ベレットは4月の29日に主治医のところに、人生最後のお色直しに出しているのですが、まだ戻ってきておりません。主治医のところに出す仕事は、基本的に見積りなし、期限なしでお預けしているのですが、特に今回は主治医のところから更に外注さんに出す仕事になりますので、外注さんにも主治医の顔で無理をいって頼んでいる可能性が高く、作業の進捗状況を訊くのが憚られます。素晴らしい仕上げを期待しておりますが、何か想定外のトラブルが起きて迷惑をかけていないかも少々心配です。
当然ベレットネタはないのですが、夏ですので「怪談・奇談シリーズ」を投下していきます。このシリーズは、途中から夏目漱石の「夢十夜」に因んで十話まで書こうかと決めていたのですが、これが十話目ですので、「夢十夜」のように『こんな夢を見た』という夢の話で締めくくることにいたしました。固有名詞には多少のフェイクをかけております。
こんな夢を見ている
私には人生の中で若い頃から老境に差しかかった現在に至るまで、何度も繰り返し見ている夢があります。夢で体験したことは目覚めた時に忘れてしまっていることが多いので、正確な回数は定かではありませんが、それでもその夢見は覚えているだけで、十回かそれ以上に及ぶのではないかと思います。
その夢を初めて見たのは、中学生の時でした。私の住んでいた
日四者町から西に数分歩いて行くと
鶴舞公園という大きな都市公園があり、竜ヶ池という公園の池の中では一番大きく、貸しボートを漕いで楽しむことのできる池に突き当たります。また池の中央付近には
浮御堂という四本のコンクリートの柱で支えられた東屋が設けられ、東屋の周りの柵のところを巡って、池を眺め渡すことができます。池には近くのビール工場がくみ上げた地下水の一部が地下水路を通って供給され、水路の出口から
酒匂の滝となって池に飛瀑を散らし、池から溢れた水は、渓流のような水路を通って、公園内の他の池にも流れていたものの、池の表面は静かで水の動きは感じられず、それほど深くはない池底にはびっしりとクロモが繁茂し、どんよりとした深緑色に澱んでいました。ところがその日橋を渡って浮御堂を訪れ、その東屋から池面を見下ろすと、いつもは昏く澱んでいるはずの水面が、何故か池底まで透明に澄み渡っていて、水の中に潜んでいた、それまでに見たこともない奇怪な生き物の姿が露わになっていました。池底には4メートルくらいもありそうな、大山椒魚を思わせる巨大な両生類が三匹、クロモの上にじっと動かずに身を潜めており、そのうちの一匹は浮御堂の下に下半身を置いていました。皮膚は全身白く、ゴムでできているかのように妙にぶよぶよと部分部分が歪んだ感じでした。その周りを図鑑で見たことのある古生代の魚類と思われる1mはありそうな異形の生物が何匹も、ゆったりと鰭を揺らしながら泳ぎ回っています。
池に大きな鯉や雷魚が生息していることは識っていたのですが、幼少の頃貸しボートに乗せてもらい歓んでいた船底のすぐ下に、こんなにも巨大で異形の生き物たちが潜んでいたとは! まこと
奇怪で衝撃的なその光景に、どのくらいの間見入っていたことでしょう。突然目覚めの世界へと戻り、やっと「ああっ、これは夢だったのか」と認識できたのですが、浮御堂から見た光景は心に強く焼き付いていました。そして何年か後、その夢を再び訪れた時には、まるで「胡蝶の夢」の故事のように、「この光景はやっぱり夢ではなくて、本当のことだったのだ」と思い直しているのでした。
夢の内容はその都度微妙に異なっており、夢の中で訪れる場所は、いつも竜ヶ池とは限りません。鶴舞公園の反対側の大交差点から、歩き慣れた歩道を西の大須方面に数分行ったところにある、新堀川にかかる記念橋の中央付近からいつもの
習慣で、あまり流れがなく、いつもなら嫌な臭いをたてている黒い川面を見下ろしていたこともあります。どぶ川とはいえ、前に甲羅に長い藻を生やした蓑亀が川面を泳いでいるのを見たこともありますので、何とか生物が生息できる環境のようです。ところがその時ばかりは竜ヶ池の時と全く同じように水が澄み渡り、巨大な両生類が泥底に横たわり、今の世にはもういないはずの妙に頭や口が大きかったり、頭部かに体にかけて甲冑のような皮膚に被われた古代魚たちが、川の中を泳ぎ回っている姿を見ることができました。
歳を重ねるにつれ、あまり目覚めた後覚えている夢を見ることが少なくなって、その夢を訪れる間隔が十年以上とんだと思われることもあれば、何かの機会に、その夢を見ていた、目覚めた時には忘れていた記憶が、突然甦ることもあります。
最近DVDで宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」というジブリのアニメ映画を観たのですが、その映画の中で街が津波に襲われ、水に覆われた街の中を古代魚たちが泳ぎ回り、その姿を主人公たちが小さな舟の上から見ている場面で、その光景が私の見続けていた夢とぴたりと重なり、(巨大な両生類こそ出てこないのすが)「宮崎駿さんが、私と同じ夢を訪れていたのだ」ということに気づかされました。
猫おばさん 補遺
「
猫おばさん」の話には、まだ多少の
後日談があります。
あの異様な夫婦の来訪から、二三週間経った頃だったと思います。当時独り暮らしをしていた私の自宅は、通行量の多い道路と玄関の間に、自動車が一台置ける駐車場と、草花や低木を植えられるちょっとした植え込みが設けられていたのですが、そこに痩せた貧相な感じの一匹の猫が居座り始め、植え込みの間に気怠るげに座ったり、体を伸ばして寝転がったりして、日長
寛いでいたのです。
すぐにあのおばさんの猫だろうと思い当たったのですが、あのおばさんが飼い主では、猫の逃げ出したくなる気持ちも判るので、二三日そのまま様子を見ていたのですが、一向に植え込みから立ち退く気配はありません。
このままでは、あのおばさんがうちの玄関前に自分のところの猫がいるのに気づくのも、更に血相を変えてやってくるのも時間の問題です。しかし猫を保護して
撞球屋に連れて行くのも、猫にとっては死刑宣告を下されるのに等しく思われ気が引けたので、親しくしている向かいのお好み屋のおばさん(「猫おばさん」に登場する町内の出来事にも詳しい人)に話をしてみたところ、何と「行方不明の猫は、既に戻っているらしい」とのことです。
猫が自分で戻ってきたのか、どこかご近所で保護してもらっているのをあの夫婦が見つけだしたのかまでは判りませんが、あれだけ迷惑をかけたご近所の家々には、報告やお礼の言葉もなかったようです。「きちがいじゃが仕方がない」 かの
了然和尚なら、そう呟く場面かもしれません。
植え込みの猫は特に面倒をみた訳でもなく、更に数日経って姿を消していたのですが、このタイミングで素性の判らない猫がうちの玄関前に居着いていたのも、また不思議な出来事のように感じられます。
完
Posted at 2025/07/12 11:47:45 | |
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