Inspired by GT-R Magazine
『五感を研ぎ澄ませてRの声を聞く』
Rの声を聞く。
もしもRからなにか声が発せられているのだとすれば、
その声を「聴く」としたい。
身体を近づけ、そっと触れ、心を寄せて・・・。
ぼくが触れてきたRたちは、気性激しく、時にせつなかった。
そりゃあ、そうだ。
クラッシュとは、いつだって突然で、しかも激しい。
クルマとしての終わりを告げられ、潰され溶けていくのか、
それとも、生き還る道に賭けられるのかの俎上にのせられていたのだから。
もしもRに声があるのだとしたら、
心からの叫びという、そんな見えない心の傷があることを感じられるかどうか。
言葉なき言葉、その真意とはたいていが言外に語られる。
それは、簡単にはわかられたくないという気持ちのほかに、
知られてしまう怖さというものもある。
処遇がどうなるのか、そんな不安が募ったとしてもおかしくないし、
誰だって胸襟を開くのに時間がかかることもあるだろう。
であれば、発せられるひとつひとつの言葉を、
こちらも心でもって聴くしかないだろう。
そうでなければ、その発する声からの真意は掴めない。
アタマでわかったとおもうこと。
思考してわかったとおもうこと。
情報を得たり、アドバイスされてわかったとおもうこと。
愛するための、とっかかりとは、そういうものかもしれない。
でも、永い時を共に歩んでいくためには、
わかったとおもう以上の理解が必要なことだろう。
なぜなら、愛するとは、思いを広げ、そして深めていくものだから。
わかったつもりになっているようじゃ、
それはいずれ満足できなくなる。
当然、愛される側にしても、それは同じことであって、
相手にわかったつもりでいられることほど嫌なことはない。
だとしたら、いっそのこと「よくわからないんだけど・・」
とカッコつけることなく打ち明けてくれたほうが嬉しいものだろう。
機械とはいえ、多少なりとも違いがあるわけであって、
それをアタリとかハズレとか言ったりもする。
それを人に置き換えて表せば、それは個性という感じなのだろう。
とすれば、その個性に合わせた対応を
自分なりに見出していけばいいと思う。
たいせつなことは、その前提を、まずしっかりしておくことだろう。
「オレのRってやつは、こういうところがあるんだよな」
そんなふうにまで感じられるようになれたら、
それは最高にしっくりきていることだろう。
「相棒だ」って言っても、おかしくはない。
逆に、一般論も大切で役立つけど、それとの比較ばかりじゃ、
特別な機械としてのRの本質をみていないことになる。
たとえば・・・
息づく機械としてのR。
闇夜に悶え、振り絞る呻きを発するR。
そんな感情めいた声を発するRにたいして、
いったいどれほどの時間と金をつかって、
その結びつきを固めようと向き合ってきたのか。
もしも、そんな原点となるような思いを見失ってはRにも失礼であるし、
なによりも自分自身をもないがしろにすることになる。
Rを護るとは、自分を護ることと同じなのだ。
愛をもって護る。
そのためには、ある意味、もっと体感覚で感じること、
左脳的な知識を超えて、右脳的に直感で感じてみようとすること。
そんな感覚的であることが、愛をもって向き合う基本姿勢。
それは、マニュアル的な対応で満足する女性が誰一人としていないように、
Rもまたそのように扱い・・、いや、向き合っていきたいものだ。
Rと共に歩む。
いつまでも。
Rと向き合い、
結びつきを確かなものへと深めていく。
そのためにこそ、
心からの声を心でもって聴く。
Speed Groove by yoshi
Posted at 2017/06/08 19:00:29 | |
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