藤沢にあるいすゞの本社工場には試験走行のテスト・トラックがあり、昔は結構隙間から米國GM各デヴィジョンの試験車両、主に商用車、が走行試験してるのが見えました。
まあ藤沢ならオバキュー、じゃなくて、小田急電車に乗れば直ぐ行ける所ですが、1960年代、いすゞ車(と、トヨタ車)をキャナダでノックダウン生産する工場を作ったのが、人里離れた、と、言うか..
もう僻地も僻地も地の果て、おまけに冬は恐ろしく寒くなるキャナダの東端、ノヴァ・スコーシャ州(ニュー・スコットランドの意味)。
ウチのお母さんは "
少しゃあ貯まる" スコーシャ・銀行, なんて言ってましたが.. そのノヴァ・スコーシャ州のポイント・エドワードと言う町でした。
いすゞのお偉方さんであろう、埠頭の桟橋を棒で指していますが、現在の衛星写真にもこの旧海軍の桟橋、残ってるのが確認できます。
まあ、兎も角この辺りは経済的に頗る貧しく、シドニーと言う街の近くのポイント・エドワードとは戦時中から HMCS Procector と呼ばれた海軍の補給廠があったのですが、それが1964年に閉鎖される事になり、それでなくても雇用機会の少ない僻地で、政府は積極的に進出してくれる企業を探していたんですね。
そこに現れたのがCMIと言う企業で、いすゞとトヨタの輸入販売権を持って、多分税制の面で非常に有利な条件を出されたんでしょうね、この旧海軍基地に工場をおったてます。このCMIと言う、元来は音響部門で財を得た会社は後に青息吐息のすチュードベーカーのキャナダ部門を買取り、よくよくはスチュードベーカーの下をいすゞ車で補充して売ろうと企んでいたそうです。うーむ、スチュ-ドベーカーのエンブレムを付けたいすゞ車、以外と似合いそうで。。。
同時期、1963年にハリファックスに作られたヴォルヴォの工場の話は余り有名ではありませんが、このキャナダ生産のヴォルヴォの話は次回のネタにと。。。
最初は細々と輸入に頼っていましたが、次にはコンプリート・ノック・ダウンの生産も開始し、いすゞはベレット、トヨタは現地名 ”キャナデイアン”、(車種は多分トヨタ・コローナ?)が、この北米大陸東端の港工場から全国へ送り出されたのでした。因みに初期型カローラのキャナダ投入は合衆国より一年早く1967年でした。
工場の稼働は多分年産でいすゞ・トヨタ合わせて1,000台辺りだったみたいで、70年代まで続かなかった様ですが、これが一応北米で最初に生産されたトヨタ車だと存じます。
合衆国(んで多分キャナダでも)で最初に売られたトヨタ・コローナは名前をテイアラと変えられたのですが、面白い事に当時の占領下沖縄でもコローナはテイアラで売られ、タクシーに沢山使われていたみたいでした。この広告のピンクに白い屋根の車両、実は我が母上が1961年に初めて買った中古のコローナと全く同じ形状・色なのです。。。丹頂ツルと呼んでいたそうでこれに懲りず、グレイメタリックの同型コローナが後釜に来たのを覚えています。
以前にも書きましたが、キャナダでは歴史的に廉価車が売れる傾向があり、合衆国では売られなかった初期型UP10/700のパブリカ、初期型ダットサン・サニー、近来では日産マーチ・マイクラなどが売られ、廉価の極め付けはリヤエンジンでフロントのトランクが横に開くチェコスロヴァキアのシュコーダ、ロシアのラーダ(コリアン・エヤー狙撃事件後販売辞めた)、果ては古いルノー12の焼き直しのルーマニアはデーチアまで安い値段で売られてた時期がありました。
Posted at 2018/12/22 16:02:34 | |
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