俳諧をしてたら、こんな記事を見つけました。
都合の良い事は、ウリナラ、都合の悪い事は、イルボン(笑
沢山、捏造した歴史を織り込んでます(笑
1950年代に竹島不法占拠し、日本人を排除に成功・・・・何故か
日本人が、ニホンアシカを絶滅させた事になってます(笑
乱獲したのは、韓国人。
面の皮が厚く、東方無礼の国。
この1950年代に、竹島不法占拠を阻止出来なかったのは、残念で
仕方がないです。
ウィキペディア「ニホンアシカ」
絶滅への推移 [編集]
江戸時代から20世紀初頭 [編集]
江戸時代に書かれた複数の文献においてニホンアシカに関する内容が記述されている[3][19]。シーボルト『日本動物誌』には、ニホンアシカのメスの亜成獣が描かれている。「相模灘海魚部」(彦根城博物館所蔵)にも、不正確ではあるがニホンアシカが描かれている。明治維新頃の日本沿岸域におけるニホンアシカの生息数は、3-5万頭以上と推定される[9]。
1879年(明治12年)に神奈川県三浦市南下浦町松輪の海岸で捕獲されたメスのニホンアシカを描いた正確な絵図が、『博物館写生』(東京国立博物館蔵)に残されている。少なくとも1900年代までは日本各地に生息していた。しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけて、多くの生息地で漁獲や駆除が行われ、明治40年代には銚子以南から伊豆半島の地域でみられなくなり、同時期の1909年(明治42年)の記録では東京湾沿岸からも姿を消し、記録がある相模湾、三河湾周辺の篠島・伊良湖岬[7]、瀬戸内海[3]の鳴門[20]などの日本各地に生息していた個体群も20世紀初頭には次々と絶滅に追いやられ、その棲息域は竹島などの一部地域に狭められていった。
20世紀初頭から太平洋戦争中 [編集]
1900年代初期から戦前にかけて複数の動物園や水族館でニホンアシカが飼育されていた[3]。
竹島周辺のアシカ漁は、1900年代初頭から本格的に行われるようになった。乱獲が懸念されたため、1905年(明治38年)2月22日に同島の所属を島根県に決定、同年4月に同県が規則を改定してアシカ漁を許可漁業に変更、行政が許可書獲得者に対し指導して、同年6月には共同で漁を行うための企業「竹島漁猟合資会社」が設立されて組織的な漁が始まり[18]、同年8月には当時の島根県知事である松永武吉と数人の県職員が島に渡り、漁民から譲り受けたニホンアシカ3頭を生きたまま連れて帰り、県庁の池で飼育していたがまもなく死亡し剥製(後述の各高校に所蔵されていた内の3頭)にした、と山陰新聞(当時)が同年8月22日に伝えていた[5][21][22]。アシカ漁では平均して年に1,300-2,000頭が獲られており[18]、1904年(明治37年)からの僅か6年間で14000頭も捕獲するなど、明治大正年間の乱獲によって個体数・捕獲数共に減少していった[11][23][24]。
昭和初期には見世物として使用するため興行主(木下サーカス・矢野サーカスなど)から生きたままのニホンアシカを求める依頼が増えたが、その需要に応える量を確保することが難しい状況になっており[18]、1935年(昭和10年)ごろには年間20-50頭まで落ち込んでしまった。捕獲量が最盛期のおよそ40分の1にまで激減したことや、太平洋戦争勃発の影響で、戦中アシカ漁は停止された[18]。
戦後から1970年代 [編集]
戦後は竹島関係の事例が複数報告されており
1950年代初期に50 - 60頭の目撃例[1]。
1951年(昭和26年)に50 - 60頭の存在確認[10]。
1951年(昭和26年)11月に鳥取県立境高等学校水産科が竹島に行く際、実習船と並んで泳ぐニホンアシカを目撃した証言[5][22]。
1953年(昭和28年)6月に実習船で竹島を訪れた島根県立隠岐高等学校水産科(現・島根県立隠岐水産高等学校)の当時の指導教官、岩滝克己らが竹島周辺でニホンアシカを目撃しており[5]、同島で韓国鬱陵島からワカメやアワビ漁のため渡航していた三人の韓国漁民に会い、食料が乏しいというので持参した米とタバコを差し出すと「捕まえたアシカを料理してごちそうすると話した」という証言[25]。
1950年代に竹島を占拠していた独島義勇守備隊により、アシカが20 - 30匹ずつ群れをなして泳いでいる姿を目撃[26]。
1958年(昭和33年)、竹島周辺の個体は200-500頭程度の少数の個体[27]が生存するとの報告。
1950年代後期の推定生息数、竹島で100頭、全生息域で最大300頭[10]。
などが挙げられる。
朝鮮戦争中には韓国兵が射撃訓練の的として使ったとの噂もある[28]。
1950年代以降に竹島以外の地域においてもニホンアシカの生息・目撃記録が公式に確認されている
青森県久六島[1] - 1950年代初期まで少数が繁殖
サハリン南部[1] - 1950年代
カムチャッカ半島南部や北千島での死体発見や目撃[1][29] - 1960年代
北海道礼文島で幼体捕獲 - 1974年(後述)
などの事例がある。
WWFによると、繁殖は1972年(昭和47年)まで確認されており[29][30] 、捕獲された個体が韓国の動物園で子供を出産したという記録が残されている[31]。
1974年(昭和49年)[10]に礼文島[9]で幼獣一頭が捕獲され[1]、1975年(昭和50年)[10]に竹島で韓国の自然保護団体が目撃した記録が現在における最後のニホンアシカ目撃事例となっており[12][17]、以後は生息の情報は得られておらず、絶滅したものとみられている。
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「日本の漁夫が独島アシカを絶滅させた」韓国のテレビ番組が放送し話題に
韓フルタイム
2011年05月09日09時00分
韓国MBCの番組は8日に放送した『不思議なTV サプライズ』で、竹島(韓国名・独島)周辺に生息していた「独島アシカ」が絶滅したのは日本が乱獲したせいだとする内容の、アシカに関する取材番組を報じた。
「独島アシカ」とは絶滅危惧種の「ニホンアシカ」のことで、19世紀ごろまで日本沿岸部に幅広く生息していたが、1970年代中盤の目撃記録が最後で今は確認されていない。竹島周辺が主な繁殖地だったことから、韓国では「独島アシカ」と呼ばれている。
番組によると、1980年代にソ連で開かれた世界自然保護国際会議で、絶滅した動物の原因に関する話し合いが行われたのだが、この中で日本の代表が「世界的にも貴重なニホンアシカを韓国の警備隊員がすべて食べて絶滅させた」「ニホンアシカが絶滅した責任は韓国にある」と公然と非難したのだという。
番組では、「日本は韓国に汚名を着せた」と強く反発。「日本の漁民は1904年から11年まで竹島周辺の海域で1万5000頭あまりのアシカを乱獲した。1950年代の中頃まで乱獲は続き、絶滅した」「日本は多くのアシカを捕獲し絶滅させたにも関わらず、国際会議で絶滅理由を韓国に転嫁させた」と述べ、アシカを絶滅させたのは日本だと指摘した。
また、「日本人漁業者の中井養三郎はアシカ猟がお金になるのを知り、竹島周辺での漁業権を日本政府に求めた。これに肝付兼行海軍中将は、竹島に人が住んでいないことを確認したうえで日本の領土に含ませ、アシカ猟の漁業権も与えた。のちに日本は竹島を島根県の所属に決定した」とし、日本の竹島領有権主張はここから始まったとの見方を示した。
さらに、ニホンアシカ「Zalophus japonicus」(Peters, 1866)という学名についても反発した。番組は、「最初に学術記録に残した米国人のピーターが、日本の海岸でアシカを見つけたことから名前をニホンアシカとした。しかし、朝鮮王朝室録はピーターが発見するよりも前にアシカが独島周辺で生息していたことが記されている」と述べ、韓国の方が古くから生息が確認されていると主張した。
現在韓国のインターネット上には、「独島アシカが日本によって絶滅したとは…ショックだ」「日本はアシカだけでなくクジラも乱獲している。許せない」「絶滅した理由を韓国のせいにするなんて!!」など、日本を批判する怒りの声が大量に寄せられている。