2箇所目に立ち寄ったのは岐阜城。
でも金華山の頂上にある本丸や天守閣には行かず、その麓にある施設を見学します。
そこには信長がこの地を治めた際に作った「信長居館庭園」があり、近年その発掘が進んだとのことなので、その見学に行ってきました。
庭園入口は山の南寄りにあります。
冠木門をくぐると当時の様子を再現したCGイラストがありました。

かなりの規模であることが分かります。
奥へ進むと両側を石垣で固められた通路がくねくねと続きます。
その先にいくつもの居館が現れるという配置で、それら建物同士が廊下で繋がっていたそうです。

ちなみに建物は再現されていませんが、現地の立て札にあるQRコードをスマホで読み取れば、VRで当時の建物などが再現された状態を見ることが出来ます。
居館前には滝が流れる庭園も作られていたり、敷地内を横切るように川が作られています。
その奥には美しく朱塗りされた三重塔がそびえ立ち、その脇には巨大な岩石の絶壁がそそり立ちます。

ここに塔を配置したのは高名な日本画家の川合玉堂だそうです。
こうした光景はこの時代にはなかなか見られるものではなく、訪れた人たちをさぞ驚かせたことでしょう。
この頃の信長は尾張を統一し美濃に手を伸ばし始めた頃。斎藤道三の領有する稲葉山城を攻め落とし、その名前を岐阜城に変えたことは有名ですが、岐阜の名前は中国の岐山から来ているとのことから、この時既に信長は天下統一を明確に意識していたと言われています。
実は先々週、小牧山城を見に行きました。
ここも信長が攻め落とした城ですが、ここの最大の特徴は大手門から本丸に向けた直線の大手道。普通の城は攻め手が一気に押し寄せないように通路は何度も屈曲させるのが一般的です。
そこをあえての直線。
これは城を軍事拠点としてだけでなく政治的な象徴として存在させるという信長の意図であるとされ、同様の作りが岐阜城の前の信長の居城だった小牧山城にも見られます。
信長はこの時点で「政治」を意識していたわけですが、同時に「天下統一」まで意識していたかを城の作りから推察することは困難です。しかし岐阜城下に造られた居館庭園は、来訪者へのおもてなしが意識されていること、更には信長の力を誇示するという意図が伝わってくることなどから、天下という「その先」を意識していたことが明確に感じられる施設と言えます。
この居館跡は現在も工事中です。
どこまで復元するのか不明ですが、建物まで復元されれば岐阜城天守閣とセットでの一大コンテンツとなって多くの観光客が訪れる目玉スポットになると思います。

「その時」を待ちましょう。
さて、お城でお腹いっぱいになった後はキャンプ場へ。
設営後にちょっと読書してから昼寝しました。
夕飯はコンビニ無料クーポンでもらったホタテ蒲鉾スティックとじゃがりこマッシュポテトと竹輪。
この日は月の出が遅かったので、晩酌後に外へ椅子を出して星空をまったり眺めました。この時期はまだまだ冬の星座が天頂近くにあり、多くの一等星が見られます。
ぼんやり眺めていたその瞬間、流れ星が!
願い事を唱えられるほどの長さではありませんでしたが、流星群でない日では久々に見ました。
この瞬間、嬉しすぎてガッツポーズまで作ってしまいました(笑)
よし、星に願いを込めつつ、信長ばりに大志を抱くか。
って、この歳で持つ大志って何?(笑)
今回撮影した写真はフォトアルバムに収めました。
小口城(愛知県大口町)・岐阜城下信長庭園(岐阜県岐阜市)
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城めぐり | 旅行/地域
Posted at
2025/03/26 10:23:38