要害山城の後は、引き続いて要害山城の支城である熊城に行きました。
熊城は、史料が全く無い為、参考した本でも「要害城南遺構」「要害山出城(南城)」とか書かれてますが、最近では熊城と呼ぶのが一般的な様ですね。
熊城へは、要害山城から続くハイキングコースを深草観音方面へ進みます。
途中、吸い殻入れ(?)が置いてあるカーブからハイキングコースを外れて、右の尾根の中へ。
ひたすら尾根を下って行くと、30分ほどで熊城の遺構が見えてきます。
熊城
文献には全く現れない為、築城時期等詳しい事は分からない。
要害山城の南の防御を固めると共に、水の手を守備したと考えられている。
い 堀切
今回は、要害山城経由で熊城に来た為、搦手からの攻略になりました。
とは云え、要害山城の支城なので、此処から攻められると云うのは、想定に無いかもしれません。
ろ 土橋
主郭の東は大堀切で切られ、中央は土橋になって細くなってます。
高低差はかなりのモノ。
は 主郭
主郭を始め、熊城の曲輪の土塁は全て南側に着けられています。
南側を徹底して守る構えなんでしょう。
に 石積み
主郭の壁面には、石積みによる補強も見られます。
ほ 虎口
南側に設けられた土塁とは逆に、虎口は全て北側にあります。
へ 土塁
土塁の基底部の石積み。
此れは、要害山城にも見られた武田流築城術ですね。
と 曲輪群
此の辺りは高低差がある為、小さい曲輪が段々畑の様。
ち 畝状竪堀
熊城の最大の目玉と云える畝状竪堀。
此れも、武田流築城術の特徴の様です。
写真では分かりづらいですが、何本も狭い間隔で延びてます(要図の数はテキトー(^_^;))
此れまた執拗な南側に対する防御。
り 曲輪
一番西側にある監視的な役割があったと思われる曲輪。
此の西にある堀切も、結構深い。
此の後も尾根沿いに下に降りて、武田の杜として整備されているハイキングコースを歩いて、積翠寺へ戻りました。
約3時間の行程となりました。
参考文献:日本城郭体系8、戦国武田の城
本日は此れ切り。
ブログ一覧 |
甲州新旧武田の城 | 旅行/地域
Posted at
2012/05/10 23:23:11