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2025年01月21日 イイね!

鉄道ジャーナルの休刊情報に思うこと

鉄道ジャーナルの休刊情報に思うこと自動車雑誌の現状について、特にコメントをすることは避けている。
一方、自動車趣味とは、観点が違うのだが、鉄道趣味のことは無関心ではないのだが、自分が好きだった子供時代、半世紀前とアプローチが違って来て、自分のベクトルと乖離したので、鉄道雑誌は80年代の後半で新刊を買わなくなった。

その後の40年近い時間に、鉄道趣味の人口はずいぶん裾野が広がり、社会現象にもなっている。

しかし撮り鉄問題などの顕在化の陰で、老舗3誌の一角が、ついに撤退するという情報が出て、残念がっている人の多くは、私が買わなくなって以降の、90年代以降の「鉄道ジャーナル」関係者だと思われる。


なんで鉄道趣味はこういう市民権というより立ち位置になっていったのかを、自動車趣味の岸から考えてみたい。

1950年代前半創刊の「鉄道ピクトリアル」、60年代前半の「鉄道ファン」。
そして60年代の終わりに当該の「鉄道ジャーナル」は切り口を変えて登場した。
学生運動、市民運動の盛んだった時代に、SLブームど真ん中に「ジャーナリズム」の旗で直球を投げて当雑誌は登場した。

私は1973年に初めて買った鉄道雑誌が「鉄ジャ」である。
特集が参急2200の一生と引退迫る阪急の旧デイ100の特集で、関西私鉄の戦前の名車である。関西に縁の深い私は痺れた。両電車とも引退迫る前で、その頃はこういう切り口でスポットを当てるのかと、大変趣味の入り方として、中学生には参考になった。
難解なピクトリアル、ちょっと豪華なファンに対して、ジャーナルは参考書臭が当時はしたのである。



創刊編集者の竹島紀元さんが九州の出身ということも、後に知って、当時は島内にいた私は興味を持った。
今調べると1926年生まれらしい。創刊時は40代ということになる。

竹島さんは、今でいう自己中の鉄道ファンでなく、若い頃の投稿も、いっぽ引いた目線の鉄道愛好家であったが、自分の考える「雑誌とはこういうもの」をやりたくて夢を実現された。
自動車の雑誌で言うと、カーグラフィックを作った小林彰太郎氏とその辺の経緯、年齢は似ている。

私は雑誌が成功して、収益媒体になっていき、最後はスピリットがなくなり生活のための給料労働になって、解散や廃刊になった例は、山ほど記憶している。

それは講談社や集英社といった、巨大な出版社はサラリーマンと思うが、それでも本を出すと言うのは最初は志である。
そうやって考えると竹島さんの死後10年、RJ(ジャーナル誌)はよく続いたと思う。




参考書臭という言葉を使ったが、趣味雑誌というのは一種の啓蒙という言葉の活動である。
カーグラフィックも自動車趣味の黎明の時期に出て、ディレッタントと暮らしの手帖的な、自動車を実地に使ってのトライアル雑誌だった。
当時の若い読者は手にとって「おおっ」と声を上げて「そうだ」と共感や思うことが多かっただろう。それが趣味の雑誌の黄金時代である。

ロックとかの音楽趣味も何もかもが、20世紀の頃は若かった。
それには1945年に戦争が終わり、焼け跡から何が生まれて来たかというと、趣味である。
生活が大変でそれどころでない時代に、民衆はすぐに娯楽と趣味を求めた。
1950年から60年代の終わりまでの20年間が、揺籃期だったと思う。

小林彰太郎も、竹島紀元も、平和な時代の到来に「これからは好きなことをやる」という覚悟で臨んで戦後10年が終わってから始めたのである。

ここが今、21世紀が迷いの時代になって長いのだが、鶏と卵論みたいに、何がやりたいのか判らない人生の人が随分増えてしまったと思う。

そろそろ纏めていくが、やっぱり創刊編集者がいなくなり、薫陶を受けた世代も引退すると、本や雑誌はルーチンワークで作るだけのものになる。
特に今の時代はネットやパソコンの中が万能すぎて、生きることや働くことまで、方法論を手引きにしてしまい、迷うと「ここに書いてあるよ」と余計な親切な人が現れて、次の時代はAIがやってしまいそうである。



「鉄ジャ」の休刊、事実上の廃刊撤退は、趣味をテーマにした雑誌が、何をやりたいのかを、その目的行動する対象に、撮り鉄問題のような社会現象に対して、明確な処方箋が出せなかったことへの、リグレットがあると思われる。

要は「なんでもあり」の時代に、鉄道趣味を志す者はこうあるべきが、追いつけなくなった。自動車趣味の雑誌も、もう知識と情報はネットで十分の人が増えていき、カラーを打ち出せなくなった所から消えていった。

さて最後に、こういう時代になって、こういう時代を生きる我らは、何を参考書にしたら良いのであろうか。
もう雑誌もメディアも役目を終えてしまったように自信を無くして、会社は残っても空っぽになっている。
正月明けの年頭の投稿を書いている私も全く判らない。

しかし鉄ジャの創刊当時には、確固たる編集方針と、そこに集まってくる大衆に対するアピールややりたいことが、設計図に描かれていた筈である。

今年はやはり、自分はこれから何をしたいのかを、原点やスタート地点に立って考えて見るべきではないかと思う。
情報に踊らされて動く撮り鉄のような存在を、あなた自身がどう思うのかだけだと思う。
Posted at 2025/01/21 05:41:55 | トラックバック(0) | 鉄100% | 趣味
2017年09月01日 イイね!

クルマ以外の話題のこと

クルマ以外の話題のこと
8月の前半は、仕事をせずに有給休暇を使い、優雅でもないが久々の長期旅行に出ていた。


その中で、九州の直方市で、SLの保存と復元に務めるひとつのNPOとの出合いが有った。

「汽車くらぶ」と言い、各地の引退後に静態保存されているSLの整備や、場合によっては移転の交渉、簡単にいえばSL全体にレスペクトを持ち、これを評価の対象まで社会活動していく団体である。



この人たちとなぜ、接点ができたのかは、SNS上の偶然である。
最初は私の故郷にあるSLの、消滅危機からであった。その話題に反応し、現役当時の写真をポストしたところから、はじまった。

昨年の5月に、1台の保存SLの復元活動がスタートして、秋までにみごとな手腕で、地元と一緒に活動する様を、横から見させていただいた。私も1日手伝いに向ったのである。



この赤い錆び止めを塗られた個体が、解体の危機にあったD5110号機で、今は直方市で復元作業中でバラバラになっている。




クルマ好きのページに、こんな話題を書いてみたいと思った動機を話していこう。

トップのコマ写真が、ここに今来ている59647号の、お別れ運転で、1974年12月の写真である。
このロコは、引退後保存されていたが、一時外観が傷んでいた。
いろいろな経緯で汽車くらぶが引き取り、現役当時の状態に近く復元されたのである。

今実際、火を焚かない以外は、圧搾空気でここまで動くようにされている。
私が驚いた「レストア」の状態を、動画で見て欲しい。



今回、本拠地は初訪問であった。一緒に行った大学時以来の鉄道好きの友人も喜んでいた。

そこで感じたことを書く。自動車の好きな人は、これまで個人の世界と、繫がりの輪の範囲で、趣味を維持出来た。
ところが、今後は自動車は消滅の危機も迎えるだろう。

45年前くらいに全廃したSLは、私鉄とJRで保存以外は、有志で持つことは、ほぼなかったが、保存SLに風化の危機が出てから、この分野が再燃した。
良く出来た組織があると、不可能が可能になってきたのである。

この人たちは意識も変な意味でなく高い。

では、僕らクルマ好きの今後の延長線はどこに着地するのだろうか。
そんなことを、強烈に感じていたのである。



今の段階では、私はこんな情報があると、紹介したに過ぎないが、私は昔から、英国人の趣味のやり方と、関わり方に興味がある。

それはクラブ社会の意義と意味でもある。

彼らは、一時世界を支配した、有能な国民だが、経済的影響力が低下した後、何に向ったか。
それは趣味の文化を高めたことではないか。スポーツ、ゴルフ等、英国の文化は深い。

切手収集、そして自動車趣味、いろんなことに精通している。

東南アジアにおける日本の意味は、趣味文化を、どうやって優雅に高めて、また偏見を排し、反対に判っていない人びとへの啓蒙と、社会への働きかけではないだろうか。


かつては、マスコミが優雅な職業だったが、今は見る影が薄い。
しかし21世紀にすべきことは、今の世の中の流れに棹をさし、私は稚拙や遊戯に近い文化、(趣味面性の洗い直しと再研究)の構築ではないかと、思い直している。


ちょっと力んでもいけないが、こんな投稿である。
自動車に乗り、好きな者たちが、もうちょっと意識を変えていけないか。
現実はうんと遠くなったけれど、暑い夏の道のりを走りながら、頭に浮かんだ幻想である。



Posted at 2017/09/01 12:27:03 | トラックバック(0) | 鉄100% | 旅行/地域
2014年09月21日 イイね!

東欧の鉄道と自動車

東欧の鉄道と自動車

旧共産圏、社会主義の国は1989年後半に、雪崩を打ったように
国是を転換した。

その当時、新聞社にいて、毎日ニュースを追い掛けていた私は、その後の
1991年の湾岸戦争までが、一つの時代の転換点だったと見る。

新聞小僧には、ニュースはバッターボックスで飛んで来る球の一球に過ぎず
なんのことだが深い意味は考えていなかった。

あれから何十年も経ち、今の世の中に繋がる流れのことや、その15年後に
行ったバルカン半島鉄道の旅で、いろんなことや長い歴史の目で見て
1945−1989年の44年間は暗い時代とひと言で言えるのか、今でも考えている。



タイトルと次の、セピアの写真はルーマニアの駅だ。そしてカラーの朝早い風景は
ブルガリアである。





低いホーム。列車を待つ人の姿。そして電気機関車が引く長い客車列車は
日本でも1970年代には、比較的都市近郊でも、残っていた。仙台、札幌、北九州
あたりのことである。

私はそれが電車の頻繁運転になった今でも、方式がベストか、すぐに考えてしまう。

東欧の風景は、国力が小さいので貧しい。この貧しいと言う表現は正しいのか
今はそのことも、考えている。

ブルガリアでは、パスポートに入国、出国の判を押されただけで、プラットホーム
上にときどき、降りただけである。
そんな旅って、想像がつくだろうか。

同じコンパートメントの、がっしりした5歳上の男性は、ルーマニア人で、
英語が出来た。船乗りらしい。
仕事が終わったので、アレキサンドリアで上陸して、故郷に帰る。
首都ブカレストに住んでいるらしい。

この人がいなかったら、真夜中のトルコ出国、ブルガリア国境での深夜の
列車入国は、遥かに心細いものであっただろう。

真っ暗な駅構内を200m以上歩かされて、その間、荷物はコンパートメントに
置いたままである。海外旅行を一人ですると、度胸はつく。
しかしどこでどんな運命に合っても、文句は言えない。





これは前日に、夜行列車の切符を買いに行った、イスタンブールのシュルケジ
駅である。ここから出発した夜汽車は、真夜中の古代ローマの遺跡の街を抜けて
ギリシャに近い、国境の町、エディルネ(アドリアノープル)に向かう。

この3日半の鉄道旅行は面白かった。
ルーマニア国鉄の汽車(車両、箱)はバルカン半島をくまなく走っている。
昔の大国の片鱗、共産主義の優等生だった証拠なのだろう。
機関車はトルコ、ブルガリア、ルーマニアで替わり、翌日の夕方頃、
寒々としたダニューブ(ドナウ)川を渡り、終点のブカレストに着いた。

ここで駅前のチェルミナと言った名前の安宿に泊まった。
シャワーも壊れて、国内では信じられないユース級であるが仕方が無かった。
夜の町に絶対出てはいけない。なぜならお前は、そこで「友達になろう」と
声をかけられた男に、メディスン(酒に薬を入れられて)殺されて、
変わり果てた姿になるだろう。

イスタンブールで3日泊まり、親しくなったイン(宿)のおやじが、次の訪問地を
ブカレストと言ったとたんに、顔色が変わり、忠告した。
私はびびったが、それでもチェックインした後は、外の町が見たかった。
アルコールは駅のキオスクで買ってその場で立ち飲みしてラッパ飲みした。

これならメディスンは入れられないだろう。
酔っぱらわない程度に、ブカレストの町を見て歩く。古いダキアと言う言葉の
響きに憧れる。この国のオンボロルノーたち。

ブカレストの淋しい市場で、パンを買ってみた。
その娘は精いっぱいの笑顔で渡してくれたが、包み紙も袋もなく、そのままである。
私は一瞬、はっとしたが、女のコのくれたお釣りは合っていたと思う。
寒い心の旅にほんのちょっと、灯がともり、私はその晩固いベッドの上で
寝返りを打ちながら、旅することの意味を、反芻していた。



Posted at 2014/09/21 07:57:50 | トラックバック(0) | 鉄100% | クルマ
2014年08月08日 イイね!

少年と鉄道模型

少年と鉄道模型今年の夏休みも8月に入った。
僕はだんだん少年時代のことを
懐かしく思える年代になった。

4年お付き合いのある少年がいる。
彼はペーパーで鉄道車両の模型を作る。
市販部品は全くに近い、使わずに全部自分で作る。
そして、小さな仕事は神の領域に近いことを
やってのける。

昔は模型少年はいっぱいいた。
私もかなり自信を持ち、細かな台車まで自作していた。
当時はキハ04系などの菱枠台車が市販されていなかった。

幻のパーツを求めて、広島や京都・大阪、東京の模型店まで出向き、
北九州から出て来た少年が、「ジャンクボックスを見せて下さい」と
店員のいるカウンター内に上がり込んで、売れ残った動輪や
ベンチレーター類を箱から書き出し、少ない小遣いで、
「これくらいの値段で売ってください」と中1くらいから行脚をして来た。

怖いもの無しには恥も無かったのである。

そんな僕は大学の鉄道サークルに入り、活動の中心になるまで模型製作を
続けた。ほかに、それほど打ち込むことがなかったからと思う。



僕は50を前にしたころ、とても道に迷っていた時期がある。
自分はサラリーマンで、会社の仕事をして、給料をもらい、家族に使い
あとは珍しいクルマを持っていることを得意になってるだけの、おやじ。

酒を飲み、ちょっと女性に持てたくらいで、うれしがっている男。
子供の頃に見た夢や、希望はどうなったんだろう。
青雲の志はどこにいったのか。

あっさり会社を辞める前に、若い人にとり、これからの社会はどう生きて
いくのがいいのか、それくらい語れるようになりたいと思った。
今はその意味が、おぼろげだったのが見えて来るようになった。

ソーシャルという概念と新しい時代の社会主義を重ねてみようと思う。
だから、家の外に出た。昔の人はうまいことをいう。出家と言った。

ボランティアで自分の個性と器用さを活かせるように、第2のデビューを
するようになった。
ぎこちないのはいけないので、自分のカラを若い頃から作らなかった。

そして2010年の5月連休の青葉の下で、ある少年と知り合った。
大きな声で、怒鳴って、つっこむオッサンも何人かいて、その下で震える
小鳥のような少年だった。

一生懸命模型が好きですと言うのを聞いて、私は自分のことを重ねていた。

おれもこんな時があったし、その時に指導者も先生もいなかった。
誠文堂新光社の本と、図書館にある朝日新聞の鉄道年鑑を借りるところから
スタートした鉄道模型と実物趣味の人生。
大分の片田舎では、同じ趣味の友人もいなく、大人でやっている人と出会う
機会も無い。

DMCのロックなギャグ漫画の主人公みたいに、勘違いしてるのか、実は
本質良い線をいってるのさえ判らない。
僕はそんな時代を生きて来た男なのである。

だから都会に憧れた。情報にあこがれたから、その一番大元の仕事
マスコミに行くと、田舎を出たときから決めていた。



私は弟子を取るような男ではない。
自分の3人の子供より若い少年に、模型とは、と道を説明した。
自分の旧作の一部を見せて、こうやってリアルを追究しなさいと言ったら
立ち所に理解して、師匠以上のものを短期間で作れるようになった。

ほんとうにこういう出会いのために、会社を後にしたと思っている。

自分の潜在能力について、おじさんたちはどのくらい理解出来ているだろう。
もちろん少年野球のコーチのような判りやすい例はあるが、
単細胞が単純に教えるのはいけない。

少年の目の高さで、球筋が見えていないと、自信過剰な親が
なぜこんなこともできないの、と叱る図式と全く同じだ。

私は模型のことでは、もう教える域ではないと考えるが、良い刺激を
若い人からもらった。
ソーシャルとSNS的概念の時代は、こうやって実践すればよい。

今日はだから、この人の模型の作品展を、ご案内する。
『ペーパーモデル・クロニクル』(松山秀太郎君作品展)


会場は阪急甲陽園線の途中駅、苦楽園口駅の真向かい。
1階がローゲンマイヤーのパン屋のあるビルの3階、6cギャラリーである。
ビルの裏にある住居棟入口の階段で3階まで上がって下さい。


http://www.galerie6c.net/






会期は今日を含めて土曜と日曜まで。
時間は本日は20時まで、明日と明後日は11−18時です。

3階のギャラリーの窓からは、苦楽園口の駅がこんなふうに見えます。
最後に、作家さんは「何を見てこられました」と必ず聞くので
『ラテンでゴメン』、イエィ〜!と答えて上げて下さい。
実物作品を見ると、誰でもビックリしますと思います。
イエィ〜


Posted at 2014/08/08 14:44:06 | トラックバック(1) | 鉄100% | その他
2014年05月14日 イイね!

阪急沿線

阪急沿線クルマネタもあまり無いので違うことでも
書いてみよう。

私の住んでいる町は、5年前に阪急電鉄が100周年を
迎えたその頃に、引っ越して来た。
この古い家の裏側に、105年前に箕面有馬電気軌道が
最初の車庫を設置した場所の、すぐ近くなのである。
その車庫は、昭和47年まであったが手狭になり、
川西に移転した。


阪急という会社は、甲府の隣、韮崎出身の小林一三が、三井銀行の
サラリーマンを早く辞めて、大阪にやって来て、国鉄に吸収される前の
福知山線の前身の私鉄の監査役をやり、その次に仕事が無くなり会社を
立ち上げた、ところから始まる。

今は東急グループの方がずっと大企業だが、一時期は東宝グループを含めて
日本一の私鉄系企業グループだったことがある。
東急の経営も、阪急に教えを乞いて田園調布の歴史は、始まった。

池田という町は中世からの歴史を引く古いところで、小林はなぜここが
気に入り、本拠地にしたのであろう。
山の手の建石という地区に、豪邸というよりは数奇を凝らした邸宅を建て
一時期はそこに松下幸之助らも、日参して茶道の友と経営を学んだらしい。

私の近所に住む70代の女性は、よく飲めるので、今日は昔話を聞いていた。
すぐ近所にある銭湯の近くに住まれる彼女は、庶民派の生き字引である。
お父さんが阪急に車庫係で採用され、勤めて電気技師になり、最後は
百貨店や関連施設の電気保安全般の、責任者まで昇ったらしい。

関西電力という会社は、戦前の宇治川電気、京都電灯、大阪市電気局などを
集めて母体とするが、戦後の歴代社長、大田垣士郎や芦原義重らはいずれも
阪急から関電に行ったくちである。



だから関電と阪急というのは特別な関係が長かった。
関西財界のトップと阪急のトップは身内みたいなところがあった。

この女性、戦前生まれであるが、彼女の家は今で言う「オール電化」で
電気式湯沸かし風呂、電気式パン焼き器(トースターでなく大型のグリル)
何でもかんでも最新の、見たことも無い電気製品だらけであったらしい。
しかしお父さんが昭和25年に52歳で他界する。その後長姉が阪急百貨店に
勤め出し、三姉妹で家を切り盛りする。

こういうストーリーを聞いていると、カンの良い人は朝ドラにもなった
ある小説を思い出すだろう。NHKの「てるてる家族」、なかにし礼の
原作は、親戚のいしだあゆみ一家の実話であり、これは戦後の池田市の
駅前を舞台にした連続小説だったのである。
これでデビューした石原さとみも、もうすっかり大人のオンナになった。

阪急という電鉄は、電車の塗装の色を開業時から、かたくなに茶色を
守っている。戦前は国鉄も私鉄も大半が茶色い電車や客車であった。
戦後に自由な時代が来て、昭和25年の国鉄湘南電車80系から、濃緑と
オレンジのツートンカラーが始まった。
私鉄も追随して昭和30年代までに日本中の電車は明るい色に変わった。

これって、一種の文化革命なのだが、歴史をきちんと教えている本は少ない。
阪急はなぜ、色を塗り替えなかったのか。
おそらく昭和32年まで生きていた創業者の小林一三の強い意向で、
「余計なことはしない」「他所に追随しない」、この2点であったのだろう。



関西にいると、東京では不思議に思われることが、普通で気が付かぬことも
多い。
阪急文化は、浪速のこてこて人情を排したクールで冷たい所がある。
いま、小島直記の小林一三伝を読んでいるのだが、やっぱり経営者として
極力べたっとした人付き合いを避けている。
それは小林が、フォリナーだったことと、古い大阪財界に背を向けて
日本全体に通じる企業を作ろうとしたところに、よく現れている。

宝塚歌劇と言う何とも不思議なワールドがある。
先ほどまでの庶民派に対して、田園調布のモデルになった、日本最初の
サラリーマン向け分譲地、室町住宅育ちの59歳女性に登場してもらおう。
彼女もよく飲む。

独身姉妹の姉の彼女は、宝塚と歌舞伎の追っかけで、人生の生き甲斐を
費やしてきた。
憂いも無く、羨ましいような戦後日本の安定した時代がそこにみえる。
この装置(仕掛け)を発案したのも小林一三である。

彼女たちが育った100年住宅の住宅地に住んだのは、大阪の安定した
収入のあったサラリーマン。お父さんはサントリー系企業に勤めていた。
寿屋(現サントリー)は鳥居家が雲雀丘花屋敷に住んでいた関係で
阪急沿線に、人的関係が深い。
私学、雲雀ヶ丘学園もサントリー系である。

私は日本と言う国の歴史と、現在と、行く末について今考えている。
東京のように、多くを望まなかったら、過去の資本や財産で、そこそこ
食って行けるのである。
先行投資が回収できるのは10年くらいが適当であろう。
ヒステリックに強靭化計画を唱えなくても、先見の明のある技術者や
経営者が、人間的に切瑳すれば、何とでも世の中は切り開けるし、
池田市のように、過去の遺産で10万市民が、暮らす例もある。

この町には景気経済が良かった昭和40年代までは、宝塚ホテルの支店があり
映画館も数軒、いろんな文化ファクターがあったらしい。
それを支えたのは、阪急グループの底力と、ダイハツや地元の企業など、
働き手が正当なサラリーを貰い、活発な消費活動があったからである。

それはだんだんと重心が東に移っていったり、社会構造の変化で影響が
現れているが、まだ何とかなっている。

華やかだった神戸線は、震災で西宮北口の方がずっと都会らしくなった。
京都線は横ばいの業績であろう。開発は市内は無理だが、国際的な
観光都市であり、ホテルとセットで、京阪神を3日で回るような切符と
宿泊をシニア層に売り出せないものだろうか。

阪急はアイデアの宝庫である。
先進的かつどん欲な意志を持った経営者が1世紀以上前に始めたビジネスに
たくさんの人が乗っかって今日も走っている。
私はこの情報社会に、一三のような人物が生きていたら、どんなアイデアを
捻り出していただろうか、考えてみる。

Posted at 2014/05/14 03:23:52 | トラックバック(0) | 鉄100% | クルマ

プロフィール

「AI構文と少子化の時代 http://cvw.jp/b/176891/48478480/
何シテル?   06/10 02:28
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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趣味とかその対象はどうなっていくのか 
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2020/04/01 18:15:22
タイ製L70ミラ・ピックアップのすべて 
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2015/02/22 10:52:34
春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
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2014/05/11 05:49:46

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