2019年09月20日
短絡・浅薄化する世界に於ける “塗装済み完成品” の価値 に関する一考察
少し涼しくなってくると、また色々頭の中で考えが廻り始めるのは何ででしょう。
あーだこーだコッ恥ずかしい事をホザきだすのはいつも秋冬のような気がするw
まぁ、モヤモヤ漠然と抱いているネタは幾つか有るんですが、
“一考察” というほど話を起承転結纏められるか?というとビミョーな感じで。
あ、とりあえず恒例のBGMをどぞ。
ちょっといつもと違う毛色で、Jazzなど如何でしょう。
関西ローカルで活動しているバンドで、一度生で観て好きになりましたん。
PVではこぢんまりと纏まった音ですが、この曲、ライヴやとめっさカッコいい。
しかし…
…こういう徒然なるグダグダを書きなぐるという事自体が、昨今の世の中では稀な気がする。
今や “ブログ” というものすらオワコンになりつつあるんじゃないの?
今の主流のFBやTwitterやInstagram、どれも長い文章を書くには向かない。
その瞬間の思い付きや、見せびらかしたいネタを衝動的刹那的に呟くだけ。
短絡的。“的” というか、The 短絡。
かくいうワタクシも上で挙げた内のSNSのアカウントを持っていますし、“短絡的” な使い方もしてます。
が、
やっぱり自分の頭の中をじっくり整理してちゃんと表現しようと思うと、長文に耐えられるブログという手段じゃないと無理。
自分の中で、あくまでメインはこのブログ。
短絡的、衝動的な単純な思考が日常的常態化すると、元々使えていた頭も使えなくなると思う。
人間、“楽” に慣れると退化する。
楽から得られるモノは乏しい。
お助け装備満載の昨今のクルマ見てても思うでしょう?
本来、運転者が自分の意思と技術で行っていた事が、全て自動化されて一見楽になる。
だが、それで失うモノは意外と大きいんじゃない?
元々出来てた人が出来なくなるならまだマシ。
次の世代は最初からそんな概念が無くなる。
“楽” に慣れた人間は、底が浅い。
物事の本質を考えない。
長い文章考えたり、真面目な話し合いは苦手やけど、Twitterではやたら雄弁な人とか居るじゃないww
一概には言えないし、世代という概念で一元的に切る事は嫌いではあるけども、
やっぱり今の20代を見ていると「あぁ… “違う” んやなぁ…」と思うことも色々。
例えば。
スバル製のクルマに「86」という名前をつける。
バイエルン製のクルマに「スープラ」という名前をつける。
それって “違う” やん。物凄い欺瞞を感じる。
でもそれを素直に喜ぶ人も少なからず居る。
それは今後増えていくだろうし、
“ルノー製のランエボ” も手放しで喜ぶ子達が出てくるんでしょうね。
例えば。
結構前の事ですが、某・読者参加型の輸入車カスタム雑誌で、年度表彰を受けたクルマがいまして。
ワタクシ自身、そのクルマは所謂 “引き算の美学” でカッコいいな!と思ったんですが。
オーナーさんはそのクルマを “造る過程” が大事だったようで、完成して年度表彰を受けた後、すぐに売却していました。
あぁ、残念だけどこのクルマをもう紙面で見ることは無いんだなと。
そしたら半年後くらいにまた載っているではないか…
若いオーナーに代わってほぼそのままの仕様でまたエントリーしてる。
それってどーなの?と思う。
他人が作ったクルマを「今は俺のだから」と思える感覚。
「他人のまわしで相撲をとる」という意識が無いのね、と。
楽して得た結果からは何も身に付かない。
考えて歩んだ過程が自分の肥やしになる。
“結果” を手に入れる事だけを見て、
そこまで最短距離で楽する事だけを考えて、
そうして得たモノにプライドは持てるの?
効率良くやれてる自分が優秀だと思う?
それじゃあ、裸になった時に何も残らないよ。
それとも、
自分に何も無いのがわかっているから、焦って “結果” を手に入れようとする?
それが張り子の虎だとしても、相手によっては立派な “虎の威” を発揮する?
だが、本人がそれを張り子とわかっていない場合は憐れの極みである。
自分の言葉を語ろう。
拾った知識だけでは自分の言葉は作れない。
自分の目で見た事自分の体で経験した事と、拾った知識が合わさって初めて知恵になる。
出来上がったガンプラが凄いのではない、
それを作った人が凄いのだ。
…こんなこと言ってるともう完全にオッサンやなw
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Posted at
2019/09/20 15:00:11
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