏を護持するために、草創されたのが二宮円通寺です。
宗良親王の去られた後、この二宮御所跡には城主井伊直宗の弟直満らの館が設けられていましたが、直満の不慮の死後は堂を残し荒廃し、武田軍の侵攻による戦火で本尊を残し焼失してしまいました。
龍潭寺十代独兒黙念(どくじもくねん)和尚は、慶安2(1649)年観音堂を再建し中興の祖とされております。
円通寺は昭和31(1956)年、住職不在の為、隣の明円寺と合併し晋光寺となりました。毎年10月18日を開帳縁日としています。
(現地説明板などより)
足切観音堂
足切観音堂 posted by (C)pismo

井殿の塚は、井伊直政の祖父、井伊直満とその弟の直義を祀った塚です。
天文13(1544)年12月井伊直平の嫡子直宗の弟直満並びに直義兄弟は、戦国大名今川氏と武田氏両軍の対立に際し、今川義元と内通していた家老の小野和泉守政直の讒言により、謀反の疑いをかけられ、駿府で殺害されました。
里人はこれを憐れみ、末の弟井伊直元に乞い、供養のため井伊氏居館の一角に両者の塚を築き遺骨を納めて輪塔を建て、塚の上に一本の松を植えたと言い伝えられています。
以来これを濫塔の松、或いは井殿の塚と称し香華が絶えなかったと言うことです。
この里に生まれ、箕輪に封ぜられ、転封して彦根の太守となった井伊直政は、直親の子で直満の孫に当たります。
嘉永5(1582)年6月、大老井伊掃部直弼は当地に来訪し、この墓所を礼拝して石垣等を寄進したと伝えられています。
現在、塚の上には砂岩製の宝篋印塔が残っています。塔身など江戸時代以降の補修がみられますが、本体は16世紀の特徴がうかがえます。また塚の上にはタブノキの大樹があります。
(現地説明板などより)
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第2回「崖っぷちの姫」の直虎紀行で紹介されました。
井殿の塚 (1)
井殿の塚 (1) posted by (C)pismo

井殿の塚
井殿の塚 posted by (C)pismo

井伊氏居館です。江戸幕府の柱石の大名中、数少ない大老職の家柄と仰がれた彦根藩主井伊氏発祥の地は、引佐の井伊郷で、この場所が屋形の跡です。
井伊氏の元祖共保は、藤原鎌足5世の裔、閑院左大臣冬嗣の男良門の流れを掬む藤原備中守共資を父とし、共資が一條天皇の正暦年中、遠江に来住した時、井伊郷の荘司三宅篤茂の女を娉(つまど)い、寛弘7(1010)年正月篤茂の館に於いて生誕したといわれております。
以来日本八介の一、遠江の井伊ノ介と謳われ、南北朝、東海に於ける南朝の拠点として、後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎え、ここ城山に御所を構え、東北三嶽山頂に山城を営み、激烈な戦火を繰り広げました。
以後戦運南朝に利あらず、戦国の世には今川氏の為に悲運を繰返し、直政公出生の翌年、永禄5(1562)年には幼主直政公もここを立退き、遂に主無き館となりました。
嘉永5(1582)年6月、彦根藩主、時の大老井伊直弼公は親しく此の館跡を訪れ、境内にある守護社井伊大明神に詣で旁附近の史跡を巡覧した事が伝えられています。
(現地説明板などより)
引佐町4区公民館の前に説明板が立っています。宅地化で、遺構などは残っていないようです。
井伊氏居館
井伊氏居館 posted by (C)pismo

井伊氏発祥の地とされる伝井伊共保出生井〔共保公出生の井戸〕です。寛弘7(1010)年、井伊氏初代の井伊共保が生まれたと伝わる井戸です。共保は、遠江国司として志津城を居城とした藤原共資の養子となり、井伊谷に移り姓を「井伊」としました。江戸時代に建てられた笠塔姿形の石碑には、井戸の傍らに橘の木が生えていたことから、井伊氏は「橘」を家紋とし。「井」を旗幕の紋としたことが記されています。
石碑の造立をはじめ、井戸の整備は彦根藩主が繰り返し行っており、井伊氏にまつわる聖地として、歴代当主が篤く崇拝していたことが分かります。
(現地説明板などより)
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第1回「井伊谷(いいのや)の少女」の直虎紀行で紹介されました。
伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸)
伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) posted by (C)pismo

伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (1)
伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (1) posted by (C)pismo

伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (2)
伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (2) posted by (C)pismo

伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (3)
伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (3) posted by (C)pismo

龍潭寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は萬松山です。井伊氏、宗良親王の菩提寺で小堀遠州作の名園が有名な寺院です。
浜松市の引佐町井伊谷は、彦根藩主井伊氏の発祥の地です
天平5(733)年に行基菩薩によって開創された八幡山地蔵寺に始まると伝えられています。
寺の南には、井伊氏祖共保公出生の伝説を残す八幡宮御手洗の井戸があります。
この寺域は元々井伊八幡宮の境内でしたが、井伊氏が龍泰寺を造営しました。
室町時代末期、井伊氏20代井伊直平が帰依された黙宗瑞淵和尚を開山として迎えてから禅宗に改められ、臨済宗妙心寺派の寺院となりました。
井伊城の南の砦としての役割を果たしていたそうで、参道や石垣などに城郭造りの跡が残されています。
朱印地だった境内地2万4千坪は、明治政府が没収、その後1万余坪が返還されました。
龍潭寺の森は、日本の森百選に選ばれています。この森に包まれ点在する龍潭寺伽藍は江戸時代建立の貴重な文化財です。
龍潭寺
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龍潭寺 (1)
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龍潭寺 (2)
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龍潭寺 (3)
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龍潭寺 (4)
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龍潭寺 (5)
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龍潭寺 (6)
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龍潭寺 (7)
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井伊谷宮いいのやぐう)は、南朝側の皇族・武将などを主祭神とする建武中興十五社の一つです。
御祭神宗良親王は、後醍醐天皇第四皇子で、一品中務卿征東将軍として井伊谷を本拠とし50余年の間御活躍になられま元中2(1385)年8月10日73歳で薨去されました。
井伊谷宮は、井伊家の子孫である彦根藩主井伊直憲が命を受けて明治5(1872)年2月に創建されました。
本殿の背後には宗良親王の御墓もあります。
また、摂社の井伊社は、宗良親王とその皇子尹良親王を輔佐し、忠勤を励んだ井伊道政、井伊高顕の二柱が祀られています。
井伊谷宮 (1)
井伊谷宮 (1) posted by (C)pismo

井伊谷宮
井伊谷宮 posted by (C)pismo

三岳城は三岳山の山頂にあり、井伊氏の築いた諸城の内の本城です。
当時、三岳神社は山頂部にも施設があり、山岳一帯は修験の場となっていました。この時代の城跡は、そうした山岳寺院(神社)を利用したものです。
南北朝時代、延元3(1338)年秋、後醍醐天皇の皇子宗良親王が再び伊勢より井伊谷に入られ、この城を南朝勢力の遠江における軍事上の拠点とされました。
足利尊氏勢の高師康・高師冬・高師兼・仁木義長の大軍に攻められ、ついに興国元(1340)年正月落城し同年8月24日夜、詰城大平城も追い落とされて南朝の拠点は失われました。
宗良親王は駿河の安倍城に移られたものと推定されています。その後戦国期元遠江守護であった美濃の斯波義達が井伊谷に入り、曳馬城の大河内貞綱と井伊氏がこれにくみしました。今川氏親は細江町の刑部城・堀川城に伊達忠宗を入れて前進基地として三岳城を攻めました。永正10(1513)年に掛川城主朝比奈泰以を主力とする今川勢の総攻撃によって落城しました。
さらに、武田信玄と徳川家康がお互いの戦略拠点とし、本曲輪の多くの遺構は武田方、東曲輪は徳川方が奪還した後に防御のために造営したと見られています。
この城は山頂から尾根に沿って細長く築かれ、一の城,二の城。三の城と分かれ、深い谷や急な斜面など峻険な自然地形を巧みに利用し、中世城郭の典型的な形態を有しています。
一の城は、山頂にあって一番大きく、大型の土塁を幾重にも巡らせ、谷下・兎荷方面からの攻撃を防ぎます。
二の城は、一の城より東の高地一帯にあって、川名・滝沢方面よりの敵を防ぎます。
三の城は現在の三岳神社の境内にあり本丸に迫る敵を阻止し、山城で一番重要な水を確保する役割を果たしました。
宗良親王の庵室もこの地にあったと伝えられています。籠城中に後醍醐天皇の崩御にあわれ、親王は城の紅葉を折ってこれに「おもふにも なほ色浅き紅葉かな、そなたの山はいかが時雨るる」の一首を添えて吉野に届けられました。
昭和19(1944)年3月7日、国の史跡に指定されています。山頂からの眺めは素晴らしく、浜松市街地、浜名湖、太平洋までも一望できます。
(現地説明板などより)
三岳城 (1)
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三岳城 (2)
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三岳城 (3)
三岳城 (3) posted by (C)pismo

三岳城 (4)
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三岳城
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Posted at 2017/03/18 23:56:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年02月10日 イイね!

直虎・大井川紀行(1日目その1・井伊谷前編)

この日から1泊2日で、静岡県へ。目的は直虎と大井川鉄道です。
亀之丞(後の井伊直親)が青葉の笛を寄進した寺野六所神社です。今川義元に父、井伊直満を殺されたため、その命も狙われた亀之丞(後の井伊直親)は、9歳のときから信州の松源寺に逃れていました。弘治元(1555)年、ようやく井伊谷に帰還する道筋で寺野に逗留し「青葉の笛」を寄進しました。
「青葉の笛」は、現在、神社の宮司が保管し、4年に1度、閏年の4月の第一日曜日の例祭日に一般公開しています。引佐町井伊谷にある地域遺産センターでは、「青葉の笛」の複製品を展示しています。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第5回「亀之丞帰る」の直虎紀行で紹介されました。
寺野六所神社 (1)
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寺野六所神社
寺野六所神社 posted by (C)pismo

直笛山宝蔵寺は、弘治元(1555)年、信州の松源寺に逃れていた亀之丞(後の井伊直親)が、井伊谷に帰還する道筋で寺野に逗留し「青葉の笛」を寄進したと伝わります。
山号の直笛山(ちょくてきざん)とは、直親公の「直」と笛にちなんでいると言われます。
毎年1月3日には、観音堂(通称三日堂)にて、五穀豊穣などを祈る国指定重要無形民族文化財「寺野のひよんどり」が執り行われます。祭りの起源は、元亀元(1570)年頃とされており、寺野の祖である伊藤刑部祐雄が三河から戦乱をなげきこの地の山に入り開墾を行い峰地より開いた記録が残っています。
入植して以来、400年以上の歴史を有すると考えられています。また、お堂は慶長15(1610)年に創立されました。現在のお堂は享保13(1728)年に建てられたものです。この時、寺野の戸数は70余戸と棟札に書かれています。
寺野のひよんどりの舞は、神楽、申楽、田楽などによって構成され、その芸態や詞章には、中世芸能の特徴が色濃く残されています。舞は当初二十番までありましたが、田楽系のろん舞が絶え、翁・松風はわずかに演じられています。現在では、厳粛な剣の舞、笑いの女郎の舞、音典と構成がみごとな獅子の舞など十三番のみ演じられており、中でも最も勇壮で豪華な鬼の舞には、祭礼全体を締めて、豪快にして厳粛な空間を醸し出します。鬼の掛け声が入る場面は、中世に迷い込んだ感覚になります。
(現地説明板などより)
寺野宝蔵寺観音堂
寺野宝蔵寺観音堂 posted by (C)pismo

寺野宝蔵寺観音堂 (1)
寺野宝蔵寺観音堂 (1) posted by (C)pismo

東光院は、臨済宗方廣寺派の寺院です。
井伊直虎の許嫁であった亀之丞(後の井伊直親)が一時、身を寄せた寺院です。
天文13(1544)年、亀之丞の父である井伊直満とその弟の井伊直義が
謀反の疑いをかけられ、今川義元によって駿府で殺害されました。
事件の後、直満の息子である亀之丞の命も狙われたため、
家臣の今村藤七郎に背負われて領内の黒田山中からこの寺に逃げ込んで
かくまわれますが、追っ手がさらに迫ったため、信州の松源寺に移りました。
天文14(1545)年正月の3日の夜、亀之丞が松源寺へ向けて出発した直後、渋川大平にて右近次郎に弓矢にて追撃をうけるも、危うくその場を脱出することができました。
亀之丞が井伊谷に戻るのは事件の11年後、弘治元(1555)年のことです。
境内には井伊直親の墓もあります。
(現地説明板などより)
東光院
東光院 posted by (C)pismo

東光院 (1)
東光院 (1) posted by (C)pismo

井伊家の一族・渋川井伊家墓所です。
井伊家は北区引佐町井伊谷の出身です。鎌倉時代より戦国時代にかけて渋川は井伊家の重要な拠点として栄えたようです。渋川村には、山里に居城を構えた井伊庶家、渋川井伊氏がありました。井伊谷井伊家八代目泰直の子の直助が上野左衛門次郎を名乗って分家し、直助の子の直貞が渋川太郎二郎を名乗り、この地に移り住んだことがはじまりといわれています。
一方、徳川家康の家臣として出世し彦根藩主を務め、幕末には大老を輩出する名家となった直虎らの筋とは、根本からまったく別の家系という説も。戦国時代、今川氏と斯波氏の戦いの際に、渋川井伊氏は斯波氏について敗れたため散り散りになり、その後、井伊谷の井伊家が台頭したともいわれています。
いずれにせよ、直貞のあと、直秀、直幸と代を重ね、井伊谷井伊家に匹敵する力を持っていたそうです。
約300年前、関係した主な人物の墓が菩提樹の隣にあります。
廣度寺殿 井伊直之(四代惟直)
大蔵院殿 井伊直貞
廣福寺殿 井伊直秀
宗源院殿 井伊直幸
大藤寺殿 井伊直親
東光院殿 西尾半田(井伊)
宝蔵寺殿 西尾親範(井伊)
於寿丸公
渋川の菩提樹は、樹高約8メートル、樹齢推定約300年。井伊家の墓所があった殿界戸(とのかいと)より墓をここへ移した時この樹を移植したと言われています。(江戸時代の末期)
(現地説明板などより)
渋川井伊家墓所
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渋川井伊家墓所 (1)
渋川井伊家墓所 (1) posted by (C)pismo

渋川井伊家墓所 (2)
渋川井伊家墓所 (2) posted by (C)pismo

源義朝の郎党・渋谷金王丸の墓です。渋谷金王丸は生まれは平家ですが源義朝に育てられました。
義朝が愛知県知多郡の内海において長田忠致に入浴中を襲われて倒れた時、金王丸はその場を逃れ、後に渋川のこの地に住みました。
源氏の落武者たちは金王丸に平家の任官になることを強く奨めました。
しかし、金王丸は源氏に対する臣節を堅く守り口論となり、ついに74人の源氏の残党と戦い、これを皆殺しにして自決した処と伝えられています。
血沢が珍田という字名になった因ということです。
(現地説明板などより)
渋谷金王丸の墓
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如意院は、臨済宗方広寺派の寺院です。
井伊直虎の祖母である浄心院が、夫の井伊直宗の冥福を祈るために建立した寺院です。
井伊直宗は、天文11(1542)年、今川氏の命によって三河の田原城攻めに出陣し、戦死しました。
浄心院のお世話をした村人たちは、隠居免といわれる年貢の免除をうけました。
浄心院は、久留米木の人たちから大神様と呼ばれ、命日にはおまつりが行われています。
(現地説明板などより)
如意院
如意院 posted by (C)pismo

井伊直虎の祖父、井伊直宗の正室浄心院の墓です。
如意院の東側にあります。
(現地説明板などより)
浄心院の墓
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渓雲寺は、臨済宗方広寺派の寺院で、井伊直虎の曽祖父、井伊直平の菩提寺です。
井伊直平は、永禄6(1563)年、今川氏真の命で天野氏の八城山(社山、磐田市)攻めに行く途中に急死しました。享年85歳の高齢であったと伝えられています。
近隣地には、井伊直平の墓所があり、江戸時代に再建された墓石が残っています。墓石の銘文には、出陣中に有玉(浜松市東区)で急死し、遺体が川名村まで運ばれたことが記されています。
(現地説明板などより)
渓雲寺
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渓雲寺 (1)
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福満寺は、現在薬師堂だけが残されていますが、かつては12の塔頭をかかえる大寺院だったと伝わります。
本尊の薬師如来は、奈良時代の高僧行基の作といわれ、この像は、山吉田の満光寺と春山の薬師堂のものと同木であると伝えられています。
応永のころ焼失し、渋川井伊氏の直貞が応永33(1426)年に再建されました。現在の本尊もその際に新たに刻まれたものです。
近隣の東福寺も現在は小さなお堂が残るのみですが、元は坊の一つだったと考えられます。
当地域周辺には多くの伝統芸能があり、当堂においても毎年1月4日には、国指定重要無形民俗文化財「川名のひよんどり」がとりおこなわれます。
なお、かつては八日堂と呼ばれたように、1月8日に行われた祭礼です。
三日堂 寺野 宝蔵寺 観音堂
四日堂 渋川 万福寺 薬師堂
五日堂 懐山 新福寺 阿弥陀堂
五日堂 神沢 万福寺 阿弥陀堂
六日堂 黒沢 峯福寺 阿弥陀堂
七日堂 滝沢 安楽寺 大日堂
八日堂 川名 福満寺 薬師堂

遠江から三河にかけて現存する田遊びの一種で、五穀豊穣、子孫繁栄、家内安全を祈願して行われ、これに火祭りが結びついています。
前半の松明を用いた祭礼は若連の手に委ねられており。後半の堂内における祭礼のうち、芸能の部分も主に若連がこれを担います。

一、イナムラの舞は、体に連縄をつけ、その姿は藁で作った
  イナムラが増大する様を演じてみせ、豊作を願う勇壮な舞である。
二、はらみの舞は、腹に布団などをいれて女郎面をつけて舞う。
  この舞が始まると小爾宜の人達は、オブッコ作りのために席を外す。
三、田遊びが終わる頃、出来たオブッコを背負い薬師堂に参詣に来る。
  その後、汁かけご飯を参列者で共食し祭礼を終了する。

特に、寒風吹きさぶ寒夜に川名川で身を清める水垢離と、堂前での夜空を焦がす大松明と若連のもみあいは実に豪壮です。このもみ合いの印象から「火踊り祭り」がなまって「ひよんどり」と呼びならわしています。            
(現地説明板などより)
福満寺薬師堂
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福満寺薬師堂 (1)
福満寺薬師堂 (1) posted by (C)pismo

川名にある井伊直平の墓です。井伊直平は、戦国時代の井伊家当主です。駿河今川家との攻防で衰退した井伊家でしたが、天文5(1536)年の今川氏輝の死に始まる花倉の乱以降、家督を継いだ今川義元に仕える道を選択しました。しかし、実施の井伊直宗は田原城の戦いで討死し、その弟にあたる直満、直義も謀反を恐れた今川家に殺されていまいました。直宗の子、直盛も桶狭間で戦死し、成年男子がいなくなった井伊家で直平は老齢ながら当主としてふるまいますが、墓碑によると永禄6(1563)年、出陣した途中の有玉(浜松市東区)で急死してしまいます。川名の渓雲寺で弔われて、この地に葬られました。なお、現在の墓所は江戸時代に再建されたものです。            

正面
渓雲院殿前遠國司西月顕祖大居士覺儀

右側面
永禄癸亥九月十八日逝

左側面
點眼偈
憶昔星隕幡谷里 到今士庶叫蒼天
渓雲漸霽西山月 遠顕祖光輝万年

背面
井伊共保公十三代遠江守直平公行年八十五永禄
六癸亥九月十八日出陣於八城山而俄於于有玉□谷
薨去矣時従者神主屋舗作左衛門竊負来□川名村
而営辨葬儀導師渓雲寺二世梅嶽春和尚也 今玆
十四世一道喝座元告官蒙命再奉修造幽宮者也
奥山積翠軒龍水謹書
(現地説明板などより)
井伊直平の墓
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井伊直平の墓 (1)
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三方ヶ原合戦の前哨戦ともいうべき戦い・仏坂古戦場です。元亀3(1572)年に武田信玄が遠江に侵攻し、三方ヶ原合戦の前哨戦ともいうべき戦いがこの地で展開しました。
遠江に侵攻する際、武田方は軍勢を信玄率いる本体と別働隊に分けて侵攻し、その内、山県昌景率いる別働隊と徳川方の井伊家が戦いました。
徳川方は敗北し、井伊家配下の井平城も落城し、しばらくはこの地域が武田の支配下となりました。
この地に残る「ふろんぼ様」という石塔群は、この戦いで討死した88名を供養するためのものと伝わります。
国道257号が開通する以前は、この旧道が引佐と三河を結ぶ街道でした。
(現地説明板などより)
仏坂古戦場
仏坂古戦場 posted by (C)pismo

仏坂古戦場 (1)
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亀之丞の隠れ岩は、永正14(1545)年、井伊直虎の許嫁、亀之丞(直親)9才の時に家老、小野和泉守の陰謀から身の危険を感じ、家来の今村藤七郎が背負うカマスに隠れて井伊谷を脱出し、逃亡の途中、追手から身を隠す為に一夜明かした場所です。
難を逃れた亀之丞は、信州市田の松源寺で10年間の逃亡生活をしました。
(現地説明板などより)
仏坂古戦場から鳳来寺街道を歩いて登っていきます。
亀之烝の隠岩
亀之烝の隠岩 posted by (C)pismo

亀之烝の隠岩 (1)
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亀之烝の隠岩 (1)
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仏坂古戦場の戦死者を葬ったふろんぼ様です。ふろんぼは古坊か古い墓の訛ったものか、古来からふろんぼと呼ばれてきました。
元亀3(1572)年10月22日武田信玄が遠江に侵攻した折 山県三郎兵衛昌景の率いる一隊は東三河から山吉田鈴木岩見守重好を攻めたが満光寺朝堂玄賀和尚の和議で岩見守は柿本城(山吉田城)を開き一族と共に三遠国境を越え井平の鈴木出雲守の守る小屋の砦(井平城)に引退いたがこれを追って来た山県勢と仏坂で激戦を交えています。三方原合戦の前哨戦と伝われる仏坂の戦いです。
この戦いで井平(井伊)飛騨守直成(井平領主)は鉄砲に的り戦死し、88名の武将と共に戦死し、井平軍は敗北しました。この戦いで井平城や居館、多くの民家も焼かれ、井平氏も一時途絶えました。
そして岩見守一族の鈴木権蔵重俊も頬当の下菱縫に鉄砲を受け討死しました。(享年22歳)
ふろんぼ様はこの戦で討死した井平飛騨守や鈴木権蔵重俊を始めとして多くの戦国の武将の菩提をこの地に葬ったものと伝えています。中央の宝篋印塔は井平飛騨守直成の墓です。
(現地説明板などより)
ふろんば様
ふろんば様 posted by (C)pismo

この場所は、井平氏の居館跡と伝えられております。
寛元3(1245)年、井伊家から分家した井平直時は此処に居館を構え、この先北方の300mの山麓に城を築き、井平氏の祖となりました。それから約330年の間、井平氏は井伊氏を支える有力な家系となり、井伊直虎の曾祖父や祖母(井伊直平の妻や井伊直宗の妻)はこの地で誕生しております。
元亀3(1572)年武田信玄軍が侵攻した井平城(仏坂)の戦いで当時の城主、井平直成は88名の家臣と共に討死しました。城郭、居館は焼き討ちに遭い、井平氏は一時途絶えました。
その後、天正元(1573)年井伊直平の末子、井伊直種が井平氏の当主となり、殿村に居館を築きました。天正18(1590)年直種の嫡男弥三郎は、井伊直政の家臣として小田原攻めに参戦し、18才の若さで討死、井平氏は断絶しました。近くには直種夫婦、弥三郎の墓所があり、位牌は長興寺に、御霊は林森神社に祀られております。
(現地説明板などより)
井平氏居館
井平氏居館 posted by (C)pismo

井平氏は、井伊家七代井伊弥直の時代に分家、井平四郎左衛門直時が井平氏の祖となり井平・花平の領主で殿村に居館を構えていました。
南北朝期井伊家の枝城が記されている浜名古城記に「北は伊平の川東、今城山と云う処に砦を築き井平左衛門二郎重直其の子掃部左衛門直勝之を守る」とあります。
天文13(1544)年12月、井伊谷城主井伊次郎に招かれた連歌師の宗牧は井平村を通過した折その道中記東国紀行に「片岡かけたる古城あり之も井伊家一家の人」と井平城のたたずまいを詠じています。
又、細江町の式内社蜂前神社の古文書には井伊直平公の嫡男で井伊家14代井伊宮内少輔直宗の伊平村御在城が記録されています。
井平城は旧鳳来寺街道上の要地に在り戦国時代小屋と呼称されていました。元亀3(1572)年10月、武田信玄の将山県三郎兵衛昌景の率いる一隊の進攻を受け落城しています。
この付近には帯曲輪・土塁・土濠・井戸跡等と目される遺構が現存僅かに昔日の面影を留めています。
(現地説明板などより)
主郭部には民家が建っていますが、それ以外の場所はボランティアの方による間伐などが行き届き、見学しやすくなっています。曲輪、土塁、竪堀などがよく残っています。
井平城 (1)
井平城 (1) posted by (C)pismo

井平城 (2)
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井平城
井平城 posted by (C)pismo

井平城 (3)
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井平城 (4)
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井平城 (5)
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井平城 (6)
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井平城 (7)
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井平城 (8)
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井平城 (9)
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井平城 (10)
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井平城 (11)
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井平城 (12)
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Posted at 2017/03/18 23:14:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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