私は気付いたのだ。
ハードボイルドな“プロの素人”には
テーマ曲が必要だ、と。
遺憾ながら、前回の報告書を作成した時点ではその事に思い至らなかった。
既に多くの同志達の目に触れた後だが、私は前回の報告書に添付ファイルを追加した。
この先を読み進む前に、
一度立ち戻って確認してくれると嬉しい。
これ以上無い、最適なテーマを選んだつもりだ。
ハードボイルドで、不穏で、闇に生きるエージェントを彷彿とさせる、素晴らしいテーマだ。
…
“親に隠れて悪巧みをしている子供のような”と表現した方が一番しっくりくる気がするのは気のせいだ。断じて気のせいだ。
ただ、歌詞は気にするな。日本人には理解しづらい黒冗談だ。
併せて、ファイル名にサブタイトルを付けておいた。
数字だけで管理するのは味気無いからな。
…ところでハードボイルドとはどういう意味だ?
こういうムードの時にはそう言っておけ、と教わったのだが。
私が半熟卵が苦手だという事と関係があるのか?
無駄話が過ぎたようだ。
本題の続きだ。
今回の報告書にもテーマ曲の添付ファイルを用意したぞ。
私は失敗から学ぶ主義だからな。
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そう、私はMr.Xの機体をいよいよ始動させたのだ。
私の愛機の上位互換機である
『昴GVB型戦闘機』。
カスタマイズチューンドアップされている項目も、私の愛機と似ている。
私が今この機体のステアリングホイールを握るのは、Mr.Xから請け負った任務によるものである。
本来ならば個人的な感情を挟む事は許されないのだが、我が愛機よりも基本性能に優れるその機体を
今から私の手で操れるという事実に口元が緩むのを禁じ得ない。
…残念ながら私はプロとしてまだまだ未熟なようだ。
抑えきれぬ期待感を胸に、しかし私は平静を装ってエンジンに火を入れた。
程よいホールド性のシートに収まった私の身体を心地よい振動が揺らすと共に、
予想よりも少し高く軽やかな炸裂音が耳朶を打つ。
しばし、そのハーモニーを味わった後、
私はギアを1stに滑り込ませ、クラッチの感触を探りながらゆっくりとペダルを上げた。
微かにクラッチが駆動を伝え、その白い機体がスルスルと動き出す。
アクセルペダルの上に置いた右足に力を込め、スロットルをジワリと開ける。
その瞬間、私は戸惑った。ある種の衝撃を受けたのだ。
「なんだこれは…!?」
「…遅……い…?」
いや、まさか??
私の『昴GH型汎用機』よりも基本性能に優れ、格闘戦に特化した『GVB型』だ。
しかもこの機体は出力ゲインを向上させてあるのだ。
そんな筈は…
と、今度は少し強くスロットルペダルを踏み込んだ。
おかしい…
やはり最初に感じた違和感が拭えない。
どういう事だ…?
“前に進まない”
と感じた。
私はそう感じたのだ。
軽い混乱状態にある頭の中を落ち着かせようと、冷静に考えてみる。
私の愛機の感覚で踏んだら、機体の推進力が私の期待値よりも低かった。
出力曲線の立ち上がりが私の愛機よりも遅いというのか。
…トルク?
そう、トルクだ。
私の愛機の方がトルクがある。
この機体は低速域のトルクが乏しい。
…なんという事だ。
自分が複雑な感情に支配されているのが解る。
私が手塩にかけた愛機が、上級機よりも優れた推進力を有している。それは嬉しい。
しかし、それは許されるのか?
予め定められた理に抗う、言わば
“神に牙剥く”行為だ。
私は“神”などという非論理的な概念は一笑に付す立場である事を明確に表明しておくがしかし人心を掌握し思考・志向を平坦化し支配者にとって都合の良い価値観を植え込みコントロールし無自覚なる盲目的尖兵としてまやかしの充足感を与えその集合体によって世界を構成する“信仰というシステム”の“合理性”については評価する。
…いや、待て。
混乱の余り思考が逸脱しているではないか。
しかも今の一文、私はいったいどこで息継ぎをしたのだ?
落ち着け。
まだ数十m走っただけではないか。
アクセルを二度踏み込んだだけではないか。
まだ何もしていないではないか。
前方の信号が黄色になった。
右足をアクセルペダルから10cm左へ移し、ブレーキペダルを軽く踏み込む。
次の瞬間、またしても戸惑いが襲った。
「止まらない…」
いや、その表現は正しくない。
制動力は発生しているし、機体の速度は落ちている。
しかしその減速の程度がまたも私の期待値を下回ったのだ。
なぜだ…?
資料によれば、この機体のブレーキパッドは
一年前、どこかのKICHIGUYが発火させてケシズミにした物
と全く同じ銘柄のエメラルド色のパッドだ。
一般的に見れば“必要にして充分”な性能のスポーツモデルである。
どこかのKICHIGUYのように、用法・用量を正しく守ってお使いにならなかった“うつけ”の事例は除くのだが…
…奇妙なことに、
私自身、同じパッドを使用した経験があるような、おぼろげな記憶が瞬いた。
そう、奇しくもそれは一年程前のように思う。
随分キィキィピィピィと鳴き喚く、躾のできていないパッドだと思ったものだが…
…はて?
あの時のパッドは新品だった筈だが、一ヶ月後には青い別のパッドになっていた気がする…
なぜだ…?
思い出せない…
おかしい…
そこだけ靄がかかったように記憶が曖昧だ…
どうしたことだ…?
まさか…!
“機関”の精神攻撃か?
私の過去には“機関”にとって都合の悪い“何か”が在ると言うのか?
…いや、落ち着け。
私は“プロの素人”だ。
私には今やるべき事がある。
“自分探しの旅”に旅立つ時は今ではない。
それに、“自分探しの旅”という
思春期厨二脳の専売特許を決行するには、
“青春18切符”というこれまた青臭いネーミングの
PlatinumTicketが必要らしい。
私には望んでも手の届かない世界だ…
…任務に戻らねば。
私の使命は、あくまで“装置”(しゃちょこーと言うのだったか?)の動作確認だ。
とにかくこの機体を一定距離走らせねばならぬ。
ともあれ。
特に性能の悪いパッドではないハズなのだ。
しかし、先程の感覚では制動力に不安が無いと言うと嘘になる。
私がかつて使用した(であろう)時の感覚は余り覚えていないが、
印象が薄いというのは逆に言えば、一定水準の性能は有していた、という事になるのではないか?
なにぶん記憶が曖昧な為、確証は無いが。
クソッ、“機関”め。まさかこのような妨害に出るとは…
…となると…
…そうか…重さか?
機体の重さだ。
確かこのGVB型の機体重量は1510kg。
私の愛機GH型は1370kgだ。
その差140kg。
成人男性二人分の重量差が有ることを考えると、
なるほど、先程の推進力の違和感と併せても物理法則的に仮説の筋は通っている。
勿論、重量だけが要素では無かろうが、少なからぬファクターとして影響を与えているのであろう。
自分の中で一定の納得が得られたところで
私は気を取り直して、機体のノーズを南へ向けた。
山越えだ。
…Dr.hのラボが居を構える(同時に私の潜伏地でもある)この街からは、
どの方角を向いても 山 なのだが。
今そういう事は気にしてはいけない。
こういう時は雰囲気が大事なのだ。
そうして私は南の山地へ続く道へと舵を切った。
日が傾き始めている。
“訓練”を始める頃には闇のヴェールが降りる事だろう。
好都合だ。
to be continued...