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kotaroのブログ一覧

2014年09月23日 イイね!

parisへの長き道、ルーマニア

夜汽車から始まった旅は、ルーマニアで1泊して
その翌日5時に起きて6時の列車に乗る。
バリデーションという言葉を覚えたほど
出発前の切符の検札が重要だ。
ブカレスト駅のどの窓口に並んでいいのか判らない。
この時に駅にいた2人組の男がくせ者だった。
案内してくれた窓口でことなく検札を済ませて朝一の列車に乗る。
ホームの端の1等車の位置まで教えてくれる。
車内まで入って来てここで怪しいと思った。
いきなり「サービス料」をたかり始めたのであった。
ひとり10ユーロをよこせと言う。
昨夜のパンやビールの値段でこの国の物価を知っているので
too expensive!!と文句を言いまくったが、こんなところで大立ち回りしても
車掌も乗り込んでいない時間だ。どんな暴力に合うだろう。とくに片方が屈強なガタイの男だ。
仕方ないが私も妥協して1人5ユーロ渡してやった。
これでルーマニアの印象は決まった。
朝6時に私を乗せたルーマニア国鉄の国際列車は、夜明け前の首都ブカレストを出発した。
もう2度とこの国にくるものかと、怒り心頭だったが、夜が明け始めると
トランシルヴァニア地方に到る、この国の大地の風景に、目を細めた。


Posted at 2014/09/23 08:25:38 | コメント(2) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年09月21日 イイね!

東欧の鉄道と自動車

東欧の鉄道と自動車

旧共産圏、社会主義の国は1989年後半に、雪崩を打ったように
国是を転換した。

その当時、新聞社にいて、毎日ニュースを追い掛けていた私は、その後の
1991年の湾岸戦争までが、一つの時代の転換点だったと見る。

新聞小僧には、ニュースはバッターボックスで飛んで来る球の一球に過ぎず
なんのことだが深い意味は考えていなかった。

あれから何十年も経ち、今の世の中に繋がる流れのことや、その15年後に
行ったバルカン半島鉄道の旅で、いろんなことや長い歴史の目で見て
1945−1989年の44年間は暗い時代とひと言で言えるのか、今でも考えている。



タイトルと次の、セピアの写真はルーマニアの駅だ。そしてカラーの朝早い風景は
ブルガリアである。





低いホーム。列車を待つ人の姿。そして電気機関車が引く長い客車列車は
日本でも1970年代には、比較的都市近郊でも、残っていた。仙台、札幌、北九州
あたりのことである。

私はそれが電車の頻繁運転になった今でも、方式がベストか、すぐに考えてしまう。

東欧の風景は、国力が小さいので貧しい。この貧しいと言う表現は正しいのか
今はそのことも、考えている。

ブルガリアでは、パスポートに入国、出国の判を押されただけで、プラットホーム
上にときどき、降りただけである。
そんな旅って、想像がつくだろうか。

同じコンパートメントの、がっしりした5歳上の男性は、ルーマニア人で、
英語が出来た。船乗りらしい。
仕事が終わったので、アレキサンドリアで上陸して、故郷に帰る。
首都ブカレストに住んでいるらしい。

この人がいなかったら、真夜中のトルコ出国、ブルガリア国境での深夜の
列車入国は、遥かに心細いものであっただろう。

真っ暗な駅構内を200m以上歩かされて、その間、荷物はコンパートメントに
置いたままである。海外旅行を一人ですると、度胸はつく。
しかしどこでどんな運命に合っても、文句は言えない。





これは前日に、夜行列車の切符を買いに行った、イスタンブールのシュルケジ
駅である。ここから出発した夜汽車は、真夜中の古代ローマの遺跡の街を抜けて
ギリシャに近い、国境の町、エディルネ(アドリアノープル)に向かう。

この3日半の鉄道旅行は面白かった。
ルーマニア国鉄の汽車(車両、箱)はバルカン半島をくまなく走っている。
昔の大国の片鱗、共産主義の優等生だった証拠なのだろう。
機関車はトルコ、ブルガリア、ルーマニアで替わり、翌日の夕方頃、
寒々としたダニューブ(ドナウ)川を渡り、終点のブカレストに着いた。

ここで駅前のチェルミナと言った名前の安宿に泊まった。
シャワーも壊れて、国内では信じられないユース級であるが仕方が無かった。
夜の町に絶対出てはいけない。なぜならお前は、そこで「友達になろう」と
声をかけられた男に、メディスン(酒に薬を入れられて)殺されて、
変わり果てた姿になるだろう。

イスタンブールで3日泊まり、親しくなったイン(宿)のおやじが、次の訪問地を
ブカレストと言ったとたんに、顔色が変わり、忠告した。
私はびびったが、それでもチェックインした後は、外の町が見たかった。
アルコールは駅のキオスクで買ってその場で立ち飲みしてラッパ飲みした。

これならメディスンは入れられないだろう。
酔っぱらわない程度に、ブカレストの町を見て歩く。古いダキアと言う言葉の
響きに憧れる。この国のオンボロルノーたち。

ブカレストの淋しい市場で、パンを買ってみた。
その娘は精いっぱいの笑顔で渡してくれたが、包み紙も袋もなく、そのままである。
私は一瞬、はっとしたが、女のコのくれたお釣りは合っていたと思う。
寒い心の旅にほんのちょっと、灯がともり、私はその晩固いベッドの上で
寝返りを打ちながら、旅することの意味を、反芻していた。



Posted at 2014/09/21 07:57:50 | コメント(2) | トラックバック(0) | 鉄100% | クルマ
2014年09月18日 イイね!

パリのエレジー、パリのラプソディー

パリのエレジー、パリのラプソディー先に写真だけ投稿してしまったが
2004年9月にフランスのパリに居た。

最終日の一日前に、時間が有ったので宿の主人に
「時間が有るのだけれど車が好きなんだ」と話すと、
メトロの何番に乗り、ここに行くと良い、と
コンベンション・ビューローみたいな所を教えられた。

行ってみて判った。「2004Palis Mondial」が開かれていた。
幕張メッセの東京モーターショーも行ったことがないのに(笑)。

大体、この旅は出掛けるときからつまづいた。
梅田阪急のバスセンターで空港バスに乗り込む際に
大慌てで卸した10万円の日本現金を、関空に行くまでに
掏られたか落としたのである。

被害届を出して、結局その日のエールフランスパリ便を見送り
翌日の、エール機に並んで頼み込んで、乗せてもらった。

普通は安いチケットでは無理だと言うのを、3人がけの真ん中で
フランス人の女性と、外国人とに挟まれて、12時間かけてパリに着いた。





エコノミー症候群にはならなかったが、鉄道の旅に較べるときつい。
2日いる予定だったパリを1泊になったので、自力で宿の位置を見つけて
住宅街の中のプチホテルに泊まった。
それでもその夜は、近所に飲みに行った。



翌日は、またCDG(シャルル・ド・ゴール空港)へ戻り、イスタンブール便に
乗り込む。今度は国内線のような飛行機だ。

でかいCDGで、トルコに行く飛行機が見つかり難い。
下手な英語で何人か尋ねて、やっとコミュニケーションが取れた。

その際に上から写した待合室の風景。



そして、パリよりずっと暑い、大阪のようなイスタンブールに3日いた。







3日目の夜に、イスタンブールのシュルケジ駅(オリエント急行の発着だった駅)
から、ルーマニア行きの「深夜鈍行」に乗り込む。



翌朝目が覚めると、窓の外は心が凍るような淋しい風景に変わっていた。
そこは東欧の入口、ブルガリアだった。

この話はしばらく続きます。


Posted at 2014/09/18 05:03:15 | コメント(3) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年09月15日 イイね!

パリのオートモビル2004

パリのオートモビル2004








あれは10年前の2004年パリモンディアールでのことだった。





Posted at 2014/09/15 15:41:11 | コメント(2) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年09月11日 イイね!

10年前の欧州旅行

10年前の欧州旅行2004年の敬老の日から彼岸まで10日間ほど
一人でヨーロッパに旅行してきたことがあった。

行って来たのは、パリとトルコのイスタンブール、
それにバルカン半島の東欧の諸国である。

当時勤めていた会社に、勤続20年で、
休暇を貰い、こういう制度がまだ往時は、
残っており、働く人の一つのご褒美であった。


ふと、あれから10年後の自分の境遇と、この10年の
ヨーロッパ社会を、振り返ってみることにしたい。

最初の一コマは、最近話題のルノー12を、当時はまだルーマニアで
ダチアの名前で引き続き生産していた。

ルーマニアの国土は行けども行けども、この車ばかりが、走っており
ローカル都市での、私の乗った列車と、踏切風景でダチアを写してみた。




首都ブカレストでは、もっと古いダチアも見かけた。
ルノー8そのものである。

排ガスが、大昔のままで、交差点の信号が変わると、一斉に煙が漂う、
日本の1970年頃みたいな風景だった。

東欧の崩壊は1989年のビロード革命だが、15年たち、諸国の格差が
出始めていた。ルーマニアとブルガリアは、まだEUに正式加入できておらず
遅れが目立ち、国境を鉄道で通過する度に、パスポートの厳重なチェックが
残っていた。



この写真の車は古いフィアット124系だ。
ラーダかもしれないし、トルコで作っていたムラートかもしれない。

イスタンブールの裏路地は、古いフィアットのセダンが好きな私が
喜びそうな風景が残っていた。



日本では131ミラフィオーリで知られた、131セダンがたくさん残っていた。
もちろん、フィアットでなくトルコの国産ムラートのノックダウン車である。




トルコの石畳は、ほんとうに絵になる。
私の写真でも、十分に上手いように見えるであろう。

古いインパラが、妙に似合っていたのも印象的であった。

一方今度はパリの風景から。



こういった、庶民の大衆車の歴史が、明確で、日本人の思っている
輸入車のイメージ=高級車というのは、一部の幻想だと思った。



この3枚もパリの裏道である。
説明は不要であろう。

まだ、みんカラも、Facebookも無い時代で、私は夢中で車の居る風景を
写し回った。
こういった写真専門の仕事で食って行けたら、などと当時は新聞社に
勤めており、甘い考えで転身のことを考えていたのである。



写真はすべてアナログである。
フィルムをスキャンし直したら、もっと鮮明になるであろう。

当時はまだ、古い機材で、ホームページを作っていただけである。

今、この10年を振り返ってみると、自分自身も、訪問した諸国も、
正に激動の時間が流れていたことに、思い当たった。

日本では、新聞社が、かなり時代の隅に追いやられて、こんな余裕のある
従業員待遇は、無理に近い空気になり、私は5年後に退職した。

ヨーロッパでは、この10年間、通貨としてのユーロが進んで、東欧のルーマニア
やブルガリアもユーロ圏に入った。

しかしギリシャ問題や、イタリアの経済の後退、そしてこの時代は
フランスとドイツは、ヨーロッパの盟主国として比肩されていたが、シラクの
後の東欧系出身のサルコジがちょうどこの頃、大統領となり、強権的な
政治を行った後に、フランスは大きく失墜した。

帰国数ヶ月後にパリ郊外で、若者と低収入労働者の大きな暴動があった。
それを予兆した、ちょっとした出来事が、パリ滞在中にあったことを
続きで書いてみたい。
Posted at 2014/09/11 05:14:11 | コメント(1) | トラックバック(0) | 古家ぶる~す | クルマ

プロフィール

「やっぱり。言わんこっちゃない。「トヨタ、センチュリーを独立ブランドに クーペ開発でラグジュアリー市場拡大」https://x.com/i/trending/1977788758218219921
何シテル?   10/14 09:32
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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