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2018年02月18日 イイね!

30年30万キロの歩み~第2章「私の時代」~

30年30万キロの歩み~第2章「私の時代」~クレスタ30年30万キロ記念ブログ
前回は第1章「母の時代」をお送りしました。

引き続き、今回は第2章「私の時代」をお送り致します。





1994年~生まれる時代を間違えた男、爆誕~


とある産婦人科を後にする車があった。

運転手は父が。
後部座席には、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた母の3人が乗っていた。


この赤ん坊こそ、後の1G_HEARTBEATである。
そして親子が乗るこの車こそ、クレスタである。



この時、生まれて初めて乗った車がクレスタとなった。



私とクレスタとの長い関係は、この時始まったのだ。







1995年~覚醒~



私が1歳になった頃、まるで定めだったかのような出会いがあった。


親子3人でディズニーランドへ行った時のことである。
両親は私の1歳のプレゼントにと、お土産屋にてプルバックで走る車のおもちゃを買った。


帰宅して早速私に買ってきたおもちゃをプレゼントした。
ちなみに私は、今まで与えたおもちゃにはほとんど興味を示さなかったのだが、この時は違った。


母がおもちゃの車を走らせてみせると、私は大層興奮した様子で食いついた。


母「こんなによろこんでるの初めてじゃない!?」
父「そうだな!車がお気に入りなのかもな」


その後も長いことこのおもちゃの車を手放さず遊んでいたという。
思えば、私の車好きはこの時に覚醒したのではないかと思う。




大体の男の子が、ロボットや特撮ヒーローにハマる頃、私はそういったものに一切興味を示さなかったという。
喜ぶのは車のおもちゃだけだったため、買い与えられるおもちゃは車ばかりになっていった。




私の記憶が始まった頃、130ハイラックスサーフのおもちゃで遊んでいたのを覚えている。




それからしばらくして、私は立派な車好きの幼稚園児になっていた。
どこに行くにもミニカーと車の図鑑を持ち歩いていた。

街で走っている車の名前なんかも、ほとんど言えるようになっていた。




この頃まではあくまで普通の車好きの子供だったと思う。
それが少しずつ変わり始めるのはもう少し先の事・・・




2007年~かあちゃんの車って古いよな~



私が中学校にあがった頃、自分に変化が生じ始めた。
今までは新しい車が好きだったし、古い車のことはほとんど知らなかった。


あるとき、古いなとしか思っていなかった母の車に興味を持ち始めた。


私の世代では、すでに携帯やパソコンが身の回りにあるのが当たり前であった。
そのため、情報を手に入れたり、動画を見たりするのは容易なこと。

私は母の車について調べていくうちに、気づいたら母の車と同世代の他の車種にも興味が出始めた。


そうなったが最後、古い車が好きになるのに時間はかからなかった。


これと時を同じくして、好きな音楽にも変化が生じた。
今までは流行りの曲しか聞いていなかったが、好きな車と同じ年代の音楽を聴くようになっていた。
80年代の車・80年代の音楽が大好きになり、どっぷりと浸かっていくことになるのであった。


そうして、私の土台がこの頃に出来上がるのであった。




そして月日が流れた・・・





2013年~念願の免許取得~




すっかり周囲の人間とはズレ、80年代一色に染まった私は、毎日指折り数えてある日の到来を待ちわびていた。
その日とは、18歳の誕生日である。


幼い頃から大好きだった車に乗れる日がようやく目前に近づいて来たのだ。


そしてついにその日はやって来た。
高校卒業の前日、卒業式の予行練習をさぼって免許の本試験を受けに行った。
結果は無事に一発合格。




そして高校の卒業式当日、行きは母の運転で学校に向かった。
卒業式が終わり、帰りは私が運転して帰る事になった。


念願の初運転である。
運転席に座り、キーを回した時の感動は、卒業式の感動なぞ忘れるほどのものであった。

私より緊張した様子の母を横に乗せ、走り出した。




この時、生まれて初めて乗った車と、生まれて初めて運転した車が同じになったのだ。








無事帰宅し、母をおろした私は早速友達を迎えに行った。

どこに向かうかは既に決まっていた。
車好きのメッカとも言える筑波山である。

初めての峠道を、手に汗握りながら登った時の高揚感は今でも鮮明に記憶している。




はじまりの場所、筑波山であった。





免許を取って1週間も経たないある日、母が卒業旅行に連れて行ってくれると言った。
行先は静岡。


卒業後暇を持て余していた私はすぐに承諾し、翌日出発することになった。



母「お前運転な」



私「・・・え!?」







スパルタな母は免許取得後1週間も経たない私に、首都高と箱根の山を運転させた。
かなりビビったが、おかげであっという間に車の運転に慣れることができた。







免許取得後は毎日車に乗りたくて仕方がないものだ。
かくいう私も、毎週のように筑波山に通っていた。

その筑波山では、沢山の車好きの方々と知り合った。

はじまりの場所筑波山は、まだまだ未熟な私に様々な知識と出会いをくれたのだ。


ある時、運命とも言える出会いがあった。





その晩も、筑波山に走りに来た。
駐車場でのんびりしていると1台の車が入ってきた。

月明かりが照らしたその車は、赤黒ツートンが映えるDR30だ。
ハチマルヒーローで知って以来、大好きな車の一つであった。
(実はこのDR30、私が路上教習をしている際に、コンビニに停まっているのを目撃したことがあった。そのときの車に再会したのだから、まさに運命の出会いである)

興奮を抑えきれず、近づいていきオーナーに話しかけた。

はじめは訝しげな様子のオーナーであったが、80年代車好き同士、打ち解けるに時間はかからなかった。


その後、朝日が昇る時間になるまで車トークで盛り上がった。



DRのオーナーさんの話のなかで、筑波山で車の集まりをやっているという話がでた。
次回はいついつにやるので、よかったら来てよとの事。

私は絶対に行くぞと決意した。




そして話にあった日、筑波山に向かうと・・・
本当に80年代~90年代の車が集まっていた。

そのなかに以前会ったDR30を見つけた。
早速クレスタを停めオーナーに話しかけにいった。


私「お久しぶりです!以前お会いしたクレスタのものです!」
DRのオーナー「ああ!あの時の!本当に来てくれたんだ!」



以前会ったときに連絡先を交換したりしなかったので、私が来るかどうかは半々だと思っていたそうなのだが、本当に来たので嬉しかったとの事。


初めて参加した車のイベントは最高に楽しかった。
そのイベントこそ・・・





筑波山ミーティングである。
(注:写真は最近のもの)

ここでは様々な方と交流し、みんカラの存在を知ったのもこの時であった。


ここからの交流の広がりは早かった。
さっそくみんカラを始め、沢山の人々と知り合った。


ここから更にイベントへの参戦や、交流を広げていくことに・・・





↑筑波山ミーティングで知り合った方や私の友人とともに旧車天国に初参戦したり・・・





↑茨城空港のイベントにも初参戦。





↑秋ヶ瀬ミーティングにも初参戦。





↑前回までは一人も知り合いのいなかったハチマルミーティングでは、沢山の方々とお話しできるようになったり・・・


はじめて、同年齢の80・90車好きの方と知り合うことにもなった。







↑Toshiミーティングにも初参加。
同年齢の輪がさらに広がることに。





↑71の日にも行ってみたり。


高校の頃から読んでいた雑誌があった。
いつか自分も載りたいと思っていたが、本当に実現することになった。





↑初めて雑誌にクレスタと私が掲載された。
白黒ではあったが、嬉しくて何冊も買った。





↑初めてカラーで掲載された。
嬉しくて本屋で買い占めた。


様々な方との縁で実現したのは、雑誌だけではなかった。

ある時、71マークⅡのミニカーが発売された。
ミニカーを集めるのが大好きな私は迷わず購入した。


聞くところによると、このミニカーは実車のモデルがいるという事を知った。


「クレスタも発売して欲しいな~その時はうちのクレスタがモデルになれたらな~」


なんてことを夢のように思い描いていたのである。





そんな夢が現実のものとなったのである。

実際に私のクレスタがミニカーのモデルとなり、発売されることになったのだ。


これは本当に嬉しかった。
母も「一生の記念になった、今まで所有していて本当に良かった」と言った。


こんなことは私一人の力では絶対に実現しなかった。
様々な方々の協力と縁があったからこそだ。


本当に感謝である。







↑成人式もクレスタとともに迎えた。





初めて彼女を乗せてデートしたのも、このクレスタだ。





そして念願であった、同年代のGX71乗りとも知り合うことができた。
車の方向性や趣味嗜好が他人とは思えない方で、非常に嬉しい出会いだ。




唐突だが、ここで言っておかなければならないことがある。




それは・・・




実は私はクレスタという車自体はそんなに好きではないということである。



個人的には「運転が楽しく、コンセプトが明確で、作り手の情熱を感じる車」が好きなのだ。

この点クレスタは実に平凡で退屈な車なのだ。


しかし、決して嫌いというわけではない。


運転しやすいし、狭いながらも大人4人がちゃんと乗れる。
税金もバカ高くないし、燃費だって劣悪ではない。


当たり前だが、現代の車のように楽で快適ではない。
あちこちボロボロで嫌になることもたくさんある。

実際に嫌になり、浮気をしたこともあった。

しかし、何故かクレスタに戻ってきてしまうのだ。


どハマりすることもないが、時間を共にすればするほど離れられなくなる。


私とクレスタの関係は、お互いの良いところも悪いところも知り尽くした熟年夫婦のようなものかもしれない。
愛はないけど情はある。
昔からそこにあるのが当たり前だからこそ、有り難みが薄れていて、
無くして初めて大切さに気付くのかもしれない。


楽しい時も辛い時も


私の傍にいたのはクレスタなのだ。


そう考えるとクレスタはやはり、かけがえのない存在であると思った。










なんだかんだ文句を言いつつも、これからも共に歩んでいくのだろう・・・






第2章「私の時代」 完






「30年30万キロの歩み」は以上になります。
最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。

ここからは、あとがきのようなものになります。
やはり丁寧口調の方が慣れています。
本編は書いていて違和感しかありませんでした(汗)
読みにくいところがあったかと思います。
申し訳ありませんm( -_- )m


こうして振り返ってみると、免許取得後の5年間は怒涛の勢いでありました。


そんななか、意識の変化も多々ありました。
免許取得当時は、クレスタを弄るつもりマンマンでした。
MT載せ替え、ローダウン、タコ足等々・・・
実際にアルミ入れたり、ダウンサスを入れたりもしました。
しかし、2年後くらいにはやはり車はノーマルが一番だと思うようになり、
フルノーマルに戻したりしました。


ここにきてクレスタ30年30万キロというのは一つの区切りであるように感じます。


最近は車に対して少し冷めてきている自分がいます。
洗車の回数は目に見えて減り、ドライブに行くことはほとんどなくなりました。
ピーク時には年3万キロ弱走っていましたが、今では1万キロ弱になりました。

自覚した当初は焦りと驚きがありましたが、今はそれでいいと思えるようになりました。
あえて距離を置くことで、今までより視野が広がったと思います。

冷めてきたと言っても歩みを止めるわけではありません。
これからは少しペースを落として、のんびり向き合っていこうと思います。
やはり私にとって車とは、切っても切り離せない大切な物ですので^^




そして最後に、
これまで出会ったすべての方々に、心より感謝申し上げます。

私が得た知識の数々、貴重な経験、有意義な時間は、
皆様との出会いなくしてはあり得なかったものです。

今の私があるのは皆様のおかげです。
本当にありがとうございます。


これからもポンコツなクレスタと私を、宜しくお願い致します。




1G_HEARTBEAT
Posted at 2018/02/18 22:58:34 | コメント(6) | トラックバック(0) | クルマ
2018年02月16日 イイね!

30年30万キロの歩み~第1章「母の時代」~

30年30万キロの歩み~第1章「母の時代」~猫大好きなのに猫アレルギー(涙)
1G_HEARTBEATです(笑)


2018年2月11日
クレスタの走行距離がついに30万キロを超えました!





今までの最高記録は前期エミーナの29万キロ台だったので、今回約11年ぶりに記録更新となりました!


それを記念して、クレスタの30年30万キロに至るまでを振り返ってみたいと思います。
今回のブログはだいぶ長くなりそうですので、2部構成にしようかと。

1章の内容は「クレスタと母の時代」
2章の内容は「クレスタと私の時代」

といった内容でお送りします。




それでは本編の方へ参ります・・・




時は198X年!世界は核の炎に包まれた!(違)


1988年~高校3年生~


18歳になり、運転免許を取得した母には欲しい車があった。
その車とは・・・





当時、後期型が新車で販売されていたEP71スターレットであった。


ちなみに仕様は

・ターボSの3ドア
・黒銀ツートン
・AT
・サンルーフ



夏休みにはほぼ毎日バイトを入れ、頭金を必死に貯めてディーラーに見積もりを取りに行った。

しかし、もう免許を取ったとはいえまだ高校生。
必死の交渉も空しく、親の許可が下りることはついになかった・・・。


欲しかったスターレットが買えないとなった母は、なにもかもどうでもよくなった。
必死にバイトして貯めたお金で、テレビやステレオなどの家電を買いまくったという。


(この後このスターレット以上に欲しい車にはとうとう巡りあえず、2018年になってもいつかは所有したいと思い続けるのであった。)


当時の母には付き合っている年上のカレシがいたそうな・・・

そのカレシの家が相当なお金持ちだったという。






カレシの車はMS125クラウン ロイヤルサルーンG
(注:写真は母の成人式の時なので、ブログの時系列とずれています)

車が買えなかった母は、この12クラウンを借りて乗っていたり・・・






カレシの家には、ディーラーとの付き合いで買ったというGS131クラウン
(2000だったのは覚えているが、詳しいグレードは覚えていない)があり、ほとんど乗っていなかったのでそれも借りて乗っていたり・・・


なんて贅沢なのでしょう!!
今と違って当時は、クラウンなんておいそれと買える車ではなかったというのに(羨ましい!)




それから数ケ月が過ぎた。



1989年~高校卒業&就職~




高校を卒業した母は、県内の会社で働くこととなった。
田舎なので、車がなければ通勤なんてとてもじゃないができたもんじゃない。


ここでとうとう初めてマイカーを買うことになったのだが、スターレットの夢破れてからというもの、車に対する興味はほとんど失っていた。


近所の中古車屋に向かい、店頭に置いてある車を指さして

「これでいいです。」

と、なかば投げやりに決め購入。
その適当に決めた初マイカーとは・・・






AE86カローラレビン GT-APEX
であった。


適当に決めてこのチョイスとは、わが母ながら恐るべしである(笑)


なんだかんだ初マイカーは嬉しく、いろんなところにドライブに行った。
だがしかし、何故か夜の山道では必ずと言っていいほど煽られたそう。

長年疑問に思っていたが、その疑問が解決するのは十数年後であった。
私が母に頭文字Dのアニメを見せたときに、走り屋という存在を知って疑問がとけたそう(笑)



1年ほど乗ったレビンであったが、ある日兄が車の交換を持ちかけてきた。
兄が乗っていたのはアルト。
軽自動車と普通車の交換なので、差額分位のお金を払うという。
適当に決め愛着が無かったレビンは、二つ返事で交換されることになった。



兄に渡りまもなく、レビンは右直事故により廃車となる。
しかし、車屋の店員に「自分で直して乗るので譲ってくれ」と懇願され、譲ることに。


今でも神格化されたが如く大人気のAE86。
この時直されたレビンは、今もどこかで走っているかもしれない・・・。



ちなみに母の方も、兄と交換したアルトがまもなくして故障してしまった。
車が無くては生活ができないので乗り換えることに。



1991年~運命と波乱の出会い~




壊れてしまったアルトにかわり、次の車を検討していた。

当時母の父は胃を患い、都内の病院まで通っていたという。
病院の送り迎えをするにあたり、父親と付添いの母親を乗せるのに、乗り降りしやすい4ドア。
父親の体に障らないように乗り心地の良い車が条件となった。


実は母には、スターレット以外にも憧れている車があった。

しかし、その車はスターレットとは違い高嶺の花。
現実的に手に入れることはまずできないので、憧れだけでとどまっていた。


その車こそ・・・






クレスタ スーパールーセント ツインカム24
であった。


送り迎えをしてもらうということで、今回は父親が車を買ってくれることになった。
自分では買えない高価な車も手に入れられるチャンスが不意にやって来たのである。


そうなればあの時の憧れが、胸に再来するのは必然であった。


しかし、91年当時GX71クレスタは次の型である81しかも後期型へとモデルチェンジしていた。
本当は新車で欲しかったが、仕方がないので中古で探してもらうことに。


友達の知り合いが中古車屋をやっているというので、以下の条件でクレスタを探してもらった。

・スーパールーセント ツインカム24
・後期
・パールツートン
・デジパネ
・AT
・フルノーマル



上記の条件は絶対だったそう。
スターレットの頃から条件にはうるさく、少しでも違うならいらないとまで言う拘りっぷりは、わが母ながら流石と言わざるを得ない(笑)


あたりまえだが91年当時、71は売れまくったおかげで流通量が多く、条件通りの車両が見つかるのに時間はかからなかった。


早速オークションで落としてきてもらった。
店に届いたという連絡を受け、母親とともに見に行くことになった。


憧れの車を目の前にし、上機嫌で車をチェック!
しかし、気になる点があった。


全体的にピカピカのクレスタであったが、ボデイーの一部に塗装が歪んで見える箇所があった。
早速店長に聞いてみると「それはワックスの拭き残しだよ」との事。

車は好きだが詳しくなかったので「それなら大丈夫か」と納得した。
一緒に見に行った母親は、「あんたこれ事故車じゃないの?他のにしなよ。」と言うではありませんか。

自分より車に詳しくない母親の言うことはスルーし、購入することに。


91年当時もまだまだ人気のあった71クレスタ。
たとえ自分が買わなかったとしても、すぐに他の買い手が付くのでキャンセルすることも可能だったが、憧れの車が好みの仕様で目の前にあったら冷静になるのは難しい。






なんやかんやでついに憧れのクレスタを購入!


しかし、近所の整備工場に車検に出したとき、事件は起きた。




整備工場の社長「この車、事故車だぞ。」




購入する時に気になった例の塗装のムラと、エンジンルーム内を見た社長がそう断言した。

塗装も再塗装であることも見抜いたし、ラジエーターコアサポートに打刻が無いのですぐにわかったという。
車に詳しい人が見れば一目瞭然であったが、車は好きであっても、詳しくは無い母が見抜けなかったのは仕方ないと言えばそれまでだ。


社長「この車いくらで買った?」
母「人気があってオークションでかなり競ったみたいで、新車と同じような価格です」

社長「あ~~気の毒だけど、それやられたよ!結構な事故やってるみたいだし、ぼったくられたね」
母「・・・」


あのとき一緒に見に行った母親の直感は正しかったんだなということと、「友達の知り合い」ほど信用できない人間は居ないなと学んだそうな・・・


とは言っても、本来敬遠される事故車が、この後数十年にわたり乗られ続けることになるのだから、わからないものである。


そんな波乱に満ちた出会いであったクレスタだが、憧れだった車を手に入れたのだ。
大層気に入り、色んなところにドライブに行っては毎週のように洗車や掃除をして大切に乗るのであった。




第1章「母の時代」 完


第2章「私の時代」へと続く・・・







Posted at 2018/02/16 21:44:08 | コメント(4) | トラックバック(0) | クルマ

プロフィール

「エミーナ10万キロ達成!」
何シテル?   06/09 08:48
■家族の愛車 ●私 ・DAIHATSU MIRA AVY [L250S] ・TZR250 [1KT] ●家族共用 ・TOYOTA ESTIMA EMINA 2....
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