
2013年4月の自動車イベントは
昨日の丹波ワイン「チャオ」でほぼ終了。
ことしは「さやま池まつり」が自動車見世がないらしい。
というので、参加できずは、富士ジャンボリーと
米子クラシックカーと、高雄の2回目の3つ。
エントリーは風邪を引いたチームヤマモトと昨日の
チャオで元を取り返したくらい。
競馬で言うとプラマイ、沈み気味だが楽しんでいる。
きょうは何を書こうかと言うと、自動車イベントの展示をするのを、
ちょっと控えようかと言う気になってきた。
コンテスト出場しても、私の愛車ではもっと「すごいだろう」みたいな
外観か、個体自体が、超稀少な車種の前では印象が霞みがちだと、最近
思うようになったからである。
要は祭りに参加しても、このクルマ自体がノリ切れていないと、感じている
からである。
最近は、本当にモーターカーのイベントが増えてきた。
イベントの考察については、随時書いているが、展示参加目的だと、
ある程度“時代に媚びない”といけない。
それを私は、由しとしないし、クルマの方も、ぶっきらぼうで外観、雰囲気
共に1970年代から1980年代のまま、加齢しただけの状態で、乗り続けて
いる。
稀に1000人に1人くらい、私のクルマの“そのまま感”を刺さってくれて
「すごいです」と言ってくれる人が、いるが、今日のイベントでは、埋没
することは、否めない。
それが「そろそろ潮時かな」と思った理由である。
私の解釈が間違っているのかもしれないが、米国を除いた諸外国では、
自動車と言うのは、ある程度オリジナリティー重視の筈である。
私の自動車は、オリジナルを重視して、塗装外観、内装に、最大限の
ポイントは「京55」時代のライセンスプレートを持続して、当時のまま
を、残すようにして乗り続けてきたことである。
私が近年の自動車趣味に一つだけ警鐘を上げれば、目立ったもの勝ち
みたいな視線に、自己の研鑽や趣味に於ける、より透徹して行く深みと
いったものは、あまり無いように思われるのである。
以前はブログにこのような私見を書くと「人の趣味に何をしようと勝手だろう、
いちゃもんをつけるな!」と抗議して、去って行く人がいた。
それなら読まなきゃいいし、いちいち高説(になっていない)垂れる必要も
ないと、思った。
それにしても、日本の自動車趣味の世界は、世の好況不況と、比例せずに
独自の深化は進んで来ているように思われる。
しかし、敢えて言いたいのだが、僕はリアリティのない趣味は、趣味でないように
思われるのである。
そのことについて、たまには説明しよう。
まず、(新車)当時の日本を知っているか、想像することの必要がある。
後年の人間でも、「勉強」は、できる。古本や、当時の雑誌、今なら
ユーチューブで残された動画さえも見ることは出来るようになった。
理解は最初の段階はあくまで、知覚である。この時に「判った!」
とあまり得意になられない方が良い。認識と言うのは時には誤解する
ことも多いからである。
そこである程度、当時の時代状況が摑めたら、21世紀のこの日本、
極東の島国において、その車が走っていることが、「正しいか」どうか
反論、反芻してみる必要がある。
だから私は、この日本である程度のロータスエランや、アルピーヌルノー
A110がいることは、判るのだが、こんなに走っていていいのかな?
ましてみんなで(仲間で)つるむ、というのは、野暮ではないのかと、
時には思ってみる必要を、よく考えるのである。
これがリアリティの問題だ。
私の様に古くから趣味をしている人間は、現状を決して嘆いてばかりいる
訳ではない。むしろ昔より情報と、部品流通と、整備性、整備力のアップ
した、この21世紀ニッポンに感謝はしている。
私の昔の上司が、当時、「◎◎クン、君ねぇ、新聞作りと言うのは、
リアリチィが無いと駄目なんだよ、わかるかね?」と,20歳以上年上の
名部長は、朝から口から唾を飛ばしながら、部下たちに仕事の精神の
ことを説いていたのを思い出す。
たかが夕刊紙の1面作りにも、リアリティーが要るのである。今何年何月の
何日で、きょうはどんな事件が継続中で、どんな事件が解決したのかと。
趣味って、人間性とか時代性とか、阿呆みたいに乖離して良いものかと
僕は思うのである。
お金があるから、これくらいのことはしても良いだろうと、50代や60代で
役員や退職金を持った男性が、鴨になっている風景を僕は見掛ける。

最近の旧車の値上がり傾向は、ゴルフ会員権相場のようである。
GTーRや432でないハコスカや初代Zも、100万どころか、倍近くする
時代である。
ポルシェも356は2、300万でとても買えないゾーンになり、911の初期も
上がり、底値の頃は90万で良い個体を見掛けた930型も、いまは人気が
出だしたので安いものはなくなった。
ロータスエラン、アルピーヌA110、ルノー8ゴルディーニは、
最近の作られた人気の御三家のように、嬉しそうに乗られる方が
集まられるように、増えてきた。
嬉しさは大事な要素である。車に乗ることの意味の中でであり、その
華やかな輪に、“デビュー”することは、80年代半ば以降、この国の
クラシックな自動車世界の、最大引力として存在してきたと、私は思う。
さて、3桁のナンバーになって、ナンバープレートの存在価値や意味性が
うんと薄くなった。そのくせ公開の場では目線や恥部のように隠さなければ
ならない。
もうヒト桁は、1969年頃以前なので、入手も難しいし、二桁も20年近い
前の記憶になりつつある。
モーターイベント自体に、どんなナンバーで乗り付けても、違和感を言う人も
減ったし、簡単には、ちょっとした努力でも昔のナンバー車は、手に入らない
現状になってしまったこともあるだろう。
でもこれも僕は、一種のリアリチーの崩壊だと、個人的に思っている。
どんな車に、どんなナンバーで乗ってきても、イベント自体がフィクションと
思っているようだし、祝祭はバニティフェアで、歴史的連関は、あんまり関係
ないようである。
そんなところに、超リアルな車が置かれるのは、もしかしたら、浮いてしまう
ことなのかもしれない。
というよりは、ギャラリーも、クルマ芸人のようなゲスト解説者も、
その意味すら理解できていなかったとしたら、リアルな旧車を
フィクションの中に並べ続けることは、どうなんだろうな、と
思った次第である。