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Red13のブログ一覧

2019年05月31日 イイね!

5月の読書

5月の読書GWの間丸々一切本に触れていなかったので、単純計算で通常よりも1/3少ない読書機会。
他にもドタバタしていたので、まぁ3冊か…(・ε・` )
年間50冊目指してがむばるぞぉー(笑)。










 デイヴィッド・C・テイラー 『ニューヨーク 1954』 (2015)

原題『Night Life』


現代史のお勉強。
1954年。冷戦真っ只中のニューヨーク。
マッカーシー上院議院を首とする “赤狩り” の嵐と、それに群がる者。
長官フーヴァーの独裁的運営により権力を増し秘密警察めいているFBI。
発足後まだ歴史の浅いCIA。潜伏するKGBの細胞、コミュニズム。
そして、共産主義と同等以上に弾圧の標的となる同性愛。



…という基礎知識を一通り理解していると、少し先のシナリオ展開がだいたい読めてしまうのは、“小説を楽しむ” という点に関してはマイナスかも?(笑)
しかし、それだけに止まらない “読ませる魅力” に富んだ作品。

市警とFBIの管轄争い、FBIとCIAの同じく首の突っ込み合い、FBIの腐敗、等はスパイアクション物でももはやお馴染みの題材だが、
本作はそこに冷戦という時代背景の下に、赤=共産主義とゲイという、当時のアメリカ社会にとっての二大悪を絡め重ねて、壮大な陰謀劇に仕上げている。

“基礎知識” に明るい人だと、これだけ言えばもうネタバレ同然ですかね。
本文中にも出てくる譬えで言うと「見張りの監視は誰がするのか」という話。


本国では既に続編が出てるそうで、
主人公キャシディのイカしたガールフレンド・ディランとのワケアリな別れ方のその後が気にはなるけど、
この一作で完結させておくのも良いんじゃないの?と思う。
しかしやはり、“歴史的裏付け” のある題材は面白い。
書く方は膨大な資料漁りに恐ろしい労力を費やすのだろうけど、読む方はただただ「読み応えがある!(°∀°)」ってなもんでw










 S・L・グレイ 『その部屋に、いる』 (2016)

原題『The Apartment』


やはり自分はホラーやオカルト系のネタは楽しめないと思った。
どうしても科学的根拠や筋の通る説明で全体像を示して欲しくなる。
本作にはそのどちらも無く、個人的には何も面白くない(爆)。
過去に読んだホラー系の話では『クリムゾンピーク』『領主館の花嫁たち』等は、歴史背景の描写が良かったりドラマ性が強くて、読ませてくれる雰囲気があったけど、
これは世界観や背景の作り込みも浅いなぁ…と。
遠く離れた場所の著者二人による共著、というのも影響してるか。

本作に限らず、ホラー全般に言えるのは
謎に(納得のいく)説明が無く謎のままで説得力が足らず、故に「パズルのピースが埋まっていく感」が乏しく、故に謎解きのカタルシスが薄い。
ミステリ物でもネタの核がオカルトだと一気に白けてしまうワタクシ。
ホラーはよく吟味しないとダメだな。(¬_¬)










 マイクル・クライトン 『パイレーツ ―掠奪海域―』 (2009)

原題『PIRATE LATITUDES』


『ジュラシック・パーク』『アンドロメダ病原体』等で知られる作家の遺作。

原題の直訳は「海賊の緯度」、“新大陸” の東 北緯10°~30°、カリブ海を指す言葉。
カリブ海を舞台にした海洋冒険モノ。かといって某ジャック・スパロウ船長的な雰囲気ではありません。
本作の主人公達は、海賊とは似て非なる “私掠人(しりゃくにん)” と呼ばれる人々、
免状を得て他国の船や土地の略奪を行う、“国家公認の略奪者” である。

17世紀当時、世界で最も強大な国家は、いち早く海軍力を伸ばしたスペインである。
カリブ海の勢力図もほぼ全域がスペインの植民地であり、後進国のイギリス、フランス、ネーデルラント等が僅かな領土を有していた程度。
私掠行為はその後進国らが大国スペインに対して行うのが主。
スペイン本土へ送られる金銀財宝を奪えば、直接的にスペイン王家の財源を減らせるし、逆に本土からの物資を奪えばカリブ海でのスペインの版図を削る足掛かりになる。

しかしその行為を、国家が表立って行うと即座に国際問題になる。
ので、あくまで表向きは「海賊が勝手にやった」体で、裏では委託契約公務員な海賊兼傭兵に汚れ仕事を任せるということ。
いつの時代も政治の世界はそんなもの。
汚れ仕事とはいえ、元々海賊=誰からも犯罪者 である私掠人にとっては、少なくとも自国からは罪を問われないという事には大きな意味があり、大規模な私掠遠征を成功させれば富も名声も得られる。


本作の登場人物達は架空だが、多数の実在人物をモデルにし、当時の私掠人のイメージの見本のようになっている。
そんなキャラクター達による、これまた当時の私掠航海の醍醐味を “全部乗せ” で、連発花火のように息も継がせぬ展開で魅せまくる著者の手腕が素晴らしい、一級品の冒険小説。
(そのぶん幾らかやり過ぎ感で嘘クサかったり、ご都合優先でリアルさに欠ける部分もあるがw)
必読、とまでは言わないけれど、本棚に残しておきたい一冊。


これはあくまで個人的な推測ですが、
ワタクシの好きなゲームの一つ『アサシンクリード4 ブラックフラッグ』は、本作に大きく影響を受けている気がする。
本作の発表が2009、AC4BFの発売が2014。
舞台となる年代と場所にやや違いはあるが、AC4BFの主人公も私掠船の船長として、敵船との艦砲戦や襲撃拿捕、要塞への潜入、ハリケーンとの戦い、未開のジャングルの探検、総督や私掠人との駆け引き等、本作を映像化したような内容が盛り沢山。
逆にワタクシはゲームを先にやっていたので、ブリッグ・ガレオン・戦列艦等の艦船のサイズ感も、頭の中でハッキリ明瞭にイメージが浮かんで楽しかった。











 機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』







5月1ヶ月かけて、1期2期合わせて18巻50話を完走。

実に泥臭い。
奇麗事・偽善の塊のSEEDなんかとは雲泥の差。
個人的に非常に好きになった作品。

確かに2期のシナリオには賛否両論、むしろ批判の方が多いんではないかと思う。
1期は全25話通して一貫したビジョンでよく纏まっており、最初から全話書いてあったんだろうな、という印象。内容も主人公達の出世物語として気持ちいい。
が、2期は序盤からシナリオに迷走感があり、主人公達が大人の陰謀に巻き込まれて疲弊していく様が続き、結果的にはそれまでに得たモノを全て失う。
作中ならず、制作の現場でも “大人の事情” が色々と動いていたんだろうと想像に難くない。
バッドエンド的な展開はOVAならともかく、TVアニメというエンターテイメントとしてどうなの?という感もある。
しかし、トータルして見れば、“命の糧は戦場にある” という作品テーマは貫かれている。
後味の悪さはあまり感じない。

三日月は、色々なモノが欠落しているが、故にシンプルで純粋な “獣” 的な強さがある。
政治的な状況や、相手の主義主張、美学、哲学、そういったモノ全てを「ごちゃごちゃウルサいよ」と叩き潰す三日月の姿には、どこか羨ましさもある。
対してオルガは、組織の長として葛藤し、人間的な苦悩を抱えながら、己の信念を貫く。
その姿もまた強い。

最終盤でオルガや三日月が言う「進み続ける事に意味がある」という旨。
安住の地や成功、名声等を得たところで、そこで立ち止まって腰を下ろしてしまう事に疑問を感じるという考え。
それならば、“死ぬまで生きるために戦い続ける” という彼らの姿こそ、純粋なエネルギーに満ちている。
名瀬の死も、シノの死も、オルガの死も、三日月の死も、
望んだ形では無くとも、そこにはプライドが満ちている。

従来のガンダムシリーズと違い、MSが “頑丈” なのも特徴の一つ。
被弾→即爆発 なんてする?ってのはワタクシ自身も前々から思ってはいたので、本作のなかなか壊れないMSはリアル。
飛び道具が致命傷を与えられない、ということで行き着くところはドツキ合いw
相手の頭部(モニターカメラ)を破壊するか、コクピットを破壊するか、が主な撃破方法。
作中最強の兵器が “杭を撃ち出すレールガン” というのも良い。
極太のレーザーを出されるよりよっぽど説得力がある。

作中何度か目にする、三日月の乗るバルバトスの鬼神か悪魔の如き一騎当千の戦い。
そこで発散されるリアルな生の感情の奔流が、本作の一番の見どころではないか。
三日月の放つ冷たい言葉にゾクリと興奮する。

しかし、終盤の展開や、マクギリスのビジュアルから、
どうしてもWのトレーズ閣下が思い起こされる。「私は敗者になりたい」。
また0083も “敗者達の物語” というコピーがついていた。
確かにオルフェンズはバッドエンドかもしれないが、それでも敗者達の最後のプライド、生き方の美学は、清々しい。




Posted at 2019/05/31 09:00:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 活字部 | 日記
2019年04月30日 イイね!

4月の読書

4月の読書数ヵ月前から首の左側がやたら凝って痛いのは、
読書のし過ぎじゃないのか((((;゜Д゜))) と思った今日この頃…
少なくとも、姿勢には気を付けようと。
頭を前傾させて支え続ける姿勢は首に過大な負担が掛かる。
本は読むはスマホは弄るわ、そらアカンわ。(´Д`)











 ボストン・テラン 『音もなく少女は』 (2004)

原題『Woman』


原題と邦題の差が凄いがw
この邦題はなかなか洒落た良い仕事と思う。

デビュー作『神は銃弾』が強烈だったボストン・テランの通産4作目。個人的には2冊目のテラン。
相変わらず、パワフルな文章でグイグイ引っ張ってくれる。

どうもテランは、“強い女性” のイメージに拘りというのか特別な想いがあるのだろう。
(本作の原題を見ればそのものズバリ)
『神は銃弾』に於いても、ワタクシが未読の2作目3作目に於いても、そして本作に於いても一貫して、
“逆境になぶられながらも、強く逞しく凛々しく生き抜く女” を何人も描いている。
それはどこか “男が生み出したこのろくでもない世界” への宣戦布告にも似ている。


本作の舞台は、テラン自身が育った世界そのままと思われる、1960~70年代のニューヨーク。
貧困家庭に生れた耳の聴こえない娘 イヴ。
暴君のような父親のもとでの生活から彼女を救ったのは、孤高の女フラン。
麻薬売買に手を染める父親に利用される日々の中、無音の世界で生きるイヴは、聾者ならではの才能を開花させる。
自らの、部分を、瞬間を、全てを直観的に切り取るそのセンスは、武器として、アイデンティティとして、彼女の生き方を変える。
イヴはシャッターを切る。引き金のように。



「女、姉妹、友達、母親」
「創造者、保護者、破壊者」
その全ての物語。
男は端役。

ストーリー自体はそんなに手の込んだモノではないのに、
圧倒的な躍動感、熱さ、力強さを感じさせ、清々しい感動を覚える。
ボストン・テランという作家、粗削りなのか鬼才なのか。

「人生の決定的瞬間も、カメラの決定的瞬間も少しも変わらない。捕まえなきゃ逃げられてしまうものよ」

ただ、デビュー作のインパクトには及ばない…















 ヴィクトリア・エイヴヤード 『王の檻』 (2017)

原題『King's Cage』


レッドクイーン4部作の3。
シリーズものではなく、4冊で一つの物語なので、
単品で評価しても仕方ない&読む人は全部読むだろうからあーだこーだ批評するのも違うよねと思う。( ̄▽ ̄;)

作中での世界情勢が大きく動き、周辺国の思惑が交錯し、少年独裁王へのクーデターも起こる。
シナリオ脚本を学んだ著者らしく、(シリーズ1作目からそうだが)読者をヤキモキさせて読ませる手法が良くも悪くも。
すんなりと進まないストーリー展開は物語の躍動感という意味では確かに上手いのだが、キャラクターに感情移入していると「なんでそうなんねん」と怒りたくなる。
主要人物がティーンズなので、その “若さ” “未熟さ” “懐の浅さ” 故のもどかしい行動と言えばそうなのだが、「ここでこの二人を仲違いさせた方が後の話が面白くなるから」というような著者の計算が見えて、違和感がある場面もある。

たぶんラスト4作目の終わり方もすんなり綺麗にはいかんのだろうな…と思うと少し憂鬱になる。
でも読むけどねw















 オースン・スコット・カード 『無伴奏ソナタ』 (1981)

原題『Unaccompanied Sonata』


『エンダーのゲーム』と表題作『無伴奏ソナタ』が、SFのみならず文学史に残る傑作短編集。


後に長編化もされ、数々のフォロワーとオマージュ作品を生んだデビュー短編『エンダーのゲーム』。
生まれたときから軍の管理下で教育され、訓練をゲームのようにこなしていた少年エンダー。優秀な成績により最年少で士官学校へ進むが、宇宙艦隊を指揮する戦闘シミュレーション訓練はよりハードに、しかも嫌がらせのような内容になっていく。
それでも勝ち続けるエンダー。
連日の過酷な訓練に疲労が溜まり、疑問を感じ始めた時、彼我の戦力差1000:1の課題が与えられる。
諦めの心境と、当て付け染みた鬱憤晴らしで、ルールで禁じられている敵母星への特攻を指示するエンダー。
ルール違反で懲罰され、嫌な訓練から逃げられると思ったが…



あらすじは知っていたけど、ちゃんと読んだのは初めて。
いや…これは素晴らしい。話の流れに無駄が無く、不要な細部は語らず、テンポ良く読み進められ、そして全体的にはハッピーエンドなんだけど何か色々訴えかける読後感。
長編版も興味あるけど、この研ぎ澄まされたテンポの良さが損なわれていないか心配。
解説にもあるが、“リアリティ重視” ではないスタイルの作家。ブラッドベリやエリスンに通ずる、言わばおとぎ話タイプ。
概念的で哲学的な主題が多い。


表題作の『無伴奏ソナタ』もおとぎ話的な世界観だが、
“短編小説“ というジャンル…というか表現手段の括りに於いて、ここまで完璧に纏まったモノは今まで読んだ中には無い。教科書に採用するべきだ(笑)。

音楽を生み出す事を至上の喜びとする者がそれを禁じられたらどうするか。

色んな事柄に置き換えられる話。
外部から禁じられ世界から罰せられても、己の中にあるソレを抑える事はナンセンス。
己の魂に正直に貫けば、いずれその行いを評価してくれる者が現れる。
…ちょっと『カモメのジョナサン』にも似た部分があるかもね。


Red13指定 必読図書










 アンソニー・ホープ 『ゼンダ城の虜』 (1894, 1898)

原題『The Prisoner of ZENDA / Rupert of Hentzau』


古本屋で見つけてなんか面白そうと思って買ってみたら、
超有名な話だったのね。( ̄▽ ̄;)


19世紀、ヨーロッパの架空の王国《ルリタニア》を舞台に繰り広げられる、王位を巡る陰謀と王族の恋模様。
ルリタニア王と瓜二つの容姿の主人公 ルドルフ・ラッセンディルの “剣と恋” “義侠と騎士道” の物語。



舞台となる《ルリタニア》は、ドイツとチェコスロヴァキアの間に位置するとされる架空の王国で、
本作の多大な人気と影響で、英語に Ruritanian という形容詞が生まれた程だとか…

本書は『ゼンダ城の虜』と、その続編というか第二部的な『ヘンツォ伯爵』を1冊にしたもの。
合わせて600頁弱なので、2作と言えども少し長めの長編小説くらい。
が、物語の進むテンポが良く、どちらの作品も主人公の回顧譚として語られるので、ある程度少し先の展開が予想できて安心して読み進められるという特徴がある。
「この男が後で裏切る」と先に小出しで語られたり、各章の見出しタイトルにも粗筋が上手く凝縮されている。
これを良いと見るか悪いと見るかは読む側の性格次第かなとも思うけど。

物語は、容姿がそっくりな主人公が王様と入れ替わるというもの。
止むを得ない成り行きで影武者を演じたら、当の王本人よりも “王様らしい” 立ち回りで、このままずっと入れ替わってしまったら良いのでは?と周囲が望む程に。
しかしルドルフ・ラッセンディル本人はあくまで自分は “代役” であり一時的に立ち回っているに過ぎない、という立場を貫く。
しかし、フラビア姫は本物の王よりもルドルフに惹かれ、またルドルフも自身の気持ちと葛藤する。
そこに王位簒奪を狙う王の弟や、姫の弱みを握って強請りを掛ける悪党貴族との駆け引きで何重にも交錯する陰謀。

最速の交通手段が汽車、最速の通信手段が電報の時代。
何時間もの情報のタイムラグで敵を追い、罠をしかけ、奇襲され、アナログな方法で計略を練る。そのもどかしさがまたスリリングな味に繋がるわけで。
何でも瞬間的に伝わる今のデジタル監視社会は息苦しいディストピアに思える。






Posted at 2019/04/30 11:11:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 活字部 | 日記
2019年03月25日 イイね!

3月の読書

3月の読書花粉症ではないハズですが、
喉がイガラっぽかったり、軽い頭痛がしたり、やたら眠かったり、
少なからず影響は感じている今日この頃。
首の左がやたら凝るのは関係無いか。( ̄▽ ̄;)



色々とクルマのトラブルが続いていて冬の間殆どマトモに走ってなかったですが、
その分読書が捗るというアレ(笑)。
この調子だとホンマに年間50冊ペース。( ̄▽ ̄;)










 スティーヴ・エリクソン 『Xのアーチ』 (1993)

原題『ARC d'X』


トマス・ジェファーソンと、その奴隷であり愛人であったサリー・ヘミングスという実在の人物二人を軸に、“愛と快楽、自由と隷属” をテーマに云々…
というから近代アメリカの歴史モノかと思ったら、
まさかのパラレルワールド&時間SF。( ̄▽ ̄;)

しかもなかなかスケールが大きく、時間軸も世界軸もあっちゃこっちゃ錯綜して難解。
トマス&サリーというアイコンも、あくまでテーマを語る上での素材として活用していて、実際の人物像の再現というものではない。
(トマス・ジェファーソン×サリー・ヘミングスを題材にした作品はアメリカではポピュラーな様で、書籍・映画共に多数有る模様)


男女の烈しい愛のエネルギーが、選択が、世界全体の姿を少しずつ変えていく。
その選択の一つが、決断の一つが、時に、どの染色体が来るかによって胎児が男になるか女になるか決まるように、決定的な分岐点になる事がある。

先月読んだミラン・クンデラとはまた対照的な話。しかし著者は哲学的にも文学的にもクンデラやフィリップ・ディックから影響を受けているように思う)


一方の可能性世界と、もう一方の可能性世界と、更にそれら全ての可能性世界からこぼれ落ちた滓の行く先を、やや誇大妄想的・精神風景的な描写で作り上げる。
何人もの登場人物の視点と時間軸がオーバーラップしながら謎の糸が絡み合っていく。
全ての伏線ピースが埋まっていく終盤はなかなかのカタルシス。

“時の最果て” 、或いは “時のブラックホール” とも言うべき別次元 “永劫都市” に流れ着く登場人物達。
それぞれの人物がかつての世界で手にした “遺物” が永劫都市のあちらこちら様々な部分に残響する。
そうした “流れ着く歴史” を隠蔽し、閉じた時を維持する “教会” と、教会の支配を逃れた無法地帯 “植物園” 。
元からその世界に生まれ住んでいる者達と、流れ着いた者達。過去と未来が混在する場所。失われた時の狭間。
愛と快楽、自由と隷属、欲望と良心。
それらは両立することなく、しかし、愛という善は所有という悪を内包し、どちらを選択しても真の意味での幸福は得られない。
コインのどちらの面が出ても、相手の勝ちか自分の負けか、にしかならない。


というような、愛と自由というテーマを、アメリカ人的な、そして極めて男性的な視点で描く作品。
そのどちらの視点に関しても、敢えてやや断定的で悲観的な論調にはなっているが、それこそアメリカという歴史の浅い国の一つの価値観なのではという側面も垣間見える。

2回読まなきゃわからない難解さではあるが、上質なパズルのようで非常に読みごたえがあり、刺激も受ける一冊。

参考:Wikipedia サリー・ヘミングス















 ローラン・ビネ 『HHhH プラハ、1942年』 (2009)


ナチス第三帝国でヒトラー、ヒムラーに次ぐNo.3。
ゲシュタポ長官、親衛隊大将、チェコ総督代理、〈金髪の野獣〉、〈死刑執行人〉、ユダヤ人問題の「最終解決」の提示者=アウシュビッツを “発明” した男、
そして、ナチス高官でただ一人 暗殺された男、
ラインハルト・ハイドリヒ


チェコ亡命政府の命を受けてハイドリヒ暗殺作戦を実行した、スロヴァキア人 ヨゼフ・ガブチークと、チェコ人 ヤン・クビシュ。そして二人と共に戦った空挺部隊員やチェコのレジスタンス。

ターゲットであるハイドリヒの半生と、暗殺作戦の始終を、可能な限り(偏執的とも言えるレベルで)あらゆる資料を読み漁り、歴史的事実に拘って描く。
著者曰く「(資料を)1000頁読んで、やっと2頁書く割合」。((((;゜Д゜)))マジカヨ…


肝心な時に故障した銃、最悪のタイミングでやってきた路面電車、狙いがズレた手榴弾。
しかし結果として此処でハイドリヒの命を奪えた事で、WWⅡの大局に二つの大きな影響を与えたと言える。

・一つは単純に「ナチスで最も頭の良い男」(タイトルの『HHhH』は、この事を揶揄するドイツ語の一文の頭文字)ハイドリヒの頭脳をナチスから奪えた事。
チェコの占領政策で成果を上げたハイドリヒは、チェコでの任務を後任に任せ、新たにフランスで同様の仕事をするべく旅立つ前だった。
・もう一つは、一週間経っても襲撃犯の手掛かりを得られない捜査部隊に激怒したヒトラーが報復&見せしめとして命じた、(襲撃事件に何の関係も無かった)チェコの一つの村リディツェを跡形も無く破壊し “地図から消した” 事件。
これが国際社会に露呈し、それまで対外的にはそれなりに誤魔化して来ていたナチスの化けの皮が剥がれ、連合国側の士気が一気に高まった事。
ハイドリヒ亡き後、ヒトラーに対して「そんな馬鹿な事をしたら自分の首を絞めます」と冷静に諫められる者は殆ど居なかった。
(しかし、まだこの時点では “ユダヤ人問題” の実態は世界に知られていなかった。そして、ハイドリヒが作ったとも言えるアウシュビッツが本格的に稼働するのは彼の死後。200万人の命を奪ったそのホロコーストの作戦名は 「ラインハルト作戦」)


『帰ってきたヒトラー』は “ナチ物” としては異端の作だが、本作は “ナチの狂気” の部分もしっかりと描き出している。
ユダヤ人排斥の旗を振り音頭をとって焚き付けた張本人はヒトラーその人だが、実際にそのプロセスを検討し、組み立て、実行責任を負ったのは、ハイドリヒや、その部下アイヒマン、ミュラーらである。
ベルリンの総統官邸で怒鳴り散らして(ヒトラーのヒステリー気質は彼が日常的に摂取していた “薬” の副作用でもある)言わば、無責任に夢想的に好き放題言ってるだけのヒトラーと、実際に大量虐殺の手順を考え実行し、より効率的に “改良” していたハイドリヒらと、どちらの方が “常軌を逸する” だろう。
だが、ナチスの(なのか、ドイツ人の、なのか)効率性、合理性を追求する体質は個人的に嫌いではない。
ヒトラーの演説術にしても、人心掌握の技術・技法・手腕としては非常に優れている。だからこそ使い方次第で危険なのだが。
そして、ヒトラーが他の(現代の)政治家と比べて一つ評価されるべき所は、少なくとも彼は嘘はつかなかった。



著者の手法は小説としては異色で、著者自身の語りが随所に入る。「小説を書く小説」とでもいう作風。
“歴史的事実” にやたら拘るも、ノンフィクションでもドキュメンタリーでもなく、やはりこれはれっきとした “小説” である。
いかにも小説的なフィクションの部分も勿論あるが、著者はそれを「資料が無く裏の取りようがないので仕方なく僕が創作した」というようなスタンスで捉えている。
終盤では、著者である「僕」の視点が自由自在に1942年のプラハを巡り、臨場感に溢れ、没入感に大きく貢献している。


歴史資料としても価値の高い一冊。
映画『ナチス第三の男』原作。
しかし、ハードカバーの本は仕事中に持ち込むには読みにくいw


余談だが。
作中でハイドリヒがスリヴォヴィッツをグイッとあおる場面がある。
東欧産の、高アルコール度数のスモモの蒸留酒だが、あまり美味しくないらしいww
大酒呑みのハイドリヒは酒なら何でも良かった、という主旨の一幕だが…
…スリヴォヴィッツって、J・シュトラウスⅡのオペラ『こうもり』で、アイゼンシュタインがオルロフスキー公爵に勧められて一口飲んで噴いてたアレか(°∀°)w とw



Red13指定 必読図書















 スティーヴン・キング 『1922』 (2010)

原題『Full Dark, No Stars』


1冊前↑が読み応えがあって頭も使う本だったので、サクッと読める軽いヤツをw

元は(本国では)4つの中編の入った『星も無い真っ暗闇』という1冊。
日本ではそれが2冊に分けられて文庫に。

S・キングと言うと “ホラーの帝王” と呼ばれ、間違いなく “巨匠” でもある作家ですが、
前に短編集『ミスト』を読んだ時にも思ったけど、どうも個人的にはやっぱりあまり好きでない。
ホラーが嫌とかじゃなくて、どの作品を読んでもそこに “伝えたいこと” が感じられないから。
「これを伝えたかった!」とか「これを書きたかった!」とかそういうテーマや訴えたいメッセージ、そういうモノが稀薄。
著作を重ねる職業作家の良し悪しか。
軽く読んで楽しめる、娯楽作品としては良くできていると思うけど、一度読んだら終わりで本棚に並べておきたいとは思わない。

…って、内容全く触れてねぇw
タイトル作の『1922』は「底無しの破滅へ落下する、罪悪のもたらす魂の地獄」なんていう売り文句がちょっと肩透かし…予想した方向と違った。
それより、現代版 “悪魔との契約” な『公正な取引』の方が面白かった。いじょw















 アルフレッド・ベスター 『虎よ、虎よ!』 (1956)

原題『Tiger! Tiger!』


SFの古典。50年代のSF黄金期の一冊。


“ジョウント” と呼ばれるテレポーテイションにより、人々が一瞬のうちに何処へでも行けるようになった時代。
顔に虎のような刺青をされた男、ガリヴァー・フォイルの、無限の時空を超える絢爛たる復讐の物語が始まる。



なにはともあれ、SFの名作。
やっぱりこの時代のSFは面白い&スケールの大きなモノが多くて良いね。
この時代の流行り…と言うのは失礼かもしれないが、“上の次元” へ至ろうとする壮大なクライマックスの盛り上がりが素晴らしい。
ラストの展開はちょっとクラーク作品(『幼年期の終り』や『2001年宇宙の旅』)と似た部分があるが、主人公ガリヴァー・フォイルの粗暴でエネルギッシュなキャラクターはハードSFでは珍しい?
序盤では、極めて自己中心的、直情的、野性的だったフォイルが、数々の経験を積んで次第に哲学的で超人的な存在になっていく成長ストーリーは王道ではあるがやはり胸踊る。
そこにタイムループやダンジョン脱出やちょっとしたロマンスや退廃美や核戦争や、なんやかんや色んな要素を詰め込み過ぎで、いくつか中途半端に語り残されている部分もある?が、読み終わってみると “悟り” の境地にも似た感情に満たされる。
結局は、人間一人なんて何者でもない、大したモノではないのよ、と。















 ジェイムズ・P・ホーガン 『プロテウス・オペレーション』 (1985)


再読。
内容や感想については前回でほぼ語り尽くしているのでもういいかな。( ̄▽ ̄;)

しかし、3年以上も経って読み直すと、その間に色々他に仕入れて蓄積してる分、更に深く印象付く部分もある。
特に↑ハイドリヒに関する知識がフレッシュなうちに( “ナチ要素” を含む本作を)読んでみると、よりイメージが鮮やかに。
ナチスが戦勝したパラレルワールドで、「71歳になったヒトラーを隠居させ、2代目総統に就任したハイドリヒはその冷血振りでヒトラー時代以上に世界を恐怖に陥れた」なんてのも説得力のある話だわな、とか。

当時は完璧に思えたシナリオプロットも意地悪くツッコミを入れたくなる所もあったりして(笑)。

量子論に関してはコ難しくてややこしいけど、やっぱり好きな1冊だな。




Posted at 2019/03/29 22:44:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | 活字部 | 日記
2019年02月27日 イイね!

2月の読書

2月の読書今年から、この読書感想文の書き方を変えました。
以前は、月末に纏めて一気書きしてましたが、
先月から、一冊読んだ時点で書いて下書き保存してます。

以前よりも記憶がフレッシュな内に書いているので、一冊あたりの感想が長くなってますw
全体が長くなって読む気失せるパターンですねw
It is 書き手の独り善がり!www



























 ウィリアム・アイリッシュ 『幻の女』 (1942)

原題『Phantom Lady』


「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」

妻と喧嘩し、宛もなく街をさまよっていた男は、風変わりな帽子を被った見ず知らずの女に出会う。
彼は気晴らしにその女を誘って食事をし、劇場でショーを観て、酒を飲んで別れた。
その後、帰宅した男を待っていたのは、絞殺された妻の死体と刑事たちだった。
女と一緒に居た事を説明し、刑事たちと一緒にバーや劇場を回るが、誰もが女の存在を否定する。男は見たが女は見ていないと。
男は逮捕され、有罪が確定する。
たった一人、彼のアリバイを証明できる “幻の女” はどこにいるのか?



「ミステリの不朽の名作」。
多くの作家・作品に影響を与えた大家の代表作、ということで「読んどかなアカンやろ( ̄▽ ̄)」的な部分もあって(HR/HMで言う、“Smoke On The Water” や “Pain Killer”、“I Want Out” みたいなもんか)読んでみましたが、確かに面白い。

最初に挙げた有名な書き出し一文に代表されるような、独特の詩的で美しい文体が続く。
(同じ “詩的で美しい” 文体でも、テグジュペリのそれはあくまで写実的であるのに対し、こちらは “切り取り方・捉え方” のセンスが美しい)
あたかもセピア色のフィルターを1枚通して語られるような、垢抜けた流麗な世界に惹き込まれる。

“存在否定” ネタも古今東西色々あれど、ハイテク機器の無い時代が舞台なので(80年近くも前の作品というのが意外な感じ)、トリックはアナログで物理的だが、
それゆえに今の時代の物語には無い、叙情的な味わいがある。
その辺り、ワタクシが今まで読んだモノの中で挙げれば『誰がコマドリを殺したか』や『新車の中の女』に通じる、(21世紀のハイテク世界に生きる身としては)何処か牧歌的な安心感も。

どんでん返しのシナリオプロットが面白いのもあるが(「えー、結局そゆこと?」という感もあったけど)、リリカルな文体の美しさも勿論、完全なハッピーエンドではなく、どこか読後に哀愁の余韻が残る部分の上手さ。













 ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 (1984)


タイトルからして哲学的、読んで更にsemantic(意味的)。
メタファーのオンパレードで、薄皮を一枚一枚捲るように人間の心理・行動分析を子細に掘り下げる。
誰もが何となく漠然と思っているが具体的にはなかなか説明できない人生の機微や人間関係の本質等を、事細かに丁寧に(時に神経質に)分析して並べていく様は、いかにも東欧的だなぁと思う(笑)。
小説でありながら、心理学や比較文化論、社会学の研究論文のようである。
タイトルは、紀元前6世紀の哲学者・パルメニデスの考えに、ニーチェの “永劫回帰” と、チェコの諺「一度は数に入らない」を重ね、人間の送るたった一度の人生、一度の選択など取るに足りないものという基本的テーマ。


最も重い荷物というのは、同時に最も充実した人生の姿である。
重荷が重いほど、我々の人生は地面に近くなり、いっそう現実味を増して、より真実味を帯びてくる。
それに反して重荷が全く欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地上の存在から遠ざかり、なかば現実感を失い、その動きは自由であると同時に無意味になる。



浮気性の男と、それに惚れた若い女。
その男の愛人の女性画家、更にその愛人の男。
この四人をサンプルに様々な価値観、考え方、見出だすsemanticを比較する。

この “浮気性の男” という言葉も色んな見方ができ、どういう動機でその行動に至るのかを覗くと、人それぞれ違ったモノが出てくる。
相手に対してただ単純に肉体的な快楽を求めるのか、精神的な充足を求めるのか、或いは相手に何か象徴を重ねているのか、己の内面の探究心や好奇心を刺激する鍵を求めているのか、
端から見たらただ一言 “遊び人” となる者も、その内面は様々なのだろう。

それに惚れた若い女も、その恋のスイッチは、6つの偶然と象徴的なメタファーの重なり。人はそれを安直に運命と呼ぶ。
運命の巡り合せと呼んでいるモノを一つ一つ解体していけば、なんて事はない偶然の積み重ねでしかない。

また
同じ物、同じ場面を見ても、同じ行動をしても、そこに見いだすsemantic(意味)は人それぞれ違う。
同じ言葉を引いても、辞書(人)が違えばその意味は違う。

…という感じで、コ難しい理屈っぽい話が続きますが、哲学的な物思いが好きだったり、愛というモノに対してシニカルな想いを抱く人(w)は絶体好きだと思う。


Red13指定 必読図書













 アーシュラ・K・ル・グィン 『闇の左手』 (1969)

原題『The Left Hand of Darkness』


日本では『ゲド戦記』で有名な作家。
それよりも前に発表された “ハイニッシュ・ユニバース” シリーズの1冊。


遥かな過去、超高度な文明を持つ惑星ハインの人々が、数多くの居住可能な惑星に人間型生命の種を蒔いた。やがてハイン文明の衰退と共に植民地も忘れ去られるが、再興を遂げたハイン文明は(テラ=地球を含む)かつての植民星を次々と再発見していき、80にも及ぶ惑星は連合を組み、それぞれの文化や技術を共有した。

そんな植民星の中でも最果てに位置する惑星ゲセン。“冬” の意味で呼ばれるこの星ではかつてハイン文明による遺伝子操作実験が行われ、ゲセンの人類は両性具有であった。
惑星連合からの使節としてゲセンに単身降り立ったゲンリー・アイが、ゲセンの二大国の政治に翻弄されながら、現地人の一人と共に、ゲセンの連合加入への道筋を模索する。



極寒の惑星、その二つの大国、都市の街並み、気候、社会文化、慣習、神話。文化人類学的な切り口で語られるそういった背景描写が非常に緻密で重厚で、一つの世界が確かな質感を持って存在する。

タイトルの闇の左手という言葉には続きがあり、
「光は闇の左手、闇は光の右手。二つは一つ」と本文中で語られ、本書の大きなテーマの一つである “二元論” を象徴する。
光と闇、生と死、太陽と影、男と女、恐怖と勇気、背信と忠誠、といった対立するモノのイメージ。
その内の一つ、男と女という性の双極に対して両性具有という思考実験的な大きなテーマを持ち込んでいる。
しかし、この二元論的な切り口は(それこそ一冊前の中で触れたパルメニデスの言うような)絶対的な極論ではなく、陰陽の如く、お互いがお互いを受け容れ、必要とし、活かし合う関係として描く。


別にこの作品・作家に限らずSF全てに言える事だが、
“人類 (や、それに準ずる存在)” を用いて世界観を構築する以上、そして著者自身が地球人類である以上、想像力の限界がある。
惑星の設定だって、そんなに都合よく地球にそっくりの環境ある?とか、太陽と月が当然のように存在したり。
距離や温度の単位も結局、マイルで語られたり、気温に関してはゲセン人は華氏で地球人は摂氏で言ったりと差異は演出してあるが、結局それも “我々の世界” のモノ。
更に作中に二つの大国が出てくるが、これも(時代背景もあると思うが)資本主義的なものと社会主義的なものの対比になっているように思う。
“リアル” ということに対して人それぞれ求めるモノは違えど、せっかく世界観を丁寧に深く作り込んでいるのに勿体ないなとも思う。
(それならばいっそ、グレッグ・イーガンの『ワンの絨毯』のような、人類世界とは全く異なる顕微鏡レベルの異星生命世界を描いてくれる方が “リアル” に感じる)

その辺りの作り込みが素晴らしい作品として、PS1時代のゲームであるが『ゼノギアス』を特筆したい。
長さを表す単位シャール、速さの単位レプソル等、細かい世界観もオタク趣味的な仕事で作り込み、作中世界の歴史も勿論しっかりと描く。ネタバレになるが、シナリオも数千年に渡る輪廻転生の神話から、人間の高次元への進化のようなもの。実際ゼノギアスには、様々なSF著名作へのオマージュが多々散りばめられていて、愛情とも取れる拘りによる、過剰なまでの作り込みが架空の世界に血を通わすのだろう。
ゲームという枠組みを超えても、そういった世界観設定の深さでゼノギアスを超えるモノには未だ出会わない。














 アレイスター・クロウリー 『黒魔術の娘』 (1913)

原題『At The Fork of The Roads』


自称 “20世紀最大の魔術師” たる著者の短編集。
《黄金の夜明け団》在籍の過去や、その後自ら魔術結社《銀の星》を組織したり、自宅にテンプル(祈祷室)を構えて骸骨を置いていたり、自身は転生を繰り返しており誰これの生まれ変りだと主張したり、
…どこまで本気なのかどこまで冗談なのか…
しかし、これについては作中の一文が正に的確な回答になっている。


芸術は、芸術もそれ以外のものも《高等魔術》であると思って貰いたいが、とにかくそれら芸術というものは聖なる絵文字の体系なのだ。芸術家すなわち秘儀参入者は自己の密儀を組み立てるのである。
取り残された世間の連中は、咳払いするか、理解しようと試みるか、理解した振りをするかだ。真理を得るものは殆どいない。
芸術家の技術的能力は言語の明晰性にかかっている。啓発の度合いは関係無い。



確かにな、と。
ガチなのかポーズなのかは所詮他人があーだこーだ詮索した所で答は出ず、本人の頭の中にのみ答がある。
(本人も解っていないという事例もあるだろうがw)
ある意味、そこはどっちだろうが構わないし、それで良いと思う。
要は受け取る側がそこに何を見出だすかの問題であり、全ての宗教はそれで説明がつく。
(ブログというモノもそういう一面があるしねw)

そしてクロウリーは、ジミー・ペイジ、リッチー・ブラックモア、オジー・オズボーンらを始めとするHRミュージシャンらを中心に多くの人々にその “影響” を与えた。
当然そこからブラックメタルに繋がっていくわけだし、そこでより強くクロウリーの世界観が引き継がれている。


短編10作、中編2作からなる本書だが、前半に並ぶ短編の中には、正直悪趣味なだけで面白いと思えないものも有り。
だが後半のやや頁数の多い話になるとダークファンタジーの魅力が溢れていて、どこかハーラン・エリスンにも似た、理不尽やアイロニーから来る美意識も感じる。
読了後にもう一度序盤の短編を読んだらまた印象が変わる気もする。


なるほど、芸術も魔術の一つであるとすれば、この世はファンタジーに満ち溢れているし、概ね誰もが魔術師たり得る。
一理あるし、その “魔術” になら掛かってみよう。
1947年に没したクロウリー、その次の転生した姿はデーモン小暮閣下なんじゃないか?ww













 ティムール・ヴェルメシュ 『帰ってきたヒトラー』 (2012)


再読。
前回のはこちら
機会があって、映画版をレンタルして観てみたので。





どんなものでも、小説版と映画版を比べると、映像化された方は中身が薄くなるのは常ですが、残念ながらこれも例に漏れず。
小説でこれでもかというくらいに盛り込まれた、“史実に基づくパロディ” や 徹底したシミュレーションによる “ヒトラー的思考回路” ネタの半分以上が流れてしまっていて、(仕方ない事とはいえ)より大衆受けを意識したマイルドな表現に落ち着いてしまっている。
また小説版と映画版の最大の違いは、小説では最後までヒトラーがヒーロー的に受け取られるように描いているが、映画版では一片の陰が射す。
活字を読むよりもライトな層が視聴する可能性が高い以上、読み込まないとわからないブラックユーモアよりも、視覚的にわかりやすい投げ掛けを入れないといけないというのも映像作品ならではですね。
…というか、単に、世間体的な大人の事情か
やはり原作の小説で読まないと、正解の無い問題提起のメッセージ性は伝わらないかと。
作中でヒトラーが発する毒舌の数々は、決して間違っていない。





「悪いことばかりではなかった」









Posted at 2019/02/27 17:00:12 | コメント(1) | トラックバック(0) | 活字部 | 日記
2019年01月30日 イイね!

1月の読書

1月の読書今年は「年間50冊」を目指してみようかな。
なんて思って、ちょっとブースト掛けてます。
まー、三日坊主的に3月あたりで失速しそうな気が凄くするけどw



最近ふと思ったんですが。
ある程度本を読んでいないと文章は書けないけど、
かといってひたすら読み続けて蓄え続けても、それと物語を生み出す創造性はまた別の話ではないのか、と。

この読書感想文も続けて2年以上になりますが、
内容や感想を表す語彙が乏しいなと自分で思う。
もっと細かいニュアンスを伝えたいのに適当な言葉が見つからない(抽出しが無い)。
結果、使い古しのマンネリな言い回しに収斂する。

モノを書く術は、書くことでしか育たない。
本を読んだ読書感想文を書くことと、本そのものを書くことは全然違う。
…と、自分に言ってるワケですが。( ̄  ̄;)
「いつか」なにか書きたい、と思っていても、
思っているだけでは「いつか」は永遠に来ないよねぇ。































 ニール・シャスタマン 『奪命者 [サイズ] 』 (2016)

原題『SCYTHE』


いやー、良いもん読んだ。
新年の1冊目を飾るに相応しい。


今から数百年後。“クラウド” が進化した全知全能のAI “サンダーヘッド(積乱雲)” が地球上の全てをコントロールし、人類は無限の知識を獲得し、不死の時代へ突入した。
しかし地球上の土地や資源には限りがある以上、人口の調整がどうしても必要になる。そこで人類は、余剰を刈り取る=人の命を奪う仕事を、一握りの選ばれし者達 [サイズ] に委ねた。
古参のサイズにスカウトされ弟子入りした十代の少女シトラと少年ローワン。
人の死と接したことの無かった二人は、他人の命を奪うことに大きな抵抗を感じながら、高潔な師を信じて修行に励む。
修行を通じて人間の尊厳、サイズの使命の重さと深さを学び成長していく。



という、まぁよく有るといえばよく有る感じ。
そこに勢力争いやミステリー要素も入ってきて盛り沢山、展開も二転三転次から次へ転がっていく。
なのに全てが綺麗に纏まっていて最後のカタルシスも素晴らしいのは、さすがベテランの技か。
ヴィクトリア・エイヴヤードの『レッドクイーン』と共通して「あぁ、上手いな」と思うのが、キャラ毎にイメージカラーを割り当てている所。
色じゃなくても良いんでしょうけど、何か紐付けするイメージが有れば何でも覚えやすいし広がりやすい。(受験勉強の暗記もそうでしょう)

平凡な一般人だった主人公が着々と力と知識を付けていき、それまでの生活から遠ざかり孤高の存在 [サイズ] としての資質を磨いていく様は、“強くなっていく” ワクワク感と、大人の事情に翻弄されていく無力感の両方がある。
同門の兄弟弟子だったシトラとローワンが途中から別々の師匠のもとにつき、“law 秩序” と “chaos 混沌” の両サイドに立たされる構図はいかにも王道だが解りやすく、過程と立場は違えど最終的には同じ使命に向かって進む二人の今後(本作は3部作の1作目)も楽しみだ。










 ゴードン・マカルパイン 『青鉛筆の女』 (2015)

原題『Woman with a Blue Pencil』


何らかの理由・事情で作者から見捨てられたフィクションの登場人物はどうなるのか。


廃屋の箱から見つかった3つの物。
1945年に刊行されたパルプ・スリラー『オーキッドと秘密工作員』。編集者からの手紙。軍支給の便箋に書かれた『改訂版』と題された原稿。
開戦で反日感情の高まるなか、作家デビューを望んだ日系青年と、編集者の間に何があったのか。



2つの作中作と、編集者との手紙、作中作を執筆する青年、更に史実の背景。
緻密に構築されたメタ構造の作品。


作家を志す日系青年タクミ・サトーが持ち込んだ、日系人を主人公にした探偵小説。
だが初期草稿の段階で太平洋戦争開戦となり、編集者から「日系人を主人公にするのは望ましくない」と言われる。
ただし「このジャンルでアジア系主人公を起用するのは斬新なので、主人公を朝鮮系に変更してシナリオにも大掛かりな練り直しを行ない、時勢を採り入れ愛国心をアピールする内容にすれば売れる」と提案され、“編集者の意向” に添って書かれた『オーキッドと秘密工作員』が刊行される。
しかし著者タクミ・サトーの胸の内では当初のプロットこそが本当に書きたかった話であり、彼は『オーキッド』のパラレルストーリーともいえる物語を書き始める。『改訂版』と名打たれ、世に出す事も考えていない作品を。



上手く造形され一種の命を得たキャラクターは、究極的には作者の手を離れて独立して “生きて” いるとも言える。
では作者がボツにして切り捨てたキャラクターはどこへ行くのか?
このメタ的なテーマを、“元の世界から削除された存在” である『改訂版』の主人公で描く。
これが面白い。

ガンダムUCで喩えれば、小説版ではシャンブロ開発の指揮を取り、ジオン再興の念に娘ロニを巻き込んだ部分もあったマハディ・ガーベイが、OVAの世界に投げ込まれ、自分の存在が消えた世界で、狂気に侵された娘を見てどう思うだろう。

CCAで喩えれば、小説版ではアムロの恋人であり子供まで身籠ったベルトーチカが、劇場版の世界に投げ込まれ、自分はアムロの元カノになっていてチェーンとかいう違う女が自分のポジションに居る。周りの人々はそれが当然と思っている。
そんな世界で “自分” を保てるか。


昨日まで普通だった自分の周りの世界が一転して自分を否定する。
自宅には知らない誰かが住んでいる。友人にも「お前など知らん」と言われる。公的記録も何も無い。そんな世界で一人だけ自分の事を知っている男が現れる。

『改訂版』は先に完成している『オーキッド』の隙間を縫って展開する物語。
一方の視点からとは似て非なる世界が描かれる。
それを単に交互に交叉させるだけでなく、メタ視点で著者タクミ・サトーの葛藤や編集者の思惑等も絡めて一元的に読ませる所が凝っている。










 『スタートボタンを押してください』 (2015)


ゲームを題材にしたSF短編12作のオムニバス。
名を連ねている作家もなかなか豪華な顔ぶれ。よー知らんけどw
FPSやMMORPG、NPCやリスポーンなど、ゲームならではの単語や概念がズラズラと。
少なからずゲームに触れた人なら楽しめる&一度は妄想したような話ばかり。
いくつか心に響いた作品はあるが、あくまで軽くサクッと読んで終わる1冊かと(笑)。
MMORPGでのリアル・マネー・トレードがはらむ問題を抉る『アンダのゲーム』はゲームに疎い人にも一読してもらいたい。










 ボストン・テラン 『神は銃弾』 (1999)

原題『God is a Bullet』


いつもこの感想文を書くときに、スラスラと一気に書ける作品と、なかなか言葉が出てこない作品とがある。
読んでいる途中から明確に “伝えたいテーマ” や、“魅せ所” がハッキリしている作品は紹介するのも簡単なのだが、
“名作” で “凄い” のはわかるが、どこがどう凄いのかパッと簡単に言い表せない作品や、伝えたい事が深く多岐にわたるというのも時々ある。
本作『神は銃弾』もそんな1冊。

あらすじ自体は至ってシンプル。
残酷無比なカルトの教主サイラスに、元妻を殺され娘を拉致された父親ボブが、元教徒で元ジャンキーの女ケイスを案内役に追跡・復讐する。
その背景や動機に多少の謎解き要素はあったりするが大して重要ではなく、善玉悪玉も最初からハッキリしていて、ストーリーに重きを置く作品ではない。

では何がこの作品の “読みごたえ” に繋がっているのか。

1つには、作中で “コヨーテとシープ” というメタファーで語られる、キリスト教社会の腐敗への痛烈な怒りのエネルギー。
保守的なシープの価値観を捨てきれないボブと、卑語だらけの強烈な発言で皮肉を散りばめるコヨーテたるケイス。
目的を達する為に不本意・不可避的に徐々にコヨーテになっていくボブ。自身の過去に苦しみながらもその過去のお陰でボブを導くケイス。
この二人が次第にお互いを理解し協力し信頼してサイラスを追う姿が大きなドラマか。

また1つに、ヒロイン・ケイスの強さ、タフさ、カッコ良さがある。
長年に渡ってサイラスに囚われてドラッグを打たれ自身の手を汚してきた過去が重くのしかかり、“これ以上失うものの無い者の強さ” とも言えるが、そこに悲壮感や投げやりな部分は無く勝ち気で強気で、全てを赦す包容力すら感じる。

更に、悪趣味一歩手前の “ドラッグとセックスと暴力” の描写に囚われがちだが、悪玉サイラスの側にも一貫した信念があり、正義とも言える理念に従って行動している点が、欺瞞だらけの “シープの群” と対照的に純粋で清々しくも映る。
シープの一頭であったボブを結果的に強いコヨーテへ成長させたのは、サイラスの誤算だったのか余興だったのか。サイラスとケイスが、仔狼ボブを(超現実的スパルタ育成で)導く親狼のようにも見える。

このように作品の根底に現代社会への強いアイロニーが有るために、各キャラクターの個性がハッキリと際立っている。
また、各キャラクターの感情描写が鮮やかで、その部分で読ませていく。
やや粗削りで過激な部分もあるが、ただのよくあるノワール小説、とは言えない何かを感じる1冊。
「神は銃弾」の言葉にケイスが込めた意味も、「苦しみと死」こそが自分が何者であるか痛切に教えてくれるというサイラスの言も真理。










 サン=テグジュペリ 『夜間飛行』 (1931)


テグジュペリの言葉は美しい。
目に映るもの、それを言葉に置き換える時に、人は何を媒介に、何を触媒に、化学反応を起こすのか。
目に映るものをそのまま述べることも難しいが、
目に映るものを心に映す事ができる人の言葉は、澄んで美しい。
それでいて、ソリッドな現実感がそこにある。
無駄な言葉を削ぎ落とし、ひとつひとつの言葉に重みと潤いを与え、詩的な心地よさを湛え(タタエ)ながら、その言葉が表すのは鮮やかな現実。
いわば、引き算の美学なのかもしれない。
この『夜間飛行』という作品自体、草稿から半分以下に頁数を絞りこまれたものという。
余計なものを削った研ぎ澄まされた逸品。
彼の紡ぐ言葉もそうなのかもしれない。

本書は『夜間飛行』と『南方郵便機』という二つの中編だが、
小説と伝記の間にあるもののように思う。
全てテグジュペリ自身の経験からなる言葉の羅列。
飛行気乗りならではの視点。
デジタル機器の無い、剥き出しの操縦席で何時間も風になぶられて飛ぶ操縦士の視点。
1年の大半を空中か任地で過ごし、“自宅” というモノが自分の居場所でなく感じる男の視点。
空を駆け流れ動き続ける男と、地上に街に館に日常に繋ぎ止められた女との離れていく魂。
リアリズムとロマンティズムの同居。

『夜間飛行』の主人公リヴィエールは、航空郵便業という仕事へのプライドが高いと同時に、しかし尊ぶべきは生命を賭してその業務にあたる飛行士であり、自然と自己を克服し、勇気・沈着・責任・自己犠牲といった美徳の体現者たることを自身にも他者(部下)にも求める、一見苛酷な人物であるが、人間的な迷いも見せ、リヴィエール自身それを慈しむ姿に親しみと憧れを抱く。
登場人物(リヴィエールの部下達)も、彼の信念を体得していてこの物語は “完成された人格” 達によって演じられる、非常に清々しい物語。

対し、『南方郵便機』の登場人物達は皆、迷い・求め・傷ついている。
主人公ベルニスの恋愛の追憶、アイデンティティの模索、求める理想、己の充足は “空” にある。
それらが混ざり渦巻く閉塞感の中で、最後に得る解放。
幸福とは、愛とは何か。
ベルニスとジュヌヴィエーヴの線は交わらない。
しかし二人ともそこに同情や憐憫の入りこむ隙は見せない。二人はそれぞれの人生に言い訳をしない。

このような精神性を、知ったような一言で言い表すと「ニーチェ的」というものになるらしい。
ニーチェ読んだこと無いからワタクシ自身の言葉としては言えないけど。
しかし、これでニーチェも読んでみようかと思った。




Posted at 2019/01/30 19:00:21 | コメント(2) | トラックバック(0) | 活字部 | 日記

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「今日は珍しく電車移動でお出掛け。
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