
今年から、この読書感想文の書き方を変えました。
以前は、月末に纏めて一気書きしてましたが、
先月から、一冊読んだ時点で書いて下書き保存してます。
以前よりも記憶がフレッシュな内に書いているので、一冊あたりの感想が長くなってますw
全体が長くなって読む気失せるパターンですねw
It is 書き手の独り善がり!www
ウィリアム・アイリッシュ 『幻の女』 (1942)
原題『Phantom Lady』
「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」
妻と喧嘩し、宛もなく街をさまよっていた男は、風変わりな帽子を被った見ず知らずの女に出会う。
彼は気晴らしにその女を誘って食事をし、劇場でショーを観て、酒を飲んで別れた。
その後、帰宅した男を待っていたのは、絞殺された妻の死体と刑事たちだった。
女と一緒に居た事を説明し、刑事たちと一緒にバーや劇場を回るが、誰もが女の存在を否定する。男は見たが女は見ていないと。
男は逮捕され、有罪が確定する。
たった一人、彼のアリバイを証明できる “幻の女” はどこにいるのか?
「ミステリの不朽の名作」。
多くの作家・作品に影響を与えた大家の代表作、ということで「読んどかなアカンやろ( ̄▽ ̄)」的な部分もあって(HR/HMで言う、“Smoke On The Water” や “Pain Killer”、“I Want Out” みたいなもんか)読んでみましたが、確かに面白い。
最初に挙げた有名な書き出し一文に代表されるような、独特の詩的で美しい文体が続く。
(同じ “詩的で美しい” 文体でも、テグジュペリのそれはあくまで写実的であるのに対し、こちらは “切り取り方・捉え方” のセンスが美しい)
あたかもセピア色のフィルターを1枚通して語られるような、垢抜けた流麗な世界に惹き込まれる。
“存在否定” ネタも古今東西色々あれど、ハイテク機器の無い時代が舞台なので(80年近くも前の作品というのが意外な感じ)、トリックはアナログで物理的だが、
それゆえに今の時代の物語には無い、叙情的な味わいがある。
その辺り、ワタクシが今まで読んだモノの中で挙げれば『誰がコマドリを殺したか』や『新車の中の女』に通じる、(21世紀のハイテク世界に生きる身としては)何処か牧歌的な安心感も。
どんでん返しのシナリオプロットが面白いのもあるが(「えー、結局そゆこと?」という感もあったけど)、リリカルな文体の美しさも勿論、完全なハッピーエンドではなく、どこか読後に哀愁の余韻が残る部分の上手さ。
ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 (1984)
タイトルからして哲学的、読んで更にsemantic(意味的)。
メタファーのオンパレードで、薄皮を一枚一枚捲るように人間の心理・行動分析を子細に掘り下げる。
誰もが何となく漠然と思っているが具体的にはなかなか説明できない人生の機微や人間関係の本質等を、事細かに丁寧に(時に神経質に)分析して並べていく様は、いかにも東欧的だなぁと思う(笑)。
小説でありながら、心理学や比較文化論、社会学の研究論文のようである。
タイトルは、紀元前6世紀の哲学者・パルメニデスの考えに、ニーチェの “永劫回帰” と、チェコの諺「一度は数に入らない」を重ね、
人間の送るたった一度の人生、一度の選択など取るに足りないものという基本的テーマ。
最も重い荷物というのは、同時に最も充実した人生の姿である。
重荷が重いほど、我々の人生は地面に近くなり、いっそう現実味を増して、より真実味を帯びてくる。
それに反して重荷が全く欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地上の存在から遠ざかり、なかば現実感を失い、その動きは自由であると同時に無意味になる。
浮気性の男と、それに惚れた若い女。
その男の愛人の女性画家、更にその愛人の男。
この四人をサンプルに様々な価値観、考え方、見出だすsemanticを比較する。
この “浮気性の男” という言葉も色んな見方ができ、どういう動機でその行動に至るのかを覗くと、人それぞれ違ったモノが出てくる。
相手に対してただ単純に肉体的な快楽を求めるのか、精神的な充足を求めるのか、或いは相手に何か象徴を重ねているのか、己の内面の探究心や好奇心を刺激する鍵を求めているのか、
端から見たらただ一言 “遊び人” となる者も、その内面は様々なのだろう。
それに惚れた若い女も、その恋のスイッチは、6つの偶然と象徴的なメタファーの重なり。人はそれを安直に運命と呼ぶ。
運命の巡り合せと呼んでいるモノを一つ一つ解体していけば、なんて事はない偶然の積み重ねでしかない。
また
同じ物、同じ場面を見ても、同じ行動をしても、そこに見いだすsemantic(意味)は人それぞれ違う。
同じ言葉を引いても、辞書(人)が違えばその意味は違う。
…という感じで、コ難しい理屈っぽい話が続きますが、哲学的な物思いが好きだったり、愛というモノに対してシニカルな想いを抱く人(w)は絶体好きだと思う。
Red13指定 必読図書
アーシュラ・K・ル・グィン 『闇の左手』 (1969)
原題『The Left Hand of Darkness』
日本では『ゲド戦記』で有名な作家。
それよりも前に発表された “ハイニッシュ・ユニバース” シリーズの1冊。
遥かな過去、超高度な文明を持つ惑星ハインの人々が、数多くの居住可能な惑星に人間型生命の種を蒔いた。やがてハイン文明の衰退と共に植民地も忘れ去られるが、再興を遂げたハイン文明は(テラ=地球を含む)かつての植民星を次々と再発見していき、80にも及ぶ惑星は連合を組み、それぞれの文化や技術を共有した。
そんな植民星の中でも最果てに位置する惑星ゲセン。“冬” の意味で呼ばれるこの星ではかつてハイン文明による遺伝子操作実験が行われ、ゲセンの人類は両性具有であった。
惑星連合からの使節としてゲセンに単身降り立ったゲンリー・アイが、ゲセンの二大国の政治に翻弄されながら、現地人の一人と共に、ゲセンの連合加入への道筋を模索する。
極寒の惑星、その二つの大国、都市の街並み、気候、社会文化、慣習、神話。文化人類学的な切り口で語られるそういった背景描写が非常に緻密で重厚で、一つの世界が確かな質感を持って存在する。
タイトルの闇の左手という言葉には続きがあり、
「光は闇の左手、闇は光の右手。二つは一つ」と本文中で語られ、本書の大きなテーマの一つである “二元論” を象徴する。
光と闇、生と死、太陽と影、男と女、恐怖と勇気、背信と忠誠、といった対立するモノのイメージ。
その内の一つ、男と女という
性の双極に対して
両性具有という思考実験的な大きなテーマを持ち込んでいる。
しかし、この二元論的な切り口は(それこそ一冊前の中で触れたパルメニデスの言うような)絶対的な極論ではなく、
陰陽の如く、お互いがお互いを受け容れ、必要とし、活かし合う関係として描く。
別にこの作品・作家に限らずSF全てに言える事だが、
“人類 (や、それに準ずる存在)” を用いて世界観を構築する以上、そして
著者自身が地球人類である以上、想像力の限界がある。
惑星の設定だって、そんなに都合よく地球にそっくりの環境ある?とか、太陽と月が当然のように存在したり。
距離や温度の単位も結局、マイルで語られたり、気温に関してはゲセン人は華氏で地球人は摂氏で言ったりと差異は演出してあるが、結局それも “我々の世界” のモノ。
更に作中に二つの大国が出てくるが、これも(時代背景もあると思うが)資本主義的なものと社会主義的なものの対比になっているように思う。
“リアル” ということに対して人それぞれ求めるモノは違えど、せっかく世界観を丁寧に深く作り込んでいるのに勿体ないなとも思う。
(それならばいっそ、グレッグ・イーガンの『ワンの絨毯』のような、人類世界とは全く異なる顕微鏡レベルの異星生命世界を描いてくれる方が “リアル” に感じる)
その辺りの作り込みが素晴らしい作品として、PS1時代のゲームであるが『ゼノギアス』を特筆したい。
長さを表す単位シャール、速さの単位レプソル等、細かい世界観もオタク趣味的な仕事で作り込み、作中世界の歴史も勿論しっかりと描く。ネタバレになるが、シナリオも数千年に渡る輪廻転生の神話から、人間の高次元への進化のようなもの。実際ゼノギアスには、様々なSF著名作へのオマージュが多々散りばめられていて、愛情とも取れる拘りによる、過剰なまでの作り込みが架空の世界に血を通わすのだろう。
ゲームという枠組みを超えても、そういった世界観設定の深さでゼノギアスを超えるモノには未だ出会わない。
アレイスター・クロウリー 『黒魔術の娘』 (1913)
原題『At The Fork of The Roads』
自称 “20世紀最大の魔術師” たる著者の短編集。
《黄金の夜明け団》在籍の過去や、その後自ら魔術結社《銀の星》を組織したり、自宅にテンプル(祈祷室)を構えて骸骨を置いていたり、自身は転生を繰り返しており誰これの生まれ変りだと主張したり、
…どこまで本気なのかどこまで冗談なのか…
しかし、これについては作中の一文が正に的確な回答になっている。
芸術は、芸術もそれ以外のものも《高等魔術》であると思って貰いたいが、とにかくそれら芸術というものは聖なる絵文字の体系なのだ。芸術家すなわち秘儀参入者は自己の密儀を組み立てるのである。
取り残された世間の連中は、咳払いするか、理解しようと試みるか、理解した振りをするかだ。真理を得るものは殆どいない。
芸術家の技術的能力は言語の明晰性にかかっている。啓発の度合いは関係無い。
確かにな、と。
ガチなのかポーズなのかは所詮他人があーだこーだ詮索した所で答は出ず、本人の頭の中にのみ答がある。
(本人も解っていないという事例もあるだろうがw)
ある意味、そこはどっちだろうが構わないし、それで良いと思う。
要は
受け取る側がそこに何を見出だすかの問題であり、全ての宗教はそれで説明がつく。
(ブログというモノもそういう一面があるしねw)
そしてクロウリーは、ジミー・ペイジ、リッチー・ブラックモア、オジー・オズボーンらを始めとするHRミュージシャンらを中心に多くの人々にその “影響” を与えた。
当然そこからブラックメタルに繋がっていくわけだし、そこでより強くクロウリーの世界観が引き継がれている。
短編10作、中編2作からなる本書だが、前半に並ぶ短編の中には、正直悪趣味なだけで面白いと思えないものも有り。
だが後半のやや頁数の多い話になるとダークファンタジーの魅力が溢れていて、どこかハーラン・エリスンにも似た、理不尽やアイロニーから来る美意識も感じる。
読了後にもう一度序盤の短編を読んだらまた印象が変わる気もする。
なるほど、芸術も魔術の一つであるとすれば、この世はファンタジーに満ち溢れているし、概ね誰もが魔術師たり得る。
一理あるし、その “魔術” になら掛かってみよう。
1947年に没したクロウリー、その次の転生した姿は
デーモン小暮閣下なんじゃないか?ww
ティムール・ヴェルメシュ 『帰ってきたヒトラー』 (2012)
再読。
前回のは
こちら。
機会があって、映画版をレンタルして観てみたので。
どんなものでも、小説版と映画版を比べると、映像化された方は中身が薄くなるのは常ですが、残念ながらこれも例に漏れず。
小説でこれでもかというくらいに盛り込まれた、“史実に基づくパロディ” や 徹底したシミュレーションによる “ヒトラー的思考回路” ネタの半分以上が流れてしまっていて、(仕方ない事とはいえ)より大衆受けを意識したマイルドな表現に落ち着いてしまっている。
また小説版と映画版の最大の違いは、小説では最後までヒトラーがヒーロー的に受け取られるように描いているが、映画版では一片の陰が射す。
活字を読むよりもライトな層が視聴する可能性が高い以上、読み込まないとわからないブラックユーモアよりも、視覚的にわかりやすい投げ掛けを入れないといけないというのも映像作品ならではですね。
…というか、単に、
世間体的な大人の事情か。
やはり原作の小説で読まないと、正解の無い問題提起のメッセージ性は伝わらないかと。
作中でヒトラーが発する毒舌の数々は、決して間違っていない。

「悪いことばかりではなかった」