今日は島崎自動車さんにクルマを預けてきましたが、折角お金を掛けるのだから、早々にブッシュ祭りを完了させないと・・・ってことで、何年も放置していたグリスまみれのリアアクスル周辺の部品と、一緒に入浴してみました。
あとは手持ちの、Assyされている状態のハブとハブベアリングを、どうにかして分離させたり、メンバーを買えば、リア周りの作業は出来る・・・のかな?
さて本題です。
今日は、皆が色々な想いを持っているでしょうが、自分も色々とね・・・
あの日、揺れの中、机の下にもぐったり、徒歩で帰宅しながら感じた事とか、今でも時々思い出してたり・・・
そういえば、今日のY!ニュースにも再掲されていたのだけれど、震災直後に、ビートたけしが雑誌のインタビューで語っていたこと・・・当時、まさしくだなって思いました。
以下、今日の記事より一部抜粋です。
転載元:http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140311-00000000-pseven-ent
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常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。
じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。
人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。
本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。
一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。
そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。
だから、日本中が重苦しい雰囲気になってしまうのも仕方がないよな。その地震の揺れの大きさと被害も相まって、日本の多くの人たちが現在進行形で身の危険を感じているわけでね。その悲しみと恐怖の「実感」が全国を覆っているんだからさ。
逆に言えば、それは普段日本人がいかに「死」を見て見ぬふりしてきたかという証拠だよ。海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。「当事者」になって死と恐怖を実感して初めて、心からその重さがわかるんだよ。
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Posted at 2014/03/12 00:47:09 | |
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