益子焼(益子でのやきものの歴史)
益子でのやきものの歴史は、紀元前約13,000年前にまでさかのぼる。
【約13,000年前】
日本が縄文時代の頃、アメリカ大陸の歴史は、ホモサピエンスがユーラシア大陸から現在の北米(アラスカ)へと到達してから約2,000年後になる。
【平安時代(794~1185年)】
平安時代後期より、益子では江戸末期(1853年以降)までやきものの目立った生産が行われなくなった。大きな理由のひとつとして、武家が台頭する戦乱の世に移り変わってしまったからとも言われている。この期間は益子焼の空白の期間となる。
【日本が平安時代だった頃のアメリカ、ヨーロッパ】
⦁ アメリカ :北米ではまだネイティブアメリカンの時代
⦁ ヨーロッパ:中世。平安末期には十字軍の始まり辺りになる
江戸末期に関しては、アメリカ本土では西部開拓時代で、日本に関わる外交としてのアメリカの立ち位置は、ペリーが浦賀に来航した時代になる。
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益子焼の開祖
大塚 啓三郎(1828年6月15日 茂木町福手にて生誕。旧姓:杉山)
⦁ 幕末ごろに陶業開始。大塚家の婿養子となった。家業の農業に従事する。茂木町福手の生家と益子の婿家を行き来する途中、益子の土が製陶に適していることを発見。益子の地にて作陶を始める。
⦁ 大塚啓三郎の窯は、黒羽藩の
御用窯(※1)だった。
⦁ 益子は比較的江戸に近く、
販路(※2)の心配はあまりなかった。
【明治時代の益子焼】
明治30年(1897年)ごろから海外への輸出が始まり、特に土瓶が好評で、明治32年(1899年)ごろには、アメリカへの輸出は輸出全体の3分の1を占めるまでになった。
【大正時代の益子焼】
益子焼 陶芸作家第1号
浜田 庄司の誕生。
浜田庄司によって、日用品・台所用品が主だった益子焼が、工芸品としての地位を高くしていった。
【昭和初期の益子焼】
⦁ 日中戦争(1937年 昭和12年)
⦁ 太平洋戦争(1941年 昭和16年)
上記戦争により、武器製造のための金属提供に伴い、日用品・台所用品の代替品として陶器の需要が増大。また、戦時中の農業振興のため、水田に使う排水用の土管なども制作されていた。
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益子焼が世界に羽ばたく
【戦後から現代まで】
浜田庄司の出現によって、益子焼が世界へ知られる事となる。
⦁ 個展での作品発表や、イギリス、フランス、アメリカなどでも展覧会を開いたり講演を行ったりしたので、浜田庄司を慕って修行のために益子を訪れる外国人により、益子が世界に知られるようになった。
⦁ そして1956年(昭和31年)現在のJR東日本信越線横川駅の駅弁「
峠の釜めし(※3)」の容器製造の受注によって、益子焼の生産が飛躍した。
浜田庄司がきっかけとなり、益子焼では「作家窯」という、いわゆる工芸部門が大きく発展していったのである。
益子焼の特徴
⦁ 益子焼最大の特徴は
土の質感。
栃木県内で採れる陶土は気泡を多く含むため、細かい細工には向かずどうしても厚手になってしまう。それが益子焼の最たる特徴である。その陶土の性質により、ぽってりとした温かな手触りの器という特徴を生み出している。砂気が多く、素朴な味わいを感じさせてくれる所も魅力のひとつ。
⦁ 益子焼はロクロ挽きの手法が主。型成形もある。
⦁ 民芸陶→「民衆的工芸」の略で、民衆の日常生活の中で生きている工芸品にこそ、工芸本来の健全な美があるとする。健全な美とは以下の通り。
1. 手仕事
2. 実用的な日用品
3. 無名の職人による仕事
4. 原材料など地域産の物を使う(地方性)
日常生活の中で当たり前のように存在し、食事という、人間が生きていく上で欠く事のできない行為の中に益子焼がある。生活の一部であることこそが益子焼最大の魅力と言えよう。
編集:HTS
【参考書籍】
理工学社伝統的工芸品シリーズ「益子焼」 小島英一 著
保育社カラーブックス375 日本の陶磁7「益子」 島岡達二 著
淡交社 「カラー日本のやきもの15 益子」
文=濱田庄司・塚田泰三郎 写真=藤川清
※1【御用窯】
藩の管理下に置かれて支配された。藩が資金を提供する代わりに、窯元に対して厳しく制約をしている。之を横柄なお上の所業と思うなかれ。益子焼は藩の手厚い保護と管理によって生産が伸びたのである。御用窯に関する内容は多岐に渡り、厳密に定義することは難しいとされるが、日用品を主とした益子焼に関しては、陶工・窯業を保護育成し、藩が援助したという理解ができる。茶器等、美術品に携わる事が主の窯業地とは違った解釈になる。藩が一般市場への出荷を禁じた窯元も存在するほど、窯元によって解釈が異なるのである。
※2【販路】
浅草の「遠藤商会」が庶民の娯楽として鬼の的当て遊具を製作。それに伴って、同じ浅草の陶器問屋の「マルヨ」が、的当て用の中が空洞になっている陶器の玉を益子で作らせたことも、益子焼の販路を安定させていた。これも江戸にほど近いとされる大きな窯業地が、笠間に並び益子であったためでもある。
※3【峠の釜めし】
当時、益子焼の行商人が現在の群馬県にある釜めし「おぎのや」を訪れたことがきっかけとなる。小さい器のため使い勝手が悪く、どこにも売れなくて困っていたところ、おぎのや関係者の目に留まり、その場で買い占めたのが始まりとされる。そしてその器は令和の現在でも使用され続けている。
Posted at 2021/10/29 21:30:40 | |
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