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2022年12月25日 イイね!

クルマに光を。

クルマに光を。












以前どこかの慈善事業の番組で番組名が、”心に光を”、と言うのがあったんですが、アナウンサーの言い方が独特で、どう聞いても、”心に怒りを”、と聞こえるんですよね。ぼくの日本語の理解度が足りなかったのかしら。

冬至を過ぎて日は長くなり始めた筈とは言え、まだまだ冬が続くこの頃。我が家のプリアスは最新式なので前照灯は暗くなれば自動的に点灯し、対向車が来れば自動的にロービームに切り替えてくれる上、駐車すれば前照灯は数秒間点きっぱなしなった後、自動消灯すると言う便利さ、でもコレ、ひと昔のGM車で言うトワイライト・センチネルとガイドマチックと同じではないですか。

昔のGM車、特にキャデラックを知ってる人にはお馴染みの注文装備の、トワイライト・センチネル、それとガイドマチック。

トワイライト・センチネルは暗くなれば自動的に前照灯が灯き、駐車後にはタイマーで一定の時間後に前照灯が消灯する機構。

ガイドマチックは自動的に前照灯のロービームとハイビームを切り替えるものです。

この二つの装置は、GMの系列会社、”ガイド部門” (Guide Division)、GMの灯火類を専門に開発する会社が考え出した物で、不思議な事に機構的に凝っている、ロービーム・ハイビーム自動切り替えの方が先に登場しています。

ガイド部門が普及させた、当時物、T3型シールドビーム。最近の人は何から何まで最新型の前照灯に変える勢いですが、ぼくに言わせば、毎日実用に乗るなら別として、古い車には古い電球使わないと、雰囲気がぶち壊しになると思うんですがね。
T3とは、下に3°、左に3°向けて組み付ける意味。初めて電球表面に三つの突起がつけられ、射程調整装置を使えるようにした物。1970年代前半まで使われた電球。





最初、1952年のキャデラック、ビュイックとオールズモビルに搭載された自動切り替え装置の商品名は、オウトロニック・アイと申しまして、計器盤の上に小さな照準器みたいな物がデンと置かれていて、その先にあるレンズから集光された光を電気信号に変え、電源が6ヴォルトから150ヴォルトに昇圧れて、真空管で制御して動く装置。1958年に小型化・改良され、名称をガイドマチックに変えて発売。その後トランジスタ化され、最後に搭載されたのが、ダウンサイズ2回目のCボデー・キャデラック、1987年型(FWD/RWD) が最後でしたが、近年になって高知能前照灯が登場して、同じ機構が組み込まれているそうです。

この猫目の物体が前方を監視してハイビーム・ロービームの切り替えをするのです。




そのオウトロニックの制御機構は、トランジスタの出回る前の話で、150Vに昇圧して真空管で動いていました。その際、振動させるヴァイブレータから結構音がでます。気にしない。気にしない。あっ、それから真空管ですから、エンジン始動させた後、オウトロニック機構の作動させるまで、一定の暖機時間が必要です。


これがその真空管。


その後、1958年からオウトロニックはガイドマチックと名前を変え、ギョロ目のセンサー部分を計器盤上部からラジエータグリルの中やら、フェンダ先端の飾りモールに組み込んだりして目立たなくなり、制御機構も小型真空管、のちにはトランジスタに変えられ改良されていきました。

左側フェンダ先端の飾りに隠されたガイドマチックのセンサー部.


センサ部が車室外に出たことで、精度が上がったとか。問題は次第に普及していった色付き青ガラスで誤作動が結構増えたそうで。色々レンズにフィルタかけたり可視色の調査はしたそうですが。。。


1970年代になるとセンサ部はラジエータ・グリル内に隠れます。これは1970年型エルドラード。




センサ部も小型化。


トワイライト・センチネルの登場は1960年から。ダッシュボード左上部にCDS感光部があり、それに応じて点灯・消灯する仕組み。そのCDSに穴の開いたカヴァーが付いており、それを回すと感光部の穴を塞いだり開けたりして感度を調節。後日は電気的に感度調整になりましたが。



消灯タイマーは俗に言われる、夜間の下車後暴漢に襲われるのを防ぐ為と言われてますが、実際は、下車後家までの足元を照らしてくれる為だと思われます。大体昔はそんな物騒な世の中じゃなかった。。。トワイライト・センチネルは此方も現在、高知能前照灯の機能の一部として継続されています。

ガイドマチックとトワイライト・センチネルが両方搭載されると、昔の車両は前照灯のスイッチの根本にあるリング、上部回すとロービームに下がる相手車両までの距離を調整でき、下側の部分を回すと、トワイライト・センチネルの残照時間を最大三分間まで調整できます。この頃の前照灯のスイッチはどの会社の車両でも、丸いノブ部分が回転し、計器盤の背後照明の明るさを調節でき(連邦安全基準法)一番右に回しデイーテントを越して右に当たると室内灯が点くのが常でした。(よって室内灯にはスイッチが無い)





トヨータさんはコンライトと言う名称で同じような前照灯自動装置をクラウン・エイトからつけてましたが、さすが、最初からトランジスタ制御。コンライトと言う可笑しな名称は Light Control から来てると広報誌には出ていましたが、英語で 
”CON"と言うの考え物で、”コン” とは一般的に ”騙す” 事を指し、詐欺師の事は  ”コン・マン” と呼ばれ、もう一つ、”Convict”、いわゆる囚人の事も、Ex−Con
(もと囚人)などと言います。



これらの照灯装置に加え、昔からあったのが、灯火装置の作動確認をする為の小道具、その名もヴィジライト。フェンダの先端に小さいコブ状の突起物があり、夜間前照灯やら方向指示器を操作し、それらが通常点灯していると、その突起物が光り、運転台居ながらにして点灯確認できると言う物。

ヴィジライトが付いていると、前照灯などの接合部に光樹脂の光源を拾うもう一つの配管が来てます。中央の黒いのがソレ。


なのでヴィジライト装備の前照灯、シールドビームだと小さなガラスの ”おへそ” 突起があり、これと配管を小さなゴム製の短いパイプで繋ぎます。方向指示器、尾灯なども同じ機構。






これは尾灯にも付いていまして、此方は天井後方に付けられていて、後鏡で確認できます。

こう言う風に光ます。


この装置は光伝導樹脂を使っており、それぞれ光源の後ろに光が漏れる突起があり、そこから細い紐状の樹脂が光をフェンダ上の突起物後ろに導くのです。これを開発したのは、GMの系列会社、パッカード電気部門と言う会社でして、名称から分かるように、昔は高級車のパッカード社の技術部門を1932年にGMが買い取った物。でも電気部門との名称とは裏腹に、実際は樹脂技術に強く、その樹脂繊維技術を応用したのが、このヴィジライトでした。




ひと昔のキャデラックなどには必ず付いていた装備ですが、1996年型のフリートウッド・ブロウハムを最後に姿を消しました。


この小さな突起がそれ。


昔のダットサンにもフェンダー上に突起物がありましたが、これはヴィジライトではなく、日本であるフェンダミラー取り付け穴を塞ぐ飾り。


でも1974年型から形状変更で消滅した。


GMの電気部門が一部車種で対抗立場にあったパッカードだったと言うのも面白い話ですが、戦前は、パッカード、ピアス・アローとピアレスは3Pと呼ばれ(いや、そんなんじゃ無いですよ)豪華車3羽と呼ばれていました。

この頃の宣伝は素晴らしかった。。。これは1929年型ピアレス。ピアレスは1931年で消滅。


パッカードは戦後、スチュードベーカーと一緒になり1960年代初めまでありましたが、この華麗な上流階級の図の裏で我が国は有色人種の奴隷に使い野蛮な事をやったいたんですから、何ともですね。まあこの後、大恐慌で大変な事になりますが。


ピアス・アローはぼくの育った西ニュウヨウク州、ハリソン・ラジエータの本社がある、バッファロー市が本拠地。そのせいか、ハイスクールの学校自動車運転技術科の実地練習の契約教官のデイートリック氏がピアス・アローを持っていると言う噂でした。。しかしこの松並木、戦前の普天間の松並木街道の図を彷彿させます(今や宜野湾中古車街道。。)


ピアス・アローの後席。素晴らしい。。本当の高級車。


最後のピアス・アローの流線形、シルヴァー・アローの室内。


1977年にダウンサイズされたCボデーのキャデラック、生涯操作系は殆ど変わりませんでした。

最初の年の1977年。燃料計は何故か中央上部に。その横は水晶発信と電気モータで動くドラム式の時計。


1979年には小改良され、ラジオが電子表示になり時間表示出来るようになったので、上部燃料計横のドラム式時計は廃止になります。ステアリング・ホイール中央両端部が削られ視認性が向上と共に材質変更で耐久性の改良。


1981年型は空調操作部が電気式に変更。裏操作でエンジン制御やらの診断、表示が可能になります。


1987年型からデルコ製のラジオが以前からの横に細長の、両端に大きな回転ノブがある奴から、大型の新式装備が始まります。


そして1990年からデジタル表示に変わり中央部空調の吹き出し部も横から縦型に変更。燃料計も速度計の横に表示されたので、中央上部にあった燃料計も廃止。そこにはエンブレムが。


移ってきた燃料計はここ。


昔の燃料計と同じ高さにあった黒いバンドは速度計上部で警告灯を内蔵していましたが、デジタルになってた後は、警告灯は前幅木目の中に隠れて表示されるタイプに変更されました。普段は木目なのに警告灯が点くと現れる。ちょっと不思議です。






これは1988年型。速度計上のひさし位置にある黒いストリップが警告灯群。ここが木目で埋まると結構印象が変わりますね。。。


おまけ画像、オウストラリヤのRHDキャデラックの計器盤。不思議な配置様々。


おまけその2。いすゞ・ベレル。


1957年型、ナッシュ・アンバサドー。
Posted at 2022/12/26 09:18:04 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2022年12月20日 イイね!

冬至のポンテイアック サッポロ一番 スリラチャ味

冬至のポンテイアック サッポロ一番 スリラチャ味










明日は冬至、一年で一番昼間が短い日です。北緯21°の当地、ハワイ州ではこの頃になるとお日様は朝7時過ぎに登り、夕方6時には暗くなります。この時期だけ、数週間の間、朝早く南西の地平線近くには、南十字星、サザンクロスも見えます。

朝の通勤時に、スクールバスの乗降時に停止で引っ掛かる時も真っ暗です。でも今週から學校は冬休みでスクールバスも走らないので通勤時間が格段に短かくなってます


冬至、夏至はそれぞれ、サマー・ソルシテイス、ウィンター・ソルシテイスと呼びますが、そのソルシテイスは2005年からポンテイアックで売られていた2座のコンヴーチブルの名前がそうでした。



ポンテイアックの生き残りがまだ話題に上る前夜、なるべく経費を抑えてミアータに似た軽快車を考え、このソルシテイスを出したんですが、その頃には景気の悪化とGMの経営状態の著しい悪化が始まり、結局売れたのは4年間で65,000台ちょい。4気筒の割には重量が重く、速さで競う車ではなかったみたいです。


このポンテイアック・ソルシテイスが登場した2005年前後からGMは、各ブランドがGMの製品だと知っている人が、中西部地域以外ではとても低い事に気づき、その認知度を高めるために小さな四角いGMエンブレムをさまざまな車種に、通常前のフェンダー、前のドアまたはコーヴェットならドアの直ぐ後に付けました。


コーヴェットはここ、扉の直ぐ後ろ、後ろフェンダ開口部の直ぐ前。



そのキャンペインをやっている内に、はい、経営が傾き、2009年にGMは倒産。時期を前後に、再建の為ポンテイアックもオールズも、サターンも廃止。残ったブランドからもこの小さいGMエンブレムは全て廃止になりました。


先日発見した、サンヨー食品、サッポロ一番の新しい品種、スリラチャ風味の焼きそば。スリラチャとはタイランドから来たピリ辛ソースで、我が国ではとても人気があり、今じゃスリラチャ入りマヨネイズとか、サラダドレッシングとか派生商品も増えてました。


そのスリラチャ風味の焼きそばねえ。ふむふむ。試してたら、見かけとは裏腹にそんなに辛くない、結構美味しかったです。


おお、さぶいのお。冬のアンカレッジ・アラスカ。


Posted at 2022/12/21 16:20:13 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2022年12月18日 イイね!

パンナム機爆破事件とヴォルクスワーゲン・ラビットとゴルフ。

パンナム機爆破事件とヴォルクスワーゲン・ラビットとゴルフ。











クリスマスを控えて今週の気になったニュースは、34年前丁度クリスマス前に起こった、パンナム103便ロッカビー爆破事件で、爆弾を作ったリビヤ人の犯行人が捕まり、米国政府に拘束されたそうです。そのプラステイック爆弾は東芝製のラジカセットプレーヤー、RT−SF16に内蔵され、気圧感知装置が付いていて、離陸を2回したあとに爆発する様に作られていて、フランクフォート発、ロンドン経由でニューヨーク行きのパンナム機に搭載され、ロンドンを離陸後に爆発する計画でした。それまで東芝の電気製品は一般消費者向けにはその名を余り知られていられませんでしたが、この事件で東芝の名は一挙に有名になり、東芝さんもかなり困惑した事でしょう。

これと類似型が爆破に使われた。


我が国では1970年代後半のデスコ時代から、カセットテーププレーヤから大音響を響かせ、それを肩に担いで歩き回るのが若者の間で流行っていて、そう言った類のプレーヤー、それも大型の奴が結構人気で、よく売られていました。この爆破に使われた東芝のラジオカセットプレーヤーは逆に小型でスリムな形状で、余り流行らなかった奴です。矢張り若造が街を大音響で練り歩く際、その音源が小型で繊細なモデルだったら興醒めだったのかもしれません。時期を前後して、もう少し大人は、当時、盗難率の高かった、自動車のラジをが取り外し式になり、自動車から離れる際、取手の付いた取り外し式ラジをも持って出て、食堂でデートの際、テーブルに取り外した自動車ラジオをデン、と置いて凄いだろう、と誇示するのが流行ったような記憶があります。


その後自動車ラジオは操作・表示部だけが取り外し式になり、その部分だけポケットに入れて自動車から出る様になり、その内暗証番号がないと起動しなくなったり、寸法が特殊になり互換性がなくなり盗難の標的にならなくなったりで、今や、自動車のラジオの盗難なんて以前ほど聞かなくなりましたが。。。

こう言うの、昔はやりましたねえ。よくあの重い物を肩に担いで歩きましたね。(ぼくはこう言うラジオ持っていなかたし、歩きもしなかった)あれ、これ。アース・ウインド&ファイヤ!先週末ホノルルでコンサートがありました。



1980年代のパンナム航空は以前の栄光から奈落の谷を転げ落ち、財産難の泥沼から抜け出せず、資金繰りに困り果てていた所に、自分達のせいでは無いにしろ、この爆破事件が起こり一層、苦難に拍車がかかり、3年後、運行停止・倒産に追い込まれました。


パンナム一等席の名物献立、ロブスター・サーミドー。食べてみたかった。。



パンナムはその末期頃、運転資金が極度に足りない際、ぼくの昔働いていた会社に747を10機程売り飛ばし、それから得た現金でその場を凌ぎ、ウチに売った機体はリース料を払うと言う形で継続してパンナムが運行すると言う、いわゆるリースバックと言う手段で飛び続ける事になりました。(日本で航空機リース返却の事をリースバックと誰かが言い出し、それが定着して業界でもちょっと困っています。それを言い出したのが多分有名な写真家・専門家らしく。。)でもパンナムはいよいよ末期になるとリース料支払いも滞り、倒産の裁判で多額の費用をかけてパンナムから取り返したこの10機は殆どボロボロの状態で、飛べる状態にあったのは数機、エンジンが無かったり書類は何処へ行ったか分からなかったりイチデージな事になっており、足りないエンジン掻き集めて、エンジン3発でニューヨークからアリゾナの弊社の整備基地まで持って帰ったのが、ぼくの入社一年目のハナシ。結局その10機の内、マトモに飛べる様になったのは7機で、その中には747の製造番号003と004と言うごく初期生産型が含まれていて、後日、その機体を自分が運航するなんて、夢にも思っていませんでした。そのパンナム仕様は操縦室の床が明るい緑色の絨毯で敷かれていて、機長席の座席が電動で真っ直ぐ、後に6フィート位後退出来る様になっていて、これは機長がフライトエンジニヤのパネルを弄れる様に設計されていたと聞きました。後にこの電動座席は万が一、離着陸時に故障して動いたらマズイことになると言うご通達が来て、離着陸前にそのサーキットブレーカを落とす項目が追加になってました。あと覚えているのはお尻にあるAPU, 補助エンジンのパネルに診断装置が付けられていて、何かの問題でAPUが自動停止すると、その理由が小さいデイスクの表示で解るようにできていました。実際それで助かった事は一回もなかったですけど。。。

サンダーバード、パンナムの747が盛んに宣伝使われました。


そのロッカビー事件で命をおとした1人が、ヴォルクスワーゲン・オブ・アメリカの大ボスだった、ジム・フラーさんでした。ジム・フラーさんは若い頃から自動車が対すきなカーキチで、大学時代にフォード系のプロジェクトに参加したのをきっかけに、フォードに就職、その後トリーノ、マスタングIIやグラナーダのローンチにリー・アイアコッカ指揮の下関わった後、AMC/ルノーに行った後にポーシャ・ヴォルクスワーゲンに移り、1980年代に、すでに稼働して4年目で販売が落ちていたヴォルクスワーゲンのラビット(初代ゴルフ)の喝入れに選ばれ、ラビット・GTIから始め、独国技術を備えた若々しくかつて廉価なイメージを植え付けるのに成功し、一躍有名になった方でした。

アメリカ合衆国で初めて出来た外国の自動車製造工場(厳密には戦前にマサチューセッツ州でロールスロイスが自動車組立を1921年に始めたのが最初とされていますが。。。)がペンシルヴェニア州にあったヴォルクスワーゲンのウエストモーランド工場で、ジョブ1が1978年でしたっけね。



そのジョブワンの個体は独国の博物館に展示してあるそうです。


そもそもこのウエストモーランド工場はクライスラーが作りかけて計画が頓挫していた工場を買い取ったもので、地域の活性化目的で州政府から多大なる優遇を受けて始まった工場でした。1978年と言えば第二次石油危機が勃発する直前で、経済者のラビットは人気があって、その上、同時期に登場したジーゼル・ラビットが驚異的な燃費で一時期で流行ったもの、日本勢に押されマーケットシェアは落ちる、その上工場では労働組合、及び品質問題で叩かれ悩んでいた所、投入されたのがジム・フラー氏だったのでした。

ウエストモーランド製のラビット・ゴルフは角目の前照灯が特徴で、連中の犯した罪は、余りにも製品を米国化してしまった事でした。フカフカの足回り、きんきらきんのメッキの外観、総一色にまとめられたゴテゴテした室内、これだったらダッジ・オムニ(皮肉な事にラビットと同じVWのエンジンを積んでいた)や新しく出たフォード・エスコートの方がいいんじゃないと、買う特徴が薄かったのが理由大だったみたいでチャーならん。これが北米化されたゴルフ、内装がクライスラーそっくりの総赤色だったりすると、同時期の赤の内装のダッジ・オムニと印象が変わらなかった。






そこで他の商品とは異なった特徴を与える事をフラー氏は提案。彼の来る以前から、米ヴォルクスワーゲン社では軽便ピックアップトラックの構想を独国側に提案しており、他にはない独自性を考えてはいたんですが、フラー氏は、独国技術、独国の高性能走行性を前に出した、ラビットのGTIの米市場導入に成功、ラビットの4扉型のジェッタにも同様の高性能版をGLIとして販売開始。

本国のGTIは、あの超軽量840キログラムのゴルフのドンガラに110馬力の燃料噴射装置付きエンジンを乗せたんですから、その走りざまは凄いもので、面白いように飛び回りました。

初期型、本国のゴルフGTI。安全性で先進性があると思われがちの当時の欧州。でも側面に方向指示器が付いたのは遥か後、確か90年代になってから。右側のリヤヴューミラーもその頃まで義務装備ではありませんでした。



フラー氏が産んだGTIは本家とは随分違い、大きなバンパ、強化材が入れられた扉、豪華な装備などで重量は952キログラムと重く、エンジンは燃料噴射でも90馬力(後に100馬力)しかなかったんですが、北米仕様は最大トークの105フット・パウンドをなんと3,250回転と言う低速で発揮、それもトーク・カーブがとてもフラットで、変速機を何速に入れても小気味よく力が盛り上がり運転が容易。高性能の小さな経済車ハッチバックを最初に米国に導入した功績はとても大きかったのです。



実は一足先に北米でもGTIがありました、と言ってもキャナダの話で、コチラは独国製。主に外観・内装だけの特別仕様で、エンジンは普通の1,600ccの燃料噴射付き。1979年と1980年にだけ用意され、1983年からはウエストモーランド製のGTIに代わります。


残念な事にフラー氏の努力の甲斐もなく、北米VWの販売台数はされに減り、経済難も手伝いウエストモーランド工場は1987年に閉鎖。翌年フラー氏はパンナム機の爆破事故で亡くなります。彼はその時、小ラード2扉クープやら他の高性能車の導入を企んでいました。コラードは一応輸入はされましたが、その前のシロッコより販売台数は少なく目立たない内に消滅してしまいました。ウエストモーランド工場の施設はその後中共に売り飛ばされ、跡地はソニーが一時期カラーテレヴィジョンかなんかそ製造していました。

ここ10年間で北米ヴォルクワーゲン車(と、同型エンジン搭載のアウデイ、ポーシャ類)は、独国、米国の幹部が何人も有罪投獄され天文学的な罰則金を課せられ、社会問題にも発展したジーゼルエンジンの排気ガス事件で著しく企業イメージが極めて悪化し今だにその悪評が続き、その上連続して起こった止まらない、技術欠陥に対する集団訴訟の数々でさらにイメージダウン、結局現在は車種の電動化に方向を切り替え、今までや屋台を支えてきた量産車のパサート(北米のテネシー州新工場製造)普通のゴルフも既に辞めて、(GTIと高性能のRだけ残した)他社にもれずSUV多目的車だけに的を定めている様子です。。。

初代ゴルフが北米に来たのモデルイヤー1975年。名前をラビットにしたのは、躍動的で速いと言う連想が着く事、ゴルフを嫌ったのは、運動のゴルフは年寄り、または裕福な人層のする運動と連想されるからだったそうです。因みにゴルフの意味は、運動のゴルフではなく、西大西洋に吹く偏西風、ガルフストリームのガルフの独国語発音から来ています。





交差点で止まる度に、隣の車に一ガロンで38マイルも走るんだよ、と自慢したくなります。っと、隣の車はキャデラックのリムジン。


ラビットはキャデラックのフリートウッドよりトランクが広いんです。但しラビットは後席を倒してますがね。フリートウッドは屋根前端の形状からリムジンですね、前の広告のを持って来たか。でもこの頃のラビットの荷室の広さは驚くくらいの広さでした。


全米輸入車販売ナンバーワンは日本製車ですけど、日本での輸入車ナンバーワンはラビットです。場所は何処かしら。。


派生車のピックアップは北米ヴォルクスワーゲン社の提案で開発されたもの。のち、キャデイーの名称で世界に広がります。合衆国でもまだ熱狂的なファンがいます。余り台数は出なかった。


欧州ではキャデイーが一旦途絶えた間、なぜかハイラックスで凌いでいましたね。
その名もTaro。独国発音でなんと言うのか?タロ?太郎?


見て下さい、この広さ! でもこれ、結構本当で、右下の写真だとよく分かるんですが、初代ゴルフの荷室の広さには驚きました。初期型ゴルフにはお尻の表情が二つありまして、ごく初期型はスワローテールと呼ばれ、尾灯下の左右を繋ぐ線が中央で一段降りていて、燕の羽を伸ばした形状でスワローと呼ばれます。後にこの線は直線になります。よってこれはスワローテールの極初期型。1975年のワイオミング州のライセンスプレート。この頃はまだ前輪もドラムブレーキだった。


ウサギのお尻と言えば、当時のキャタログ、世界共通の写真が多く、生産されなかった試作的な尾灯の写真が堂々と載ってました。







そのウサギのお尻。これは本家版、後期型。GTI。


北米版、後期型。GTI。


南アフリカ版、後期型。


南アフリカでは驚く事に、1974年に出た初期型ゴルフを、なんと2009年まで細部を改良しながら生産していました。



最終型はダッシュボードを当時のグループ系列スコーダのファビアから移植。ダッシュボードは同じですが、扉内側のトリムで古いゴルフなのがバレる。



これは同時期のスコーダ・ファビア。


南アフリカと言えば、サニー・トラックも2008年まで生産していたし。安全・環境規制の無い国は恐ろしい、いや、羨ましい?


長期生産と言えば、イランでは日産(プリンス?)ジュニアをまだ作ってる模様。



ラビット・ジーゼルでニューヨークからワシントン(当然ワシントン州では無く首都のワシントンDC)までたった10ギャロンで走ったわ。いいえ、それ往復よ!!


ラビット・ジーゼルはギャソリンエンジンからの流用、でも軽量、そこそこの馬力とフラットなトークカーブで、軽量の車体を小気味よく走らせ、非常によく走りました。でも後期になると増えた装備品で重くなり、特にエヤコンデイショナーなどを装備すると、力不足がひどく、坂道で苦労します。



ビートルのカブリオレから移行したラビット・カブリオレは一定の需要があり、会社の家計を支えたようです。ご存じ生産はオスナブルックの今はなき、カーマン社製。
ラビットがモデルチェンジしても初期型カブリオレは1993年まで続行生産。幌の上下も油圧電動式に改良。



1984年の2代目からは、北米のラビットは本家と同じ、ゴルフに変わるのですが、何故か2004年に登場した5代目のゴルフはまた、ラビットに名称が戻ります。でもラビットのエンブレムは無く、ただウサギの印がテールにあるだけです。2.5とは搭載されていたエンジンが2.5リッターを意味します。










今日のオマケ。1975年、ノーウェー仕様のマズダ616ことカペーラのチラシ。ブロンド髪の白人を使い、目一杯欧州の雰囲気なんですが、待てよ、ステアリングホイールが左側にあるのに、左側を走行しているように見えます。。左側の写真、何処か見覚えあると思えば。。。



やっぱり、赤坂の迎賓館前でした。


1991年12月3日、パンナムが倒産した日に、パンナム社員に送られた社長からの通達。運行管理部からこのファックスがウチの部に送られた時の事、今でも覚えています。



冒頭画像が亡くなったジム・フラー氏。50歳の若さでした。
Posted at 2022/12/19 11:54:13 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記

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